第69話
世界最古の会社「金剛組」の創始者
- 百済より渡来し四天王寺を建立した工匠
株式会社金剛組の社史によれば、同社の創始者・金剛重光は飛鳥時代の敏達天皇6年(578)、聖徳太子に招かれて仏教建築の先進地・百済から渡来した3人の工匠(金剛、早水(はやみ)、永路(ながみち))の一人と伝わる。聖徳太子はわが国最初の官寺の建立を発願し、彼らに四天王寺の造営を命じたのであった。
日本書記の記述によれば、推古天皇元年(593)「この歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とある。四天王寺の伽藍配置は中門、五重塔、金堂、講堂が南から北に一直線に配置される「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれ、大陸系の伽藍様式の影響が色濃く残る配置だ。当時の最先端技術を集結した壮大な伽藍は、わが国の寺院建築の幕開けともいえる。
3人のうち金剛重光は四天王寺の正大工職としてこの地に留まり、あとの二人は大和、山城に配置されたと伝えられる。四天王寺の伽藍をとり囲む回廊や講堂など全体が完成したのは創建から百数十年経った奈良時代に入ってからであった。そのときには金剛重光はこの世にはなく、金剛家は四天王寺のお抱えの宮大工として、その技術と精神は2代目から3代目と代を重ね引き継がれていった。
金剛重光については全く史料が残されておらず、その活動は残念ながらはっきりしない。四天王寺や金剛家の文書史料は度重なる火災で消失し、中世以前の史料はほとんど現存していない。平安時代に編纂された歴史書『続日本後紀』によると、四天王寺は承和3年(836)落雷で、また、天徳4年(960)に火災で伽藍は失われたことが『日本紀略』に記されている。近世に入ると石山本願寺の戦いや大坂冬の陣で伽藍の大半は焼失や倒壊に遭い、その都度、金剛家の棟梁たちが再興にあたり木造建築技術を高めていった。金剛家の歴史は戦火と自然災害との戦いの歴史でもあった。明治の神仏分離令で四天王寺は寺領を失い、寺付きの宮大工金剛家は、以来、150年にわたり大きな試練の時代をむかえることになる。
昭和7年(1932)、37代金剛治一が経営不振の責任を感じて自死、第2次世界大戦中には政府の会社統廃合策による他社との併合問題など数々の危機を乗り切り、昭和30年(1955)には株式会社金剛組に組織を改める。その後、木造建築と鉄筋コンクリート工法を融合させた独自の技術を開発するなど経営の近代化を図り、広く一般建築をも手がけることになる。
フィールドノート
「金剛組を潰したら大阪の恥や」
世界最古の企業・金剛組は、平成17年(2005)に倒産の危機を迎えた。このとき、大阪の建設業の高松建設グループの高松孝育会長は「金剛組を潰したら大阪の恥や。大阪の上場企業として見逃すことはできない。金剛組の宮大工の国宝級の技術は我々が一丸となって守る」と役員会で告げた。会長のこの熱意に大阪中から激励の声が上り、債権者たちも二つ返事で賛同。「まさに義理と人情、ほんまの浪花節であった」と金剛組社長の刀根健一さん(当時・取締役)は振り返る。
金剛組は、平成19年(2007)には、天禄元年(970)創業の愛知県一宮市の株式会社中村社寺を子会社として傘下に治めるなど、伝統の技術と最新技術を融合させた寺社専門の建設企業として新たな歴史を踏み出した。刀根健一社長は「世界最古というだけではブランドにはならない。これからも企業として生き残るため、日本の木造文化、伝統工法の技術の研鑽に励んで行きたい」と述べられた。
上町台地に建つ難波の二つのランドマーク
大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」。味わいのある駅名だ。4番出口から地上に出ると、四天王寺門前町の雰囲気が漂ってくる。正面に「あべのハルカス」を望み、仏具屋や和菓子屋などの店が所々に残る参道を南に5分ほど歩くと視界が開け、西門の石鳥居にでる。お寺に鳥居とは珍しいが、神仏習合の名残である。扁額の「釈迦如来 転法論処 当極楽土 東門中心」(釈迦如来が説法をする所で極楽の東門)と書かれた黄金色の文字が夕陽に輝く(現在の四天王寺の西門は、すなわち極楽に入る東門である)。創建当時の伽藍配置を忠実に再現した甲子園球場の3倍の11万平方mの広い境内では、毎月21日と22日は弘法大師空海と聖徳太子の命日に因み「大師会(だいしえ)」と「太子会(たいしえ)」が開かれる。300あまりの露店が出る大阪で最大規模の縁日で、骨董品や古い着物それに食物の屋台が並び大勢の人で賑わう。20年あまり骨董品の露店を出す主人は「このところ外国人観光客が増え商売のほうはボチボチ。今日もスペインからの旅行者が徳利と小皿を買ってくれました」と話をしてくれた。
