第78話
註・本稿では最近の定説に従い、大楠公を楠正成、小楠公を楠正行と表記します。
四條畷神社の主神 忠義・孝行共に全うした若き名将
楠正行は、千早赤阪村・建水分(たけみくまり)神社近くの正成の館にて、父正成、母久子の長男として生を受けた。幼少時代は往生院六萬寺(現在の東大阪市)で学問を学び、武芸を磨いた。往生院近隣の玉串(玉櫛庄)は父正成が幼少時代を過ごした有縁の地である。
足利尊氏との「湊川の戦い」に先立ち、父正成から今生の別れを告げられた「桜井の別れ」〔建武3年(1336)5月21日〕は、戦前の国語や修身の教科書にも載る有名な逸話である。この戦ののち尊氏から届けられた正成の首に接した久子と正行は涙にくれ、正行は激情に駆られて自害しようとした。しかし、「亡き父上の本心は、後醍醐帝の皇統を護って朝敵を滅ぼすことにある。無駄死してはならない」と久子から諌められ、思いとどまる。そうして正行は、一族や河内の平安を守るべく河内の国司・守護としての職務に専念し、15歳から22歳まで雌伏の7年を過ごした。
延元元年(1336)12月21日、後醍醐天皇が僧文観の手引きで京都を脱出すると、正行は河内往生院で天皇を出迎えた。その後、後醍醐天皇は吉野金峯山寺を行在所(あんざいしょ)に定め南北朝時代が始まる。そして同4年(1339)、後醍醐天皇が崩御した。
正平2年(1347)、父正成の十三回忌を22歳で迎えた正行は、父の庭訓を深く心に刻み、同年8月10日、手勢500余騎を率いて紀伊隅田城(すだじょう)(現在の和歌山県橋本市)に攻め入り、次いで住吉、天王寺付近へと進軍した。正行挙兵の報を受けた尊氏は、細川顕氏(ほそかわあきうじ)を総大将に3千余の兵を河内に進発させた。顕氏は藤井寺に陣取り、合戦まで戦機が熟さず人馬を休息させていたが、楠木軍はそれを狙って急襲。細川軍は同年11月に総崩れとなり京都へ逃散した。そこで尊氏は同月下旬、山名時氏(やまなときうじ)を住吉に、細川顕氏を天王寺に派遣した。
山名・細川両軍は約1万、対する正行軍は総勢2千。劣勢の正行は自軍を一手にまとめて山名軍に集中攻撃をかける作戦をとり、見事に幕府軍の撃破に成功した。山名時氏は負傷して京都へ向かうが、これを見た細川顕氏は戦わずして退却を命じ、両軍は大川にかかる渡辺橋に殺到し、大混乱となった。
その後、幕府軍は、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟を司令官として、約5万の大軍を淀・八幡に集結させた。敵方の圧倒的な兵力を前に死を覚悟した正行は、弟正時をはじめ一族を引き連れて吉野へ参向し、後村上天皇へ今生の暇乞いをする。
正平3年(1348)1月、正行は幼少期を過ごした河内往生院に本陣を置き、同月5日早朝、東高野街道から押し寄せる4万の高師直軍に対し、わずか1千の兵を率いて決死の戦いに挑んだ(四條畷の戦)。いったんは高師直の首級を取ったと思ったが、影武者のものだった。かくしてこの日、30余度にわたる戦いで楠木軍は刀折れ、矢尽き、正行は弟・正時と刺し違えて亡くなった。享年23であった。
フィールドノート
今も各地に残る小楠公の足跡
南北朝時代の名将・楠木正成(大楠公)と嫡嗣正行(小楠公)は忠孝のモデルとして神格化され、明治36年(1903)には唱歌『桜井の訣別』が作られ、国民に広まった。明治時代の国文学者で歌人の落合直文が作詞し、奥山朝恭が作曲したこの歌を、筆者も国民学校4~5年生の頃に毎日のように歌わされ、予科練の歌とともに耳にこびりついている。
桜井の訣別
青葉茂れる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ
木下陰(このしたかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か
(以下略)
正行は四條畷神社の主神として祀られており、地元では市民の崇拝を受け、神域は厳粛に保たれている。四條畷市の中心部には「楠公1丁目」「楠公2丁目」の地名があり、「楠公橋」と名付けられた橋もある。
四條畷市役所の近くの四條畷市立教育文化センターには、本稿の参考文献とした『楠正行』の著者・扇谷昭氏が主宰する「四條畷楠正行の会」があり、同センター内に「楠正行資料室」を設置、一般に公開し、定期的研究会を含め活発な正行研究、顕彰活動を行っている。また、同市教育委員会では小学校3・4年生用の副読本で小楠公を紹介している。ただし「忠孝」には触れず、渡辺橋で敵方を救った「優しさ」を強調する内容となっている。
「小楠公義戦の跡」碑が建つ渡辺橋(大阪市中央区)
