第59話
「骨」に生涯をかけた骨格医学の先駆者
大坂の舟運を担う重要な経路の一つとして、古くから多くの船が往来した木津川。江戸時代後期、その中洲には鬱蒼(うっそう)と葭(よし)が生い茂り、真昼でさえ誰も近づこうとしない一角があった。ところがある夜、西横堀川から道頓堀川、木津川へと小舟を操り、妖気漂うその場所に忍び込む男女の姿があった。二人はしばらく暗闇にじっと目を凝らしていたが、何やら大きな木桶のようなものを探し当てると、迷わず駆け寄った。そして少しの間、静かに目を閉じて合掌した後、やおらその木桶を担ぎ上げ、もと来た道へと足を速めた。終始無言だが、目配せだけで互いの心を酌んでいる様子から二人の仲睦まじさがうかがえる。
実は、二人が後生大事に持ち帰ろうとしていたものは、何かの罪で磔(はりつけ)に処せられた身元も顔も知れぬ女囚の亡骸(なきがら)だった。
これは決して猟奇趣味の窃盗事件ではない。この男女こそが、わが国最初の骨格医学者・各務文献とその妻・黒井氏である。
医学は実物知るを第一となす
各務文献は宝暦5年(1755)大坂に生まれ、通称「相二」、号は「帰一堂」といった。各務家は代々、赤穂藩浅野家の家臣であったが、元禄14年(1701)の「赤穂事件」の発端となった出来事、即ち、藩侯浅野内匠頭が江戸城松之廊下で吉良上野介に対する刃傷沙汰により主家が取り潰しとなったため、父の代で大坂西横堀に移り住み、文献はこのまちで生まれた。
若くから医学を志し、最初は古医方(こいほう)[*1]を学んで内科・外科の医師となったが、それだけでは飽き足らず、次第に出産の神秘に惹かれていった。もともと凝り性だった文献は、京都で産科を学んだ後、産婦人科を専門とする「済寿医院」を開業して日々の診療に当たるようになった。そのころは医院でお産をする女性はほとんどなく、産婆さんを呼ぶか、姑や母親の経験と知恵を頼りに自宅で子どもを産むのが普通だった。それどころか、お産は不浄だという迷信も根強かったため、母子ともに出産時の死亡率は現代とは比べものにならないほど高かった。
せっかく子宝を授かりながら、お産の段階で多くの母子の命が失われていく状況を悲しんだ文献は、産科医としての自らの至らなさを嘆きつつ、生来の手先の器用さを発揮して8種類の救産具を発明した。今なら難産であっても帝王切開などの対処法があるが、当時は産道を器具で押し開き、鉗子で赤ちゃんを引き出すという危険な方法しかなかった。それほど医学の中で産科はとくに遅れており、子宮の働きはおろか女性の体内の構造もほとんど分かっていなかった。
「医学は相伝に非ず。旧法を墨守すれば千年前に帰するのみ。実物知るを第一となす」。つまり、「昔から受け継がれてきた方法を踏襲しているだけでは、医学は1000年前から何の進歩もない。何よりも大事なのは実証である」と痛感した文献は、産科の研究のため、まず女性の骨格と内臓の仕組みを知ることから始めようと心に決め、解剖学の研究に取り組んだ。
文献の妻・黒井氏(1776〜1845)は夫と親子以上の年の差があったが、そのことを微塵も感じさせぬほどよくできた女性で、自らも猛勉強をして医術を身につけた。夫は研究に没頭して家業をおろそかにすることがよくあったが、その間、妻は夫に代わって医院で診療に当たった。すると、昔も今も妊婦さんの心理は同じだったようで、女性の産婦人科医なら安心して掛かれると、かえって医院は繁盛した。そのため、それまで自宅で子どもを産むのが当然と思っていた女性たちも、通院することが徐々に多くなっていった。
遺体の盗みを夫に持ちかけた妻
妻は医院での仕事が済むと、今度は自分自身が実験台となって文献の前に裸体をさらし、文字通り身を挺して夫とともに女性の身体の機能の研究に励んだ。しかし、身体の外側から内部の構造を知るには限界があった。妻は思い悩んだ末、文献に女性の遺体を手に入れて解剖してはどうかという大胆な提案をした。究極の選択に夫の答えは1つしかなかった。
