第100話
明治文明開化の先達にして慶應義塾の創立者
福澤諭吉は天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)、大阪堂島の豊前中津藩蔵屋敷にて廻米方福澤百助次男として誕生した。「諭吉」の名の由来は、漢学の研鑚を積む父百助が『上諭条例(じょうゆじょうれい)』という64冊の漢籍を入手し喜んでいるときに男子が生まれたことにちなむ。
百助は、13石2人扶持の下級武士ながら極めて有能で、重用される傍ら漢学者たるべく研鑚を積む。伊藤東涯に私淑し実践道徳も学んでいる。東涯の弟子が青木昆陽で、その弟子の前野良沢はほぼ同時代の中津藩の蘭方医であった。
百助は天保7年(1836)に病死。妻順は当時33歳、5人の子どもを連れて中津に帰藩した。諭吉は、自伝によれば物心ついた子供のときから酒を好み、手先は器用だが運動は不得手、叔父の養子となり中村姓を名乗る。14、5歳ごろから漢学(特に春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん))を学び、居合術の立身新流にも入門、後に免許皆伝を許された。居合いは終生鍛錬のため励んだが、晩年にいたるも毎日千本を抜き、医者からやり過ぎだと止められた。
安政元年(1854)、諭吉は家老の息子・奥平壱岐(おくだいらいき)に随行して長崎に行き、そこでオランダ語や砲術を学ぶ。しかし壱岐は、あまりに優秀な諭吉の存在が煙たくなり、諭吉の母が病気になったと偽って諭吉に帰郷するよう仕向けた。実はこの画策は諭吉にはばれていたが、諭吉は長崎に居づらくなり江戸に向かおうとする。そしてその途中の大坂で、兄三之助の勧めにより緒方洪庵の「適塾」に入門することとなった。
適塾に入門後の安政3年(1856)3月、諭吉はチフスに罹って重体となるが、洪庵・八重夫妻の手厚い看護で回復、恩顧に感激し、生涯実の親のように仕えることになる。同年9月に兄三之助が病死、中津に帰り福澤姓に戻り家督を継ぐ。同年11月には適塾に戻って内弟子となり、翌年には塾長に選ばれる。適塾での日常は、議論、乱闘、泥酔、放歌談笑を何よりも好むと「自伝」に詳しいが、安政5年(1858)藩命により出府。奥平家中屋敷の長屋に蘭学塾を開く(後の慶應義塾)。以後、諭吉と大阪のつながりはほぼなくなる。
「自伝」には安政6年(1859)24歳の時、開港間もない横浜を見物し、英語以外は通じないことにショックを受け英語への転向を決意し云々とあるが、実際は半年早く蘭英辞書を入手し、英語の研究を始めていたようだ。まさに先見の明である。翌万延元年(1860)には軍艦奉行、木村摂津守の従僕扱いで咸臨丸に乗船、サンフランシスコへ渡航、現地にて中浜万次郎と共にウエブスターの辞書を購入し、日本へ初めて輸入した。
文久元年(1861)、結婚。翌文久2年(1862)、幕府遣欧使節の随員として渡欧し、フランス、イギリス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガルを歴訪して同年12月に帰朝。文久3年(1863)、塾生に英語を教え始める。同年恩師洪庵死去、長男一太郎誕生。
元治元年(1864)、幕府外国方翻訳局に出仕、慶応2年(1866)『西洋事情』を刊行、慶応3年(1867)軍艦受取委員の随員として再び渡米し、東部諸州を歴訪した。
慶応4年(明治元年・1868)、福澤塾を「慶應義塾」と命名。同年、明治政府より出仕を命ぜられたが固辞した。その後、諭吉は明治5年(1872)に『学問のすゝめ』(初編)、同8年(1875)に『文明論之概略』を出版した。そしてこれ以後、数年にわたり東京府議会に選出されたり、東京学士会院初代院長に就任したり、交詢社の発足や『時事新報』の発行なども手がける。また、その傍ら活発な執筆活動や家族旅行を毎年続けた。明治23年(1890)には慶應義塾大学部が設置され、同32年(1899)に『福翁自伝』を刊行。同34年(1901)1月に脳卒中を再発し、2月3日自宅にて長逝した。墓は東京都港区の麻布山善福寺にある。
フィールドノート
福澤諭吉誕生地の碑、豊前国中津藩蔵屋敷跡碑
大阪・なにわ筋の堂島川に架かる玉江橋の北詰、朝日放送ビル南側(元大阪大学医学部附属病院敷地跡)に、福澤諭吉誕生地の碑がある。碑の両側から翼が生えているように見えるが、裏側に回るとそれが鳩の形だとわかる。この碑はかつて同病院の門前にあったが、病院側から「墓碑のようなものを立てないように」と注文がつき、鳩の像にしたそうだ。ちなみに戦前につくられた初代の生誕地碑は、3mを超す銅製の碑だったが、国により徴集された。ちなみに諭吉の師・緒方洪庵が生まれた備中国足守藩の蔵屋敷も、この像の東側近隣にあった。
