第72話
融通念仏を広めた天台声明の中興の祖
良忍は、平安時代中期から後期にかけて、大阪で浄土思想(阿弥陀仏の力によって衆生が救済されるという他力本願思想)の流れをくむ「融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)」を開き、京畿を遍歴してこれを庶民に広めた僧である。ここでいう「融通」とは、念仏はすべての者に融け合って障りがないという意味で、融通念仏宗では、念仏を唱えることで誰でも阿弥陀仏の住む極楽へ往生できると説く。こうして良忍は、それまで貴族社会の専有物のように扱われていた仏教を広く巷間に開いた。
延久4年(1072)、良忍は尾州知多郡富田荘(とんだのしょう)(現在の愛知県東海市富木島町)で生まれた。父はその地方一帯を治める領主で、良忍は産声がとても美しいことから「音徳丸(おんとくまる)」と名付けられた。3、4歳の頃から、遊びといえば泥や砂で仏像や堂塔を作り拝むのが常だったといわれている。そうした穏やかな心を持った音徳丸は、武門の争いごとを嫌って12歳で父母と別れて比叡山に上り、天台僧・光乗坊良仁(後に良忍と改名)として得度。厳しい修行と勉学に打ち込み、良忍は21歳の若さで多くの学侶(がくろ)(学問をする修行僧)の教導を任せられるまでに成長した。
しかし当時の比叡山は、真に仏道を究めたい修行僧にとって良い環境とはいえなかった。学問はするが教えの実践をおろそかにする僧が多く、天台僧が僧兵として武家の軍事力に利用されたり、政治権力者の顔色をうかがって自らの保身に努めるようになっていたのである。そこで良忍は23歳(30代半ばという説もある)のとき比叡山を去り、天台声明(てんだいしょうみょう)の根本道場として多くの修行僧がいた大原(現在の京都市左京区)に居を移し、来迎院(らいごういん)を建てて仏道修行に打ち込んだ。声明のメッカともいえる大原は、天性の美声をもつ良忍にとってまさに憧れの地であった。
声明とは、経文に節をつけて詠唱するいわば仏教音楽で、後の今様や浄瑠璃、謡曲などに影響を与えたといわれている。第3代天台座主の円仁(えんにん)(794〜864)が、中国の「魚山声明(ぎょざんしょうみょう)」を大原で伝え、その後いくつかの流派に分かれた。それを統一した天台声明の中興の祖が良忍だとされている。
阿弥陀如来と聖徳太子のお告げ
大原での良忍は、声明の研鑽はもとより1日に6万遍の念仏を唱えたり、手足の指を切って燃やしたり、睡眠を断つなどの激しい修行に明け暮れたと『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』や『三外往生記(さんげおうじょうき)』〔いずれも良忍の死後の作〕は伝えている。また、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』〔建長6年(1254)作〕によれば、永久5年(1117)5月15日、46歳の良忍は夢に現れた阿弥陀如来から「一人一切人(いちにんいっさいにん)、一切人一人 一行一切行(いちぎょういっさいぎょう) 一切行一行 是名他力往生(ぜみょうたりきおうじょう) 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という啓示を受けたと伝えられている。その意味は、「一人が念仏を唱えれば全ての人々に功徳が及び、全ての人々の念仏が自分自身の功徳にもなる。念仏を唱えることは他のあらゆる行(ぎょう)に匹敵し、皆で唱和すれば阿弥陀仏の本願力と自己の念仏の力が融通し合う。そうして喜びあふれる楽土の建設を目指そう」というものである。
天治元年(1124)6月、良忍はこの阿弥陀如来のお告げにしたがい、それまでの修行で得た成果を惜しげもなく捨てて、融通念仏を巷間に広めるべく大原を出た。また、大治2年(1127)、良忍が諸国遊行の途次に四天王寺で一宿した際、夢に聖徳太子が現れて「ここ(四天王寺)より東南杭全(くまた)の里に念仏道場を建つべし」とのお告げを受け、その通りにしたら多くの信者が集まったといわれている〔地域情報ネットワーク社発行『融通念佛宗のすべて(平成27年4月号)』〕。この評判は鳥羽上皇の知るところとなり、勅願により現在の融通念仏宗総本山の大念佛寺(大阪市平野区)が建立された。