大門を通り過ぎると、南に「あべのハルカス」が姿を現す。地上300mの日本一の高層ビルで、大阪のランドマークだ。伽藍の正面には五重塔が燦然と聳え立つ。現在の五重塔は昭和34年(1959)に再建された本瓦葺・鉄筋コンクリート造り、金剛重光たちが建築を請け負った初代の五重塔から8代目にあたる。当時の四天王寺の五重塔は難波で一番の超高層建築物だったであろう。遠くは明石海峡からも望むことができたという記録もある。難波津に入港する蕃客(ばんかく)(外国からの使節)が見上げる荒陵の丘に聳え建つ五重塔は、摩天楼の如き建物であったと思われる。まさに、難波のランドマークであった。
四天王寺手斧(ちょんな)始め式
四天王寺年中行事の一つで、毎年1月11日に金剛家が執り行う「手斧始め式」という珍しい儀式に参加させて頂いた。「四天王寺手斧始め式」は金剛家が四天王寺の正大工職を受け賜った関係から、今も連綿と金剛家が奉仕する宮大工の新年の仕事始めの儀式である。寛政10年(1798)に描かれた『摂津名所図会』の挿絵『金堂手斧始』の説明文に「金堂において、毎年正月十一日、正番匠、権番匠、副大工、立ち並びて、手斧始の式礼あり、秋野坊(四天王寺の僧侶)は座上に、堂聖・堂任、列をただして厳重なり。之は、皇太子番匠の事を教えさせ給ふ遺風と 装束の正大工、狩衣の権大工、違い鷹の羽の家紋が染め抜かれた大紋を着た宮大工が勢揃い。錫杖引きの先導で行列は中之門を通り四天王寺の境内へ向かう。六時堂前の亀の池の脇で儀式の検分役として陪席する四天王寺の瀧藤尊淳執事長と合流し入堂。金堂の本尊「救世観音菩薩」前の祭壇は神式に設えられ、儀式はロウソクの灯りと四天王寺と金剛家の台提灯の灯りだけの真っ暗な中で執り行われる。普段は非公開で写真撮影は禁止の儀式であるが、動画で神事の模様を残すため特別に許可を頂き赤外線ビデオカメラを使用しての撮影を行った。式次第を読みあげる以外は一切無言で宮大工の棟梁たちによって神事は行われる。杖を打ち付ける「杖打ち大事」。角材に墨を付ける「墨掛け大事」。墨糸を引く「糸引大事」と続き、正大工代務者植松襄一さん(註1)の「えいツ!」という掛け声で手斧を打ち込む「手斧打ち大事」で、式はクライマックスを迎える。しんしんと冷え込む暗闇の堂内、儀式の所要時間はおよそ40分。金堂での儀式が終わると、宮大工の棟梁たちは番匠堂で1年の工事の安全を祈願する。その堂内にある厨子には、曲尺(かねじゃく)を携えた聖徳太子の像が納められている。この中世の神仏習合の形を色濃く残す「四天王寺手斧始め式」は、平成22年(2010)大阪市の無形民俗文化財に指定された。
(註1)平成25年(2013)第39代正大工金剛利隆が亡くなり、後継者不在のまま、翌年の平成26年(2014)から相談役の植松襄一さんが正大工代務者として式を執り行っている。
日本初の女棟梁・金剛よしゑ
金剛家歴代の当主の中に唯一女性の棟梁がいた。昭和7年(1932)から昭和42年(1967)まで35年間、激動の昭和を女棟梁として金剛家を守り抜いた金剛よしゑである。「手斧始め式」で正大工代務者を務められた植松襄一さんは晩年の金剛よしゑに仕えたということで話を伺った。
「私が昭和36年(1961)に18歳で入社した時、金剛組は社員17名の小さな会社で、社長のよしゑさん家族も本社のビルに住み家庭的な雰囲気の会社でした。社長は宮大工など職人を大切にし、自分たちの仕事は浄財でやっているのだから、儲け過ぎないようにと口癖のように話されていました。そんなよしゑさんにとって、昭和7年(1932)9月26日の出来事は突然の悲劇でした。夫の第37代四天王寺正大工・金剛治一が経営難に陥り、万策尽き、先祖に侘びて金剛家累代の墓前で自死したのです。遺されたのは妻のよしゑさんと幼い3人の女の子、それに宮大工たちです。よしゑさんは代々伝えられた伝統の技を夫・治一の死を以って最後にするのはご先祖さまに申し訳が立たないと、強い責任感で金剛家の再興を決意されました。金剛家第38代正大工職の継承を四天王寺に申し出て、前代未聞の女棟梁が誕生しました。専業主婦であったよしゑさんにとって、宮大工の現場は男の世界。男まさりの女性でしたが、『女で大丈夫か』などと陰口を言われながらも、四天王寺の木下寂善管主や檀家総代などの心強い支援と、高度な伝統技術を受け継いできた宮大工たちの支えで命懸けで働かれました」。
植松さんは古い写真を懐かしそうに眺めながら、最後に「金剛家による四天王寺正大工職の復活が悲願で、自分の役割でもあります」と話し、その言葉が強く印象に残った。
昭和恐慌時代に話を戻すことにする。
