JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第25話 曽呂利新左衛門
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第25話 曽呂利新左衛門そろりしんざえもん(生年不詳-1603年)

秀吉を揶揄した快男児

曽呂利新左衛門は落語の元祖の一人と言われてきた。しかし、実在したかどうか、疑問だった。日本史研究家で作家の安藤英男元国士舘大学教授は昭和54年(1979)発行の著書『曽呂利新左衛門』で、「実在の人物であるか否か明らかではない」と書いた。次いで10年後の改訂版では「手蹟も遺っているから・・・実在を否認することはできない」とした。

従来、「曽呂利新左衛門」として有力視されていたのは浄土宗の説教僧「安楽庵策伝」(1554-1642)。江戸時代に人気を博した「曽呂利狂歌咄(はなし)」〔寛文12年(1672)〕に収められている小話のうち、30話は安楽庵策伝編纂の『醒睡笑』が原典になっている。安楽庵策伝は美濃国で生まれ、京都で修業のあと、41歳で堺の正法寺住職となった。その後、京都の誓願寺住職を務め、元和元年(1615)ごろから京都所司代の板倉重宗に笑話を話すようになり、寛永5年(1628)に『醒睡笑』を献上した。曽呂利が実在したなら、二人とも同じころに堺にいたことになり、混同の一因のようだ。

近年、大阪城天守閣の北川央館長らの研究で、公家・西洞院時慶の日記、『時慶記』の天正15年(1587)6月8日条に「ソロリ」の名前が出ていることが分かった。時慶が豊臣秀次の屋敷を訪ねたところ、「ソロリ」という者が現れ、愉快な話しや唐人の物まねをしたと記載されている。北川館長は「これまで曽呂利の初出とされてきた『きのふはけふの物語』〔寛永13年(1636)〕の記述と符合し、曽呂利は実在した」と話す。

『堺鑑』(1684年)や『和泉名所図絵』(1796年)などによると、曽呂利の本姓は杉本氏、名は新左衛門のほか、甚右衛門、彦右衛門など。剃髪の後、坂内宗拾(さかうちそうじゅう)と号した。曽呂利というのは異名で、刀の鞘を作って業としていたが、極めて巧みな腕前で、刀がソロリと鞘に収まるのでこれを名とするようになったという。堺の豪商の一族ともいわれ、歌道、香道に通じ、絵画・揮毫も能くした。茶道は千利休の師の武野紹鷗(たけのじょうおう)に学び、奇智とユーモアに富み、話術に長けていたため、豊臣家のお伽衆(おとぎしゅう:政治や軍事などの相談や世間話の相手役)に推挙された。

曽呂利は800人に上ったというお伽衆のなかでも庶民にもっともよく知られている。豊臣秀吉に辛辣なことを言い、不敵な振る舞いをしたが、分を超えず軽妙なオチをつけ、知遇を得た。心から秀吉を敬愛していたようで、千利休のような咎(とが)めを受けることはなかった。


曽呂利の逸話と堺の町衆

「曽呂利」にまつわる逸話を拾うと、秀吉から「町ではわしを猿に似ていると噂しているようだが、どう思う」と聞かれた曽呂利は「殿下のお顔が猿に似ているのではなく、猿が殿下に似たんです。殿下のご威徳にあやかって努めて似たいと思うのは誰しも同じ」と答えた。あるときは伏見城の前庭で秀吉の留守中に曽呂利が秀吉の大事にしていた柿の木に登り柿の実をもいで食べ始めた。そこに、秀吉がひょっこり帰ってきた。秀吉が「柿の本に 人まろくこそ 見えにけれ こゝは明石の 浦か白浪」と明石に住んでいたという柿本人麻呂をもじって咎めると、曽呂利は「太閤の 御前で恥を かきのもと 人まろならで 顔は赤人」と人麻呂と並ぶ山部赤人の名を借りて狂歌を詠んだ。

また、秀吉が大切にしていた城内の松の木が枯れて落胆しているのを見た曽呂利は「ご秘蔵の 常磐の松は 枯れにけり おのが齢を 君にゆづりて」と詠んで秀吉を喜ばせた。ある日、褒美に黄金を取らせるという秀吉に「毎日、耳のにおいを嗅がせてほしい」と願い出た。曽呂利は諸大名が居並ぶ前で秀吉の脇に座り耳のにおいをかぐため、大名からは秀吉に告げ口をしているように見え、曽呂利に金銀を贈るようになったという。この様子は寛政9年(1797)から享和2年(1802)にかけて出版された『絵本太閤記』に「曽呂利、殿下の耳を嗅で福を得る図」として描かれている。

安土桃山時代、堺では茶の湯をはじめ遊技など文化の花が咲いた。「黄金の日々」を謳歌しながら育った曽呂利は、権力に媚びない気質を持ち合わせていた。軽妙洒脱な逸話が人気を集め、没後に『曽呂利狂歌咄』や『曽呂利物語』(1692年)が次々と出版された。秀吉をやりこめる小話は庶民の憂さ晴らしだったのかも知れない。


フィールドノート

川上音二郎と二世曽呂利新左衛門

大阪市天王寺区生玉町の隆専寺に高さは3メートル近く、横は1.5メートル余り、厚さは30センチの堂々とした石碑が立っている。表に「二世そろり新左衛門碑」と書かれ、裏には「明治34年7月 川上音二郎建立」とある。