良忍は晩年を大原・来迎院で過ごし、長承元年(1132)2月1日、病により享年60で入滅した。その顔は微笑を浮かべ、長年の厳しい修行によるものか亡骸は羽毛のように軽かったといわれている。良忍が入滅してはるか後の安永2年(1773)、後桃園天皇から「聖応(しょうおう)大師」の諡(おくりな)が贈られた。
フィールドノート
現世で極楽往生を体験
五木寛之氏は著書『百寺巡礼(第6巻・関西)』のなかで、「たぶん関東地区では、融通念佛宗といってもほとんど知られていないだろう。この宗派は大阪を中心とする関西に一極集中しているからだ。(中略)関西を中心とした地域性というのは、融通念佛宗の特徴の一つといえるかもしれない」と述べている。
良忍が開いた大念佛寺は、大阪府内で最大規模の木造建築(本堂)をもつ融通念仏宗の総本山である。ここでは毎年5月1日から5日まで、通称「万部おねり」と呼ばれる大法会が行われる。正式には「阿弥陀経万部読誦(あみだきょうまんぶどくじゅ)・二十五菩薩聖聚来迎会(しょうじゅらいごうえ)」という。
聖聚来迎会とは、臨終の際に極楽浄土から阿弥陀仏が諸菩薩を従えて迎えに来るという「極楽往生」を現世で試みに体験する法会である。その起源は、南北朝時代の貞和5年(1349)春、大念佛寺の7世法明(ほうみょう)上人が、戦乱で疲弊した人々に極楽浄土の仏様の世界を見せたいと思い、菩薩の面や衣装をしつらえて来迎の儀式を行ったことにはじまる。江戸期になると、明和6年(1769)の第49世堯海(ぎょうかい)上人のとき、阿弥陀経を1万部読誦して檀信徒や有縁無縁の諸霊の追善回向をする「万部会(まんぶえ)」が行われるようになり、以来、この二つが合体して現在のスタイルとなった。
筆者が取材に訪れたのは、平成30年(2018)5月1日。境内や本堂で多くの人々が見つめるなか、午後1時、本堂の外側に設けられた橋(来迎橋)の上を、雅楽の調べとともに観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を先頭に勢至(せいし)菩薩や薬王(やくおう)菩薩など25の菩薩が歩いて渡り本堂へと入御する「万部おねり」が始まった。これは菩薩たちが浄土から現世へ来臨するようすを表現したもので、苦しみと悩みに満ちた現世から仏の智慧が輝く喜びと感謝に満ちた幸せの世界へと誘う意味がある。声明が流れる本堂では菩薩による伝供(てんぐ)(手渡しで仏前に供物を備える儀式)や、僧侶たちによる阿弥陀経の読誦が行われる。それらが済むと菩薩や僧侶たちがもと来た橋を渡って帰還し、法要は終わりを迎える。黄金色の面と緋色の衣装をまとった菩薩たちの荘厳な姿を目の当たりにした人々は、極楽浄土への幸せな往生を願って手を合わせていた。
ご利益は「諸芸上達」
昭和58年(1983)、堺屋太一氏(作家、元経済企画庁長官)が、大阪と神社仏閣の活性化を目的に「なにわ七幸(しちこう)めぐり」という聖跡巡礼を提唱した。大阪天満宮(学業成就)、太融寺(無病息災)、四天王寺(家内安全)、今宮戎神社(商売繁盛)、住吉大社(厄除祈願)、四條畷神社(心願成就)、そして大念佛寺(諸芸上達)である。これらを巡って七つのご利益を授かろうというもので、「融通念佛宗」の総本山のご利益が「諸芸上達」とは、良忍ならではの由来からである。融通念佛宗徳融寺(とくゆうじ)(奈良市)老院の阿波谷俊宏氏は、著書『絵解き 融通念仏縁起』の中で、「謡曲、浄瑠璃の音階は基本的には声明のそれと変わらず、歌謡曲にしても声の出し方、震わせ方など声明を抜きにしては考えられないといわれています。鎌倉時代、東大寺の凝然(ぎょうねん)大徳は『声明源流記』を著し、天台声明を集大成した良忍を中興祖(ちゅうこうのそ)とたたえました。良忍はひとり声明界にとどまらず、邦楽、ひいては伝統音楽の祖として仰ぐべく功労者ではなかろうか」と指摘している。
