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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第28話 天野屋利兵衛
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第28話 天野屋利兵衛あまのやりへえ(1653年または1661年-1733年)

西町奉行も感服した義侠心の人

私事ながら、小学生のころ毎週土曜の夜、連続時代劇『あゝ忠臣蔵』(関西テレビ/1969年4月~12月)をテレビにかじりついて観ていた。そして、子ども心を最も強く動かした登場人物は、浅野内匠頭でも大石内蔵助でもなく、金子信雄の演じる天野屋利兵衛だった。拷問で死ぬより辛い目に遭わされても赤穂義士の討入り計画の秘密を守り抜き、「天野屋利兵衛は男でござる」と叫んだ、まさに「男の中の男」。以来、利兵衛は筆者にとって、ウルトラマンや星飛雄馬をはるかに凌ぐ憧れのヒーローとなった。

天野屋利兵衛の来歴については諸説ある。林学者・江崎政忠(1865~1951)は『天野屋利兵衛傳』の中で、過去の多くの文献の記述を総合して以下のように述べている。「その先考(=亡父)は右馬頭であったが、大坂に来て仁斎と号した。是より先、嫡子彌三左衛門と商売に身を投じて天野屋と称した。小牧山や関ヶ原の役で岡山藩・池田家の用金を弁じ、大坂の陣では前以て神崎川の舟を用意してゐたので、備前の兵は抜群の功を顕した。後に備前岡山藩の蔵元を勤めた。仁斎の二男が天野屋利兵衛で、其のまま大坂で蔵元を勤めた」。「天野屋は利兵衛を遡ること数代、既に大坂に住し、北組の惣年寄を勤めてから利兵衛で四代目であったとの説もある」(抜粋・要約)。

一方『大阪人物事典』には、利兵衛は「承応2年(1653)堺に生まれ、12歳で大坂へ丁稚奉公に出た。後に海産物問屋を営んで蓄財、豊後町浜内淡路町角屋敷に住み、元禄初期には天満北惣年寄を務めた」(抜粋・要約)とある。(註:旧豊後町は現在の糸屋町2丁目、内淡路町3丁目、内平野町3丁目、大手通2・3丁目、東高麗橋、本町橋の各一部)出自については違いがあるものの、いずれの説も、利兵衛の代には現在の大手橋付近に大きな店を構える隆盛な商家であったことは共通している。

利兵衛と赤穂義士との縁は、同藩家老・大石内蔵助良雄との個人的関係に始まったようだ。内蔵助の母は岡山藩家老・池田出羽由成の娘で、大石家と岡山藩のつながりから、同藩蔵元の天野屋も大石家との親交が生まれた。また、利兵衛の嫡兄・綿屋善右衛門が内蔵助の父・権内と親しかったとも言われている。

あるとき利兵衛は、内蔵助に頼んで藩の秘蔵品の虫干しを拝覧した。その直後、藩侯浅野内匠頭秘蔵の茶器が紛失した。利兵衛は内蔵助をかばって自分が盗んだと申し出るが、実は内匠頭が私用で持ち帰っていたことが判明する。利兵衛の義侠心を知った内蔵助は、以降、利兵衛への信頼をいっそう強くした。

元禄15年(1702)12月14日の赤穂義士の吉良邸討入りの前、利兵衛は内蔵助の密かな依頼を受け、数々の武器を調達する。ところが、不審に思ったある鍛工が西町奉行所に密告したため、利兵衛は捕らえられて日夜拷問で白状を迫られる。しかし、「此の事には深き仔細があって、私は始めから生を期しては居らない。但だ明春になったならば進んで自首致すであらう。そうでないと身が韲粉となっても決して申し上げられませぬ」と、全く屈しなかった。

やがて赤穂義士の本懐が遂げられたことを確認すると、利兵衛は約束通り奉行所に出頭して全てを話し、「罪は私一身にある」と男泣きに泣いた。その義侠心に感服した奉行は重刑を免じて摂津国追放にし、さらに町人としては奇特の行為であるとして、家財屋敷は没収せず利兵衛の妻子に下し渡し、子には町年寄を襲がせた。利兵衛は京都に移り住んで名を松永士斎と改め、もっぱら茶事を楽しんで享保18年(1733)8月6日、73歳で瞑目した、とのことである。


天野屋利兵衛・架空人物説

「天野屋利兵衛は男でござる」のくだりは講談や芝居でも知られる名場面だが、実際の天野屋利兵衛とは関係のないつくり話だという説がある。

利兵衛を扱った最初の文献で、討入りの翌年元禄16年(1703)に杉本義鄰(すぎもとよしちか)が著した『赤穂鐘秀記』には、「大坂の町名主天野屋次郎右衛門と云ふ者、義徒が一挙の前年に、槍の穂二十本を私かに鍛冶に鍛えさせたのが、町奉行の耳に入り…云々」とある。この「次郎右衛門」を津山藩の小川恒充が「利兵衛」と改め、さらに、それらの伝記を基に書かれた『仮名手本忠臣蔵』には「天川屋義平」が登場する。これを誰もが天野屋利兵衛をモデルにしたものだと思い込んだことで、架空の人物像ができてしまったというのだ。