寛政6年(1794)師走、密かに遺体の調達を依頼していた者から知らせを受けるや、文献と妻は夜陰に紛れ、小舟で葭島(よしじま)に設けられた「今木刑場」に赴いた。葭島は現在の大阪市大正区三軒家東2丁目辺りにあり、当時は木津川と三軒家川に囲まれ「難波島」と呼ばれた中洲で、北部に葭が密生していたためこの通称がついた。恐怖心よりも知識欲に突き動かされた2人は、気味の悪さや悪霊の祟りなどものともせず、30歳代で刑死した女囚の遺体を棺桶のまま持ち帰り、自宅の床下に隠した。
翌日から、夫婦は医院での診療を終えると、夜な夜な、腐臭の立ち込める中で少しずつ遺体の解剖を進めていった。そして、同様の手はずで幾度か解剖を重ねるうち、文献の興味は内臓のさらに奥にある骨へと移っていった。それまでは人間の骨格に関する満足な研究はなく、整骨医といわれる人たちは自らの経験や俗説に頼って施術をしていた。しかも揃いも揃って秘密主義で、自分たちの会得したことを他に教える気など毛頭なかった。そのため、文献は誰かに師事するのではなく、自ら骨関節機構を研究・解明し、骨格医学を樹立することが自分の使命だと考えた。
そのころ和漢で参考にできる書物は皆無で、唯一の解剖学の参考書は西洋医学の『解体新書』(1774年)だった。もちろん文献は同書を熟読し、骨格の概要についてはいろいろ知識を得たが、彼が求めていたほど細部にわたる態様を知るにはまだまだ物足りなかった。
大坂の町人学者たちが実証的医学研究を加速
おりしも寛政10年(1798)、江戸で大槻玄沢[*2]に師事し蘭学を学んだ橋本宗吉(1763〜1836)が、私塾「絲漢堂」(しかんどう・現在の大阪市中央区南船場)を開設。文献は西洋医学から知識を得るため早速入塾した。同門には伏屋素狄(ふせやそてき)[*3]や大矢尚斎(おおやしょうさい)[*4]を始め、当時の江戸の学者に勝るとも劣らぬ優秀な大坂町人学者たちが名を連ねていた。そして、それぞれが文献と同じように実証的な医学を目指していたことから、専門科目の枠を越えて協同で研究に従事するようになった。
幕府に人体の研究のための屍体解剖の願いを出し、3年を経た寛政12年(1800)、絲漢堂に死刑体腑分け(解剖)の許可がおりた。もはや刑場から遺体を盗む必要はなく、公然と人体解剖ができるようになった。文献は人体の骨の形、大きさ、関節の動きのほか、筋肉や軟骨の態様までつぶさに調べ、解剖の所見を自分が中心となって『婦人内景之略図(寛政婦人解剖図)』にまとめた。
同じく腑分けに参加した伏屋素狄は、臓器に墨汁や小豆を入れることにより尿の経路の探索など生理学的実験を行ない『和蘭医話』を著した。
現代にも通用する『整骨新書』を出版
文化1年(1804)、文献は研究成果を『整骨撥乱(接骨発揮)』にまとめ、それを草稿として同7年(1810)に画期的な『整骨新書』[*5]を出版、詳細な骨格解剖図『各骨真形図・全骨玲瓏図』[*6]をそれに添えた。
現在『各骨真形図』を所蔵する東京大学医学図書館・古書籍コレクションの資料解説には「この図には『解体新書』の影響が歴然とみられ、当時の骨学の水準を推し量ることができる」とあるが、文献の骨格写生はそれよりさらに緻密に細かい骨まで克明に描いている。そのため、『整骨新書』は今なお、「日本で最高の接骨医学書」、あるいは「現代の解剖学書にも匹敵する」といった評価がある。
現代の医療への大いなる貢献
文政2年(1819)、文献はこの骨格解剖図に基づいて工匠に実物大の精緻な木製の全身骨格模型をつくらせた。そしてこれを教材として用い、長年苦労を重ねて独自に研究開発してきた「骨格治療法」を門人たちに伝授した。それ以前の整骨治療はせいぜい骨接ぎが関の山だったので、骨格の仕組みに基づいて骨関節損傷や疾患の合理的な治療法を考案し、その情報を惜しげなく公開した各務文献は、まさにわが国初の骨格医学者であった。
晩年、文献の名声は高まり、当時親交のあった大槻玄沢を通じて幕府からも骨格模型の献納の依頼を受けた。幕府医学館に献上した模型の精緻な出来栄えには、当時何かにつけて上方を見下しがちだった江戸の医学者たちも大いに感服したという。
幕末から明治初年にかけて、文献の木骨を基に木製人体骨格模型が10体ほど製作され、西洋近代医学の振興に大いに寄与した。現存する模型3体のうち1体は、東京大学総合研究博物館に「木製全身骨格・通称『各務骨格』」として収蔵されている。