適塾(史跡・重要文化財)
緒方洪庵は天保9年(1838)、29歳で長崎での勉学を終えて瓦町にて蘭学塾「適塾」を開く。その後、塾生の増加で手狭になり、弘化2年(1845)に過書町の町屋(天王寺屋の別邸)を購入移転する(現在の適塾)。同3年(1846)に大村益次郎が入門、安政2年(1855)に福澤諭吉が入門し、同4年(1857)塾長になる。現在、適塾は大阪大学が管理しており、平成26年(2014)に耐震改修工事を完了した。
大阪慶應義塾
諭吉は地方の学生に就学の機会を与えるため、大阪、京都、徳島などで慶應義塾の分校を開いた。大阪では明治6年(1873)11月に安堂寺橋通り(現在の大阪市中央区南船場)で開校。翌年からは北浜2丁目の小寺篤兵衛の居宅に移った。大阪慶應義塾では、英書科75名、訳書科11名計86名を育成した。
この大阪慶應義塾は、明治8年(1875)6月に閉鎖された。その理由は、大阪以外の学生にとって、大阪に行くのも東京に行くのも費用や手間の点では変わりがなかったことや、大阪慶應義塾では教員が頻繁に変わったこと、商人に学問は不要だとする気風が依然強かったことがあげられる。
そこで同年7月、徳島の政治結社「自助社(小室信夫、井上高格らによって明治7年に設立された自由民権結社)」が毎100円の維持費を拠出する約束で、大阪慶應義塾の分校となる「徳島慶應義塾」が設立された。入塾者は49名に達したが、うち40名は大阪慶應義塾からの転塾者であった。しかし、明治9年(1876)8月に「自助社」の幹部が政治犯に問われ一斉に収監されたことに伴い、同年11月に徳島慶應義塾も閉鎖された。
ちなみに東洋紡の山辺丈夫初代社長は、明治6年(1873)に大阪慶應義塾に約1年間在籍した。現在、大阪慶應義塾があったところは「小寺プラザビル」となり、「独立自尊」と彫られた碑がある。また、京都府庁の正門左手にも「独立自尊」の碑がある。
大阪商業講習所
〔大阪商科大学(旧制)・大阪市立大学の淵源〕
五代友厚は明治元年(1868)、明治新政府より参与職外国事務掛に任命されるが、薩藩士族との軋轢が原因で翌年突然辞職し、大阪に新天地を求め経済活動に身を投じた。同11年(1878)には大阪商法会議所を設立し、初代会頭に就任している。
友厚は同10年(1877)に創刊された『大坂新報』を傘下におさめ、同12年(1879)、かねてより親交のあった福澤諭吉に社員(記者)の派遣を要請し、諭吉はそれに応じ慶應義塾を卒業した加藤政之助を丁重な紹介状でもって推薦している。当時26歳の政之助は、同年8月10日大阪に着任、4日後の14日および15日の『大坂新報』に長文の社説「商法学校設けざるべからず」を書いており、この記事が大阪商業講習所設立の機縁になる。
じつはこの論説は政之助のオリジナルではなかった。即ち、諭吉は明治7年(1874)、後に文部大臣となる森有禮の依頼により商法講習所開設の趣意書『商学校を建るの主意』を公表、翌8年(1875)、東京に商法講習所(後の一橋大学)が開設されたが、政之助の論説は諭吉の『商学校を建るの主意』とほぼ同内容で、政之助は五代、福澤両人合意の上での指示に従ったと推測されている。なお、明治13年(1880)11月15日に発足した大阪商業講習所の初代所長に就任した桐原捨三は諭吉の推挙によるもので、加藤政之助とは同郷、慶應義塾の同期生である。
以上のような次第で福澤諭吉が大阪市立大学の淵源に深くかかわったことと、それに先立ち明治6年(1873)から2年間慶應義塾大坂分校を開いていたことを合わせ、諭吉の第2の故郷大阪への郷土愛を感じることができる。
諭吉が「主意」で特に強調したのは複式簿記の採用で、彼の時代洞察の先見は計り知れない。
慶應大阪シティキャンパス
グランフロント大阪の中核施設であるナレッジキャピタル内に、慶應義塾の関西の拠点となる「慶應大阪シティキャンパス」がある。ここでは慶應義塾主催の各種講演会やセミナーを実施しており、とくに福澤諭吉にちなんだテーマに重点をおいている。通信教育部のオリエンテーションや学部・大学院等のプログラム展開や人的交流、義塾のサテライトオフィスとして活用され、福澤諭吉・慶應義塾の発信拠点となっている。
福澤諭吉の薫陶を受けた主な大阪経済人
筆者が『コンサイス日本人名事典(三省堂)』で調べたところ、次の4人の大阪経済人の名前があげられていた。
山辺 丈夫(1851~1920)