正平2年(1347)11月の瓜生野・住吉天王寺合戦では、幕府方の山名時氏・細川顕氏両軍が大川にかかる渡辺橋(現在の天満橋付近)に殺到し、大混乱を招いた。このとき正行は、橋から落とされた幕府軍500人を救い上げ、衣服・医薬などを与え京都へ送り返したという。正平3年(1348)1月5日の「四條畷の戦」では、その恩に報い楠木軍に加わって討死した者もいた。ちなみに日本赤十字社の創始者である佐野常民(1823〜1902)が国際赤十字社へ日本支部設立の申請をしたとき、正行の渡辺橋における敵方救済の逸話が大いに役立ったといわれている。
大阪メトロ「天満橋駅」を出て大川沿いを西へ少し行ったところに、当地で戦い敵方を救済した正行の功績を讃える「小楠公義戦の跡」碑がある。
幼少の正行が学び舎にした往生院六万寺(往生院城)
東大阪市六万寺町にある往生院六万寺は、小楠公が幼少のころ学んだ臨済宗の単立寺院である。同寺は590年頃、日本最初の尼僧善信尼が百済より帰国して同寺の前身である桜井寺に入山したことにはじまる。その後、天平17年(745)に行基が荒廃した同寺の跡に六万寺を再建したが、これも荒廃した。さらに150年経ち、念仏聖・安助(あすけ)上人が六万寺を再建し、往生院と公称した。本堂前に「楠木正行公四條縄手合戦本陣跡」の大石柱があり、1月5日に小楠公忌の法要が営まれる。
楠木一族を祀る四條畷神社(別格官幣社)
明治時代、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職三牧文吾(みまきぶんご)らが中心となり、正行他一族24柱を祀る神社の創建を願い出た。その結果、正行は建武中興に尽力したとの功績により、明治22年(1889)神社創立が勅許され、四條畷神社の尊号宣下があった。朝野の募金、全国規模の勤労奉仕により、明治23年(1890)2月には早くも本殿、中門が竣工し、同年4月5日ご鎮座祭を挙げた。
戦後、崇敬者が激減し社殿は荒廃したが、平成2年(1990)、ご鎮座100周年を迎えるにあたり関西師友協会会長・新井正明(当時・住友生命社長)、常務理事・伊與田覚により募金活動が行われ、境内や社務所等が一新された。旧社格は別格官幣社。
また、同社本殿の西側に、正行の母・久子を祭神に祀る摂社「御妣(みおや)神社」がある。大正14年(1925)10月5日のご鎮座で楠講(くすのきこう)婦人部を御妣会(みおやかい)と改称、婦人を中心に全国に拠金、台湾檜で建立したという。平成27年(2015)2月には、御妣会創立90周年を記念して、社殿の前に母子像が奉納された。
正行が辞世の句を遺した如意輪寺
奈良県吉野郡にある如意輪寺は、平安中期の修験者・日蔵道賢の草創で、後醍醐天皇の勅願所である。正平元年(1346)、正行は一族郎党143人を従え、四條畷の決戦を前に後村上天皇に最後の別れを告げた。そして先帝、後醍醐天皇陵に参拝の後、如意輪堂(如意輪寺本堂)に詣で髻(もとどり)(髪を頭の上で束ねたところ)を切って奉納。その際、扉に鏃(やじり)で辞世の歌「かえらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとゞむる」を遺した。また、同寺境内には正行を想う女官弁内侍(べんのないし)の「至情塚」がある。弁内侍は後村上天皇に仕えた美しい女官で、天皇は正行の妻に給わらんとした。しかし、正行は戦に出ることを思って天皇の勧めを固辞し、四條畷の戦いで果てたのである。悲しみにくれる弁内侍は髪をおろして尼となり、正行の菩提を弔った。おろした黒髪は如意輪寺境内に埋めたといわれ、後年、そこに「至情塚」が建てられた。
各地にある正行の首塚や墓所
① 額田(ぬかた)首塚(東大阪市山手町)
近鉄奈良線「額田駅」の東300mの住宅地の中にある。建立時期、由来等は不明である。
② 宝筐院(ほうきょういん)首塚(京都市右京区)
平安時代の建立で善入寺と称したが、南北朝時代に夢窓国師の高弟の黙庵禅師が入寺し臨済宗の寺となった。室町幕府の2代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を受け、義詮没後はその菩提寺となり、寺名は義詮の院号である宝筐院に改称された。黙庵は正行と生前から厚誼があり、その首級を善入寺に葬った。黙庵から正行の人柄を聞いた義詮は、自分もそのそばに葬るように頼んだといわれている。
③ 正行寺(しゅうぎょうじ)(京都府宇治市)
境内に正行、正時の首塚がある。僧・安間(あま)了願の開基で、寺名を了願寺と名付けたが後に正行寺と改名した。正行の供をしていた安間了意(了願の子)は、正行の遺命により首を後醍醐天皇の御廟がある吉野に運ぼうとしたが、足利軍勢にさえぎられたため当地に埋葬したという。