全身骨格模型の完成と同年の10月、文献は65歳で永眠した。夫婦の間には1男1女があったが、長男は幼くして病死したため、門人の中から中山樹(しげき)を選んで養子としていた。妻は夫の亡き後も、夫とともに学んだ骨格治療法を樹に徹底的に教え込むとともに、門人たちの育成に心血を注いだ。そして自らも生涯現役として難しい施術をこなした。
夫婦の子孫はその後、相次いで亡くなったが、近代的整形外科の先駆けともいえる文献の業績は門人の奥田周道らに引き継がれていった。
フィールドノート
各務文献の遺徳を称える人々
各務文献の墓(帰一堂各務先生之墓)は、天王寺七坂の一つ、口縄坂を登りきった場所に建つ曹洞宗・浄春寺の墓地にある。同寺は平安時代の歌人・藤原家隆の菩提寺として開かれたと伝わり、南画家の田能村竹田、天文学者の麻田剛立(当シリーズ第13話)、儒学者の春田横塘など、江戸時代の著名な文人や学者の墓、松尾芭蕉(同第31話)の供養墓があることでも知られている。
夫と二人三脚で整骨術の発展に身を捧げ、弘化2年(1845)9月に70歳でこの世を去った妻の墓石も浄春寺にあり、夫の墓石にぴったりと寄り添い、夫を後ろから力強く支えた生前の姿を彷彿とさせる。碑銘には「大姉之功偉大 遂不墜家声」など称賛の言葉が刻まれている。
文献や妻の墓石は、没年の割に新しい。それは文献の没後160年を迎えるのに際し、一般社団法人日本医史学会(東京都文京区本郷)、大阪府医師会(大阪市天王寺区上本町)、公益社団法人日本柔道整復師会(東京都台東区上野公園)の3団体が、文献の遺徳を顕彰するため、傷みの激しかった墓石を建て直したからである。
傍らに設置された顕彰碑には
と記されている。
残念ながら文献の血統は途絶えてしまったが、一族の墓には今も医療関係者がお参りに訪れていると、お寺の方からお聞きした。中でも、日本柔道整復師会[*7]の全国47都道府県にある下部組織の1つ、公益社団法人大阪府柔道整復師会(大阪市西区靱本町)では、2年に1度、接骨術・整骨術の先覚者である文献の墓に参り、その功績をたたえ感謝することと併せ、浄春寺において同会の物故会員の慰霊祭を継続的に開催しているという。
また、全国組織である日本柔道整復師会は、昭和46年(1971)から、業界で著しい功績のあった会員や学術に優れた会員に、最高栄誉賞として「帰一賞」という賞を贈っている。この賞が、帰一堂・各務文献と、講道館柔道の創始者である帰一斎・嘉納治五郎の双方の号に因んで創始されたことからも、文献が生涯かけて確立した骨格医学が、現代の医療にいかに大きな影響を与えているかをうかがい知ることができる。
※各務文献の生年〜没年は、「1755〜1819」と「1765〜1829」の2説あるが、ここでは『整骨新書』を所蔵する早稲田大学図書館の記述および墓石の記載に従って「1755〜1819」とした。
2018年1月
(2018年8月改訂)
川嶋みほ子
≪参考文献≫
・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂・2001年)
・各務文献『整骨新書』巻首、巻之上、下
(心斎橋通伝馬町 河内屋嘉七・1810年/早稲田大学図書館 古典籍総合データベース)
・各務文献『各骨真形図』(東京大学医学図書館・デジタル資料室)
・東京大学総合研究博物館編『東大醫學』「蘭方医学からドイツ近代医学へ」
・(一社)日本医史学会『日本醫史學雑誌』39巻2号・52巻1号
(1993年6月20日・2006年3月20日)
・医学書院『臨床整形外科』39巻7号・10号(2004年7月1日・10月1日)
・(公社)大阪府柔道整復師会『大阪柔整だよりVol.116』(2016年2月号)
・(公社)日本柔道整復師会ウェブサイト
≪施設情報≫
○ 壬生勝鬘山 浄春寺
大阪市天王寺区夕陽丘町5-3
電話:06−6771−5048
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約3分
○ 絲漢堂跡碑
大阪市中央区南船場3−3−23
アクセス:大阪メトロ御堂筋線・長堀鶴見緑地線「心斎橋駅」より徒歩約5分