正大工職に就いて約2年、女棟梁としての評価が問われる一大事が起こる。昭和9年(1934)9月21日、室戸台風が大阪を直撃、四天王寺の五重塔が倒壊し、金堂、仁王門が大破したのである。棟梁のよしゑは、五重塔再建は是非とも金剛組の手でと四天王寺に願い出る。よしゑにとっては始めての大事業だった。工事期間中、着物に法被を羽織り草履履きで現場に立ったという。昭和15年(1940)、5年がかりで総ヒノキ造りの見事な五重塔は再建された。その活躍ぶりは「なにわの女棟梁」と呼ばれ新聞や雑誌でも取上げられ注目を集め、その名は全国に知れわたった。女棟梁誕生から五重塔の再建の物語は、小説になり、昭和14年(1939)、雑誌『大大阪』の第15巻と16巻に『四天王寺五重塔再建秘話 女棟梁金剛芳江未亡人物語』(作・仲田多香史)として連載され評判となった(註2)。
再建された五重塔は5年も経たずして、昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失。第2次世界大戦中は寺院関係の仕事は途絶えたが、宮大工たちも軍事用の木箱を作るなど辛うじて厳しい時代を乗り切った。昭和30年(1955)株式会社金剛組に組織を改め、代表取締役社長に就任。「金剛氏系図」38世金剛よしゑの欄の記載によると、水戸の偕楽園好文亭の修復工事、東本願寺天満別院の建立、福井の永平寺鐘楼の建立、京都大覚寺の多宝塔の建立など全国に活動を広げ、四天王寺以外の「ヨソ」の仕事の受注に東奔西走したことがうかがえる。昭和42年には39代金剛利隆氏に社長と四天王寺正大工職を譲り会長に就任。昭和50年(1975)82歳でその波乱万丈の生涯を閉じた。
(註2)『大大阪』…大正14年(1925)から昭和19年(1944)まで発行された雑誌。1998年大阪都市協会によりCD―ROM化され大阪府立中之島図書館などで閲覧することができる。
金剛組の家訓『職家心得之事』
創業1440年、世界最古の会社金剛組には、今も受け継がれる家訓『職家心得之事』がある。寛政13年(1801)金剛家の中興の祖、第32代金剛喜定は後継者のために16条からなる遺言書を書き残した。ここにいくつか抜き出してみる。
- 一、大工の基本的な技術の修得に励み、神社・仏閣について深い教養を積み仕事に当たること。
- 一、読み書き、ソロバンを一生懸命稽古すること。
- 一、弟子など、目下の人には深く情けをかけること。
- 一、取引してくれる方々へは正直に対応すること。
- 一、正直な見積を差し出すこと。
など、金剛家がごく当たり前のこととして古くから守ってきた心構えである。
第39代四天王寺正大工職の故金剛利隆さんは、その著書『創業一四〇〇年 ~世界最古の会社に受け継がれる一六の教え~』の中で、金剛家は企業として生き残るため数々の苦難を乗り越えてきたが「確かな技術を持つ人材を育てることと、後継者は血縁に拘わらず能力で選ぶこと、この二つが大切だ」と力説されている。
世界の長寿企業ベスト10
日本には、世界でも類をみないほど長寿企業が多い。世界長寿企業ベスト10を見てみよう。
( )は創業年。〈東京商工リサーチ調べ〉
- 1位 金剛組(578年)大阪市・建築業
- 2位 西山温泉慶雲館(705年)山梨県・温泉旅館
- 3位 千年の湯古まん(717年)兵庫県豊岡市城崎温泉・温泉旅館
- 4位 善吾楼法師(718年)石川県小松市粟津温泉・温泉旅館
- 5位 源田紙業(771年)京都市・水引、紙製品
- 6位 シュティフッケラー(803年)オーストリア ザルツブルグ・レストラン
- 7位 スタフェルター・ホーフ(863年)ドイツ・ワイナリー、ゲストハウス
- 8位 田中伊雅仏具店(889年)京都市・仏具 造業
- 9位 ショーズ・バー(900年)アイルランド アスロン・パブ
- 10位 ビングリー・アームス(953年)イングランド バードジー・パブ
ベスト5までが日本である。これは日本が島国であり外国から侵略されなかったこともあるが、日本人の勤勉性や従業員重視の経営、それに本業を重視しながら時代に合わせて変化する柔軟性もあると歴史家は分析する。
2019年2月
橋山英二
≪参考資料≫
・株式会社金剛組『社史』
・金剛利隆『創業一四〇〇年世界最古の会社に引き継がれる一六の教え』(ダイヤモンド社)
・『摂津名所図会』
・雑誌『大大阪』第15巻、16巻(大阪都市協会)
・平成三十年春季名宝展 企画展 図録『地より湧出した難波の大伽藍 ― 四天王寺の考古学 ― 』
≪取材協力≫
・株式会社金剛組
・和宗総本山四天王寺
・大阪府立中之島図書館
≪施設情報≫
○ 株式会社金剛組大阪本店
大阪市天王寺区四天王寺1–14–29
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約5分
○ 四天王寺
大阪市天王寺区四天王寺1–11–18
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約7分