④ 小楠公御墓所(四條畷墓所・大阪府四條畷市)
かつて四條畷市南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる正行の墓があった。明治政府によって南朝が正統とされたことで、正成が大楠公として神格化されると、父の遺志を継いで南朝のために戦陣に散った嫡男正行も小楠公と呼ばれ崇められるようになった。それに伴い、明治11年(1878)、楠塚は「小楠公御墓所」と改称され、規模も拡大した。
⑤ 甑島(こしきじま)墓所(鹿児島県薩摩川内市上甑町中甑)
上甑村史によれば、現在の上甑町中甑地区(中甑島)墓地内に正行の墓(五輪塔の供養塔)と墓標がある。墓標には「天皇軍に属した楠木正成、正行はその軍に殉じたといわれているが、伝説によれば正行は難を逃れ、中甑や下甑に入り、恨みをのんで中甑に死没したと土地の人達は言い伝えている」とある。また当地に小楠公の末裔とつたわる和田家があり、前記の正行の墓は和田家の墓地内にある。同家には小楠公の鎧、菊水の旗印が伝わり、家紋は菊水である。
⑥ 往生院胴塚(大阪府東大阪市)
往生院内にあるが、正門から離れた所にあり、参拝するには事前に連絡が必要。墓地内には平成3年(1991)に建てられた正行の銅像がある。住職の川口哲秀氏によれば、東高野街道の角に「小楠公銅像 東1000米」の石碑がある。銅像は戦前に徴発されたが、再建したものである。
東高野街道
往生院を創建した安助が開いた街道で、石清水八幡宮に始まり四條畷、八尾、藤井寺、羽曳野、富田林を経由して河内長野に至り、堺からの西高野街道と合流する、ほとんど一直線の街道。正行をはじめ多くの南朝関係者が往来し、四條畷合戦の主戦場にもなった。一説では、当街道の起点は京都の東寺であり弘法大師が開かれたともいわれている。
全国からの参拝者が訪れる四条畷駅
明治28年(1895)、全国からの参拝者のための唯一のアクセスとして、浪速鉄道が大阪都心部から四條畷までの路線を開通した。後に国鉄片町線となり、現在はJR学研都市線「四条畷駅」である。
後醍醐天皇の崩御を悼み建立した楠妣庵(なんぴあん)観音寺
楠正行が後醍醐天皇の崩御を悼み観音殿を建立、正平3年(1348)正行、正時が討死した後、二人の母、楠木久子は同敷地内に草庵(楠妣庵)を営み敗鏡尼(はいきょうに)と称し、夫と息子、一族の菩提を弔いつつ16年間の余生を送った。敗鏡尼の入寂後三男正儀(まさのり)が観音殿改め観音寺とした。その後同寺(および草庵)は廃滅したが大正年間、有志により再興された。草庵に隣接して夫人の墓所、楠木一族の供養塔がある。
2019年2月
江並一嘉
≪参考文献≫
・『太平記1~3日本古典文学大系』(岩波書店)
・千早赤坂村村誌編集委員会『千早赤坂村村誌』
・田中俊資『楠正行1~5巻』(評伝社)
・往生院六萬寺史編纂委員会『岩瀧山往生院六萬寺史上巻南北朝編』
・後藤久子『日本武士道の源流「楠公父子物語」下巻 楠木正行』(新教育者連盟)
・扇谷昭『楠正行』(文芸社)
・生駒孝臣『楠木正成・正行(シリーズ・実像に迫る6)』(戎光祥出版)
≪施設情報≫
○ 桜井の駅
大阪府三島郡島本町桜井1丁目
アクセス:JR京都線「島本駅」前
○ 小楠公義戦の跡碑
大阪市中央区北浜東
アクセス:大阪メトロ谷町線、京阪本線「天満橋駅」より大川沿いを西へ、キャッスルホテル前
○ 往生院六万寺
大阪府東大阪市六万寺町1–22–36
アクセス:近鉄奈良線「瓢箪山駅」より徒歩約40分
○ 四條畷神社
大阪府四條畷市南野2丁目18–1
アクセス:JR学研都市線「四条畷駅」より徒歩約15分
○ 如意輪寺、弁内侍・至情塚、後醍醐天皇陵(塔尾陵)
奈良県吉野郡吉野町吉野山1024
アクセス:近鉄吉野線「吉野駅」より徒歩約35分
○ 額田首塚
大阪府東大阪市山手町
アクセス:近鉄奈良線「額田駅」より東へ約300m
○ 宝筐院首塚
京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9–1
アクセス:JR山陰線「嵯峨嵐山駅」より徒歩約15分
○ 正行寺(正行、正時の首塚)
京都府宇治市六地蔵柿の木町9 正行寺境内
アクセス:JR奈良線「六地蔵駅」より西南へ約300m
○ 楠妣庵観音寺(楠木久子の墓所)
大阪府富田林市甘南備1103
アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス東条線「甘南備」下車徒歩約10分
○ 四條畷墓所
大阪府四條畷市雁屋南町
アクセス:JR学研都市線「四条畷駅」より西へ約200m