東洋紡績初代社長、津和野藩士の次男、明治6年(1873)大阪慶應義塾に入学し、約1年間在籍。英語を学び、同10年(1877)藩主の養嗣子の教育係として渡英し、ロンドン大学で経済学を学ぶ。在英中に澁澤栄一に乞われて紡績業を調査。帰国後、同15年(1882)に大阪紡績会社を設立。同31年(1898)、資本家ではなく専門経営者として同社社長に就任した。
武藤 山治(1867~1934)
鐘ケ淵紡績社長、愛知県出身、慶應義塾(14~17歳)にて直接諭吉の指導を受ける。19歳で3年間米国留学、経済人として鐘紡を日本有数の企業に育て、衆議院議員として国鉄、郵政民営化をいち早く提唱。昭和9年(1934)テロの凶弾に倒れる。光琳、蕪村、仏画等の美術コレクターとしても著名。
小林 一三(1873~1957)
山梨県出身、明治21年(1888)慶應義塾入学、同25年(1892)卒業。三井銀行を経て箕面有馬電気軌道を設立。阪急電鉄社長、宝塚歌劇創始者。逸翁(一三の雅号)美術館に一三が収集した美術工芸品を数多く所蔵。
山口 吉郎兵衛(1883~1951)
明治31年(1898)慶應義塾理財科卒。山口銀行社長、茶陶のコレクターとして著名。吉郎兵衛の邸宅の一部を「滴翠(吉郎兵衛の雅号)美術館」として改装し、吉郎兵衛の陶磁器を中心とする多数のコレクションを収蔵・展示。
福澤諭吉の主著
『西洋事情』
文明政治の六つの条件(①自由を尊重する法整備 ②信教の自由 ③科学技術の奨励 ④教育制度の整備 ⑤産業振興 ⑥貧民救済)示し、アメリカ、オランダ、イギリスの体制を詳述。慶応2年(1866)刊行。
『学問のすゝめ』
明治5年(1872)~同9年(1876)に出版された、17編におよぶ諭吉の代表作。実学をすすめ、自由平等や国家の自由独立、学問の必要性を説いている。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり(第1編)」は有名。赤穂浪士の仇討ちを、法治を破った私刑の悪例とした「赤穂不義士論(第6編)」や、封建的主従関係に基づく忠義の価値観を否定した「楠公権助論(第7編)」は、後に議論を呼んだ。
『文明論之概略』
文明とは衣食を豊かにし、心を高尚に、身の安楽を計ることにあり、人の知徳の進歩であるとし、日本を文明国たらしめるには、日本国の独立が肝要で、西洋文明を学ぶのもそのためであると説く。その意味で、ヨーロッパやアメリカ合衆国を文明国としている。明治8年(1875)刊行(全6巻)。
『福翁百話』
明治29年(1896)3月~同30年(1898)7月まで時事新報に連載されたものを収録。晩年64歳の作品。壮年期、功利主義者ベンサム、ジョン・スチュワート・ミルを信奉し前掲の『西洋事情』、『学問のすすめ』、『文明論之概略』を表した諭吉とは別の側面、従来の人生訓、道徳論を述べている。
『福翁自伝』
福澤諭吉晩年の口語体による自叙伝。諭吉の人となりに加え、日本近代史を知るうえでの重要文献とされている。明治32年(1899)刊行。
『女大学評論・新女大学』
女子の教養、健康、財産付与を提唱し、「女大学」の七去(夫が妻を一方的に離縁できる七つの理由)の法を批判している。明治32年(1899)刊行。
2019年2月
江並一嘉
≪参考文献≫
・平山洋『福澤諭吉 ―文明の政治には六つの要訣あり―』
・平山洋『諭吉の流儀 ―「福翁自伝」を読む―』
・手塚治虫『陽だまりの樹 全6巻』
・『大阪春秋・第8号「大阪における福澤の系譜」』
・『未来をひらく「福澤諭吉展」図録』慶應義塾創立150年記念(2009・11・10)
・『大阪市立大学100年史』大阪市立大学百年史編集委員会
・『福澤諭吉全集 第20巻』
≪施設情報≫
○ 福澤諭吉誕生地・豊前国中津藩蔵屋敷跡
大阪市福島区福島1(朝日放送ビル南側)
アクセス:JR大阪環状線「福島駅」より徒歩約5分
○ 適塾
大阪市中央区北浜3–3–8
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分
○ 大阪慶應義塾跡記念碑
大阪市中央区北浜2–5–23小寺プラザビル
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分
○ 大阪商業講習所跡碑
大阪市西区立売堀北通3–17(阿波座南公園内)
アクセス:大阪メトロ中央線、千日前線「阿波座駅」より徒歩約5分
○ 大阪シティキャンパス
大阪市北区大深町3–1・グランフロント大阪ナレッジキャピタル(北館タワーC 10階)
アクセス:JR大阪環状線「大阪駅」すぐ
○ 京都慶應義塾跡記念碑
京都市上京区立売通新町西入薮ノ内町(京都府庁正門内)
アクセス:京都市営地下鉄烏丸線「丸太町駅」より徒歩約5分