『大阪人物事典』は、郷土史研究家の後藤捷一(ごとうしょういち)が、利兵衛が架空の人物である理由を挙げていることを紹介している。即ち「天野屋の四代目利兵衛は元禄八年に惣年寄を免じられ、赤穂事件以前に失踪している」、「赤穂義士を手厚く扱った細川家の堀内伝右衛門覚書にも天野屋は全く出てこない」、「討入りの諸道具は大半が家伝のもので、その他は内蔵助が神崎与五郎を通じて発注、代金も支払済であることが内蔵助筆の『元禄受払帳』で明白である」等々である。

天野屋利兵衛のモデルとされる天川屋利兵衛の墓は、大阪市中央区の薬王寺にある。戒名は「妙法宗利日貞霊」と彫られ、台座の背側には「天川屋甚右衛門」の名前がある。ご住職にお聞きしたところ、天川屋利兵衛の子孫N家の別の墓もここにあり、現在もその家の人が両方の墓をお参りされているという。また、天野屋利兵衛の墓は、東京・泉岳寺、京都市北区・椿寺、下京区・聖光寺にもあるそうだが、薬王寺の利兵衛とは別人とのことである。


実業人が崇める「信用の神様」

逆に、天野屋利兵衛の功績を顕彰し、語り継ぐことで、若い優秀な人材の育成に役立てようとする人たちも現れた。実業家で米内・東條・小磯内閣の大臣を歴任した藤原銀次郎(1869~1960)が、天野屋と歴史的に最も関わりの深い大阪の実業界に呼びかけ、昭和14年(1939)8月、大阪市中央区に幅約4m・高さ約2mの「義侠 天野屋利兵衛之碑」が建立されるとともに、同15年(1940)12月14日、先述の江崎政忠執筆による『天野屋利兵衛傳』が発刊された。藤原は同書の序文に、「およそ實業は信用、然諾を重んずることを生命として成り立つ。…中略… 義膽鐵石、天野屋の如き人傑は、吾々實業人は宜しく信用の神として崇め敬ふべきではないか。吾々がこの心掛けを以て、我國の實業界に處して行けば、従って将来若い實業家を指導する上に大に効果があらう」と熱い思いを記している。

また、碑の「建應快挙者」には藤原や江崎のほか、安宅彌吉、伊藤忠兵衛、稲畑勝太郎、大林義雄、久保田権四郎、鴻池善右衛門、塩野義三郎、杉道助、錢高久吉、鳥井信次郎、野村徳七、松下幸之助、松永安左衛門らを始め、169名もの錚々たる実業人たちが名を連ねる。

碑の題字は公爵近衛文麿、碑文は小倉正恒(戦前の住友財閥最高責任者。近衛内閣国務大臣・大蔵大臣)が揮毫した。頼山陽の父・頼惟寛(春水)撰による「天野屋利兵衛伝」の内容に基づいた文面で、かいつまんでいえば、「利兵衛は名を直之といい、大坂の人。大石良雄から義士復讐の密議を聞き、兵器一式を揃え功績をあげた。…中略… 晩年は京に入り松永士斎と改名し、椿寺で一生を終えた」といった意味である。現在は碑文の真ん中部分が削り取られて読めないが、全文と建立時の拓本は『天野屋利兵衛傳』で見ることができる。


信用と約束を死守する真の大坂商人

江崎政忠は利兵衛を「一諾千金、利害得失を度外して、その所信に勇往邁進した點に於て、今人の商業道徳上から云っても、忘れてはならない人である」と絶賛し、歴史的に確実な史料に事蹟が残されていないことは、利兵衛そのものを抹殺する理由にはならないと述べている。なぜなら、利兵衛から少なからぬ援助を受けた上、用心深く、武士の儀礼をわきまえた義士たちが、ことの真相を語らないのは当然だからだ。それゆえ「義士関係の確かな歴史的史料に利兵衛の事蹟が見えないのが、利兵衛そのものゝ存在を確認させる反證となるのではあるまいか」と力説している。

これらのことを考え合わせると、天野屋利兵衛の存在や事蹟の虚実は、もはや大きな問題ではないように思えてくる。自分の命に代えても信用と約束を守り通した大坂商人の心意気に、元禄時代の人々はもちろん、80年前の実業界の要人たちも強く惹かれたからこそ、その人物像は様々な形で今日まで語り継がれてきたのだろう。効率最優先の経済の行き詰まりと、人々の心の荒廃に対し、かつて大阪で培われた商人道徳が国内外の企業人からも見直されつつある現代において、天野屋利兵衛は改めて思いを致してみたいヒーローである。


2016年8月

(川嶋みほ子)



≪参考文献≫
 ・杉本義鄰『赤穂鐘秀記』上・中・下 (京都大学付属図書館所蔵 谷村文庫)
 ・江崎政忠『天野屋利兵衛傳』(国立国会図書館デジタルコレクション)
 ・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂)、ほか



≪施設情報≫
○ 義侠 天野屋利兵衛之碑
   大阪市中央区本町橋
   アクセス:大阪市営地下鉄・堺筋本町駅13番出口より東へ約300m、
       本町橋東詰を北へ約100m

○ 日蓮宗 薬王寺(天川屋利兵衛の墓)
   大阪市中央区中寺1丁目3-3
   電:06-6762-4879
   アクセス:大阪市営地下鉄・谷町9丁目駅2番出口/谷町6丁目駅4番出口
         いずれからも約500m

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