大原には、良忍が唱える声明のあまりの美しさに、滝が音を止めたように静かになったという「音無しの滝」がある。この大原から平曲(へいきょく)(琵琶の伴奏で平家物語を語る音曲)が生まれたといわれ、能楽、狂言、浄瑠璃、義太夫、長唄、地歌との関連性を指摘する説もある。良忍も自ら念仏を作曲し、信者や宗徒も合唱したといわれている。また、世阿弥の作と伝わる謡曲『融通鞍馬』や能の『三山(みつやま)』に良忍が登場するのも、良忍が広く庶民から慕われていたことを示すものであろう。そう思って同寺の良忍上人像を拝すると、まさに朗々と歌を歌っているようなお姿にふと癒される思いがする。
講談で伝えられる日本歌謡のルーツ
滝が遠慮して音を止めるほど美しい良忍の声明とはどんなものか。講談師で歌手の旭堂さくらさん(歌手名・川本三栄子(かわもとさえこ)さん)は、そんな良忍の声明人生を講談に仕立て、融通念佛宗寺院の彼岸法要などの折に各所で披露している。名付けて『大原の月〜良忍上人異聞〜』。鳥羽上皇に仕える今様(流行歌)の歌い手・尾張(おわり)が、良忍に声明の手ほどきを受けるため比叡山に通っていたところ、日頃から風紀の乱れに苦言を呈する良忍を苦々しく思っていた僧兵がそれを見つけ、仕返しに「良忍は山に女人を連れ込んでいかがわしいことをしている」という噂を立てた。良忍は「邪淫戒を破ったと勘ぐられては皆にも迷惑がかかる」といって山を去り、大原の浄地で真摯に声明を究めるというストーリーである。良忍の生い立ちや出家の動機なども盛り込まれ、良忍の温かな人柄や融通念仏を布教する強い思いが、さくらさんの情感豊かな語り口を通して聴く人の心を打つ。
奈良県出身のさくらさんは、奈良を舞台にした歴史上の人物の講談がなかったことから、これまでに聖徳太子や中将姫、光明皇后、神武天皇など、オリジナル講談をさまざまな機会で披露し好評を得ている。「奈良には仏教に起源をもつ歴史や文化がたくさんあります。それを発掘して発信していきたい」というさくらさん。良忍の講談は先述の徳融寺老院の阿波谷氏の勧めで作った。阿波谷氏の良忍研究の資料を見せてもらってエピソードを際立たせ、良忍の声明をイメージして「再現」してみせるなど、歌手としての本領も発揮している。平成30年(2018)5月2日の大念佛寺・万部おねりの日にも披露された。日本の芸能文化のルーツともいえる声明を究め、融通念仏の教えで衆生を救う活動に身を捧げた良忍の人生は、平成時代の今もこうして人々に伝えられている。
2019年2月
杉田龍哉・三上祥弘
≪参考文献≫
・阿波谷俊宏『絵解き 融通念仏縁起』(奈良新聞社)
・小松茂美編『続日本の絵巻21融通念佛縁起』(中央公論社)
・大阪市立博物館『第118回特別展 融通念佛宗 ―その歴史と遺宝―』
・平野区誌編集委員会『平野区誌』(平野区誌刊行委員会)
・『月刊大和路 ならら 第199号 融通念佛宗のすべて(平成27年4月)』(地域情報ネットワーク社)
・融通念佛宗総本山大念佛寺『大念仏・第81号(平成30年4月)』
・五木寛之『百寺巡礼第六巻』(講談社)
・福原隆善監修、開宗九百年記念・大通上人三百回御遠忌奉修局編『開宗九百年・大通上人三百回御遠忌奉修記念論文集 融通念佛宗における信仰と教義の邂逅』(法藏館)
・田代尚光『良忍上人と大念仏寺』(ぎょうせい)
・末松文美士『日本仏教史』(新潮文庫)
・中央仏教学院『仏教史』
・大法輪閣『日本仏教十三宗ここが違う』
・大念佛寺公式ホームページ
≪施設情報≫
○ 大念佛寺
大阪市平野区平野上町1–7–26
アクセス:JR大和路線「平野駅」より南へ徒歩約5分
○ 来迎院
京都市左京区大原来迎院町537
アクセス:京都バス「大原バス停」より徒歩約15分
○ 音なしの滝
京都市左京区来迎院町
アクセス:京都バス「大原バス停」より徒歩約30分