二世曽呂利新左衛門(1842-1923)は大阪新町の友禅染屋に生まれ、本名は猪里重次郎。明治に活躍した大阪の落語家だ。ぼんぼん育ちで、遊興三昧に明け暮れて勘当され、京都で幇間(ほうかん)になった。その後、大阪に戻って初代笑福亭松鶴に弟子入りし、幕末の物情騒然とした元治元年(1864)、22歳の時に法善寺裏の寄席で初舞台を踏んだ。初代桂文枝の門に移り、明治5年(1872)に桂文之助を襲名、幇間のキャリアが生きてお座敷での稼ぎ、人気ともナンバーワンの落語家になった。

文枝の死後、二代目文枝襲名をめぐり一門で争いが起きた。襲名が難しいと見て取ると、桂派を飛び出し、明治18年(1885)に「二世曽呂利新左衛門」を名乗った。「二世」は「にせ」に掛けたシャレだった。大正3年(1914)6月に「私儀いまだ死去致さず候えども、来る6月26日午前11時より午後3時まで、生玉隆専寺において仮葬を相営み候、本葬は未定」との通知を出し、生前葬を行った。生前葬では自分の描いた絵などを出し、香典の受け取りに書画の入札の札を添えて渡すという趣向でにぎやかな酒盛りになったらしい。

川上音二郎(1864-1911)は博多生まれで、自由民権運動に共鳴して大阪で新聞発行などに関わった。23歳の時、桂文之助に入門し、浮世亭○○(うきよていまるまる)を名乗った。明治24年(1891)2月に堺・宿院の卯之日座で書生芝居を旗揚げし、東京に進出した。

後ろ鉢巻きに陣羽織、日の丸の軍扇を手に「貴女に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理がわからない。心に自由の種をまけ。オッペケペー、オッペケペッポーペッポーポー」と時局風刺の「オッペケペー節」で一世を風靡し、大流行となった。明治32年(1899)に妻の貞奴と渡米し、翌年にパリ万博で公演、大成功を収めた。「二世そろり新左衛門碑」は音二郎が欧米で成功した絶頂期に建立された。


碑の建立や寄席で「曽呂利」再生

堺市堺区中之町、妙法寺の一角に「曽呂利新左衛門350年忌碑」が建っている。妙法寺は興国4年(1343)の創立。何度か焼失し、武野紹鷗の師で千利休の最初の茶の湯の師だったに北向道陳らによって再建された。曽呂利新左衛門は檀家の一人だったと伝わる。妙法寺の佐々木妙章さんによると、戦後、先々代の八田行誠住職が曽呂利にちなんで境内に鍛冶場を設け、刀鍛冶を呼んできて実演を披露するなど曽呂利の再興に熱心だった。

「350年忌碑」は和菓子店「曽呂利」(堺市堺区宿屋町)の先代の日下義臣さんらが昭和31年(1956)年に地元の人たちに呼びかけて建立した。日下光由社長は「父は曽呂利新左衛門の屋敷跡碑の近くに住んでいた。曽呂利が大好きで、八田住職から屋号に『曽呂利』という名をもらった」という。約30年前、曽呂利の逸話を集めた冊子『とんち絵ばなし 曽呂利でござる』を制作、あっという間になくなった。

落語家・桂福団治さんは、平成23年(2011)2月から堺市内のホテルで「曽呂利寄席」を始めた。二世曽呂利新左衛門の弟子の二代目桂文之助が開いた京都・東山の和菓子店「文の助茶屋」の主人から「曽呂利の名前を残して欲しい」と聞いたのがきっかけだ。曽呂利の逸話を落語に仕立てて演じる。

落語の元祖といわれるのは、露の五郎兵衛(1643-1703)、米沢彦八(?-1714)、安楽庵策伝、そして曽呂利新左衛門だ。露の五郎兵衛は元日蓮宗の説教僧で、延宝・天和(1673-84)のころから京都で辻咄を演じ、人気を呼んだ。米沢彦八は元禄年間(1688-1704)に生國魂神社の境内の小屋に出演し、物まねをしながら軽口をたたいた。曽呂利は4人の中でもっとも古い。

福団治さんは「曽呂利に出てくる逸話は、大阪の商人の処世術と相通じるものがある。権力者を怒らせずにやんわりとやりこめたり、からかったりする。自由都市・堺の空気があふれている。曽呂利のネタはなんぼでもあります」と話す。川上音二郎のオッペケペーも堺で火がついた。「曽呂利寄席」も好評だ。堺にはいまも曽呂利の気風が息づいているようだ。

2017年6月
(2017年11月改訂)

宇澤俊記



≪参考文献≫
 ・安藤英男『曽呂利新左衛門』(鈴木出版1989.5)
 ・安藤英男『曽呂利新左衛門』(千人社1979.8)
 ・北川央『豊臣秀吉のお伽衆と曽呂利新左衛門』(第3回曽呂利寄席講演録2011.10)
 ・露乃五郎『上方落語夜話』(朝日カルチャーブックス1982.8)
 ・大阪城天守閣特別事業委員会編図録『特別展 秀吉お伽衆―天下人をとりまく達人たち』(2007.10)
 ・安楽庵策伝/宮尾與男訳注『醒睡笑』(講談社学術文庫2014.2)
 ・大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)編『上方演芸大全』(創元社2008.11)



≪施設情報≫
○ 曽呂利新左衛門350年忌碑
   堺市堺区中之町東4丁1番3号、妙法寺
   アクセス:南海高野線「堺東駅」より南西へ徒歩約15分

○ 曽呂利新左衛門屋敷跡碑
   堺市堺区市之町東4丁1番
   アクセス:南海高野線「堺東駅」より西へ徒歩約10分

○ 二世そろり新左衛門碑
   大阪市天王寺区生玉町5番4号 隆専寺
   アクセス:地下鉄谷町線「谷町9丁目駅」より南へ徒歩約5分

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association