第34話
「大坂の陣」後の復興を担った、心斎橋の名付け親
大阪ミナミの繁華街・心斎橋の由来となった人物。祖父は織田信長に仕えた氏家志摩守という侍で、元亀2年(1571)に伊勢で起こった一揆の鎮圧に赴き、討ち死にした。息子の四郎兵衛は武士社会を嫌い、身分を捨てて京都伏見に移り住み、商人となった。岡田新作こと岡田心斎は、この四郎兵衛の子である。
機を見るに敏な心斎は「大坂の陣」を絶好の商機と捉えた。商人仲間である伊丹屋平右衛門、三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛らとともに徳川方に味方し、兵糧や武器の調達に奔走。見込んだとおり幕府軍は勝利したが、心斎らは調達に財産を使い果たし、困窮してしまう。不憫に思った2代将軍の徳川秀忠は、大坂復興の大事業を彼らに任せ、資産を作れるように取り計らった。
元和2年(1616)、心斎は焼け野原となった大坂へと移った。そこでまず手がけたのは、川の開削事業であった。商人仲間と協力して東堀から西海へと通じる長堀川を6年がかりで開削。運河の両岸に町家を建ち並べ、橋を架けて自身の名を冠した。長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋で、船場から難波、さらには住吉への道筋として賑わったという。
その後、心斎は川岸の町家に店を構え、地方の藩から委託を受けた諸国の物産を商い大いに栄えた。世の中が平穏になると、人々はより豊かな生活を求め、交易も積極的になる。心斎はここでも確実に商機を捉えた。
寛永16年(1639)、64歳で病没。家業は孫が継ぎ、祖父にあやかって「心斎」と称した。商売をさらに繁盛させて豪商となる一方、2代目も架橋や土木工事に積極的に私財を投じ、町民たちの尊敬を集めた。その功績は広く伝わり、将軍秀忠からも直々にねぎらわられている。
現在、岡田心斎が心血を注いだ長堀川は埋め立てられて、もうない。しかし私心なく町の発展に尽くした一族の想いは、いまもこの地に息づいている。界隈の繁栄は、先見の明に秀でた商人の行動に端を発したもの。いかにも大阪らしい話である。
フィールドノート
心斎橋の賑わいの原点となった長堀川
「大坂の陣」で家財を投げ売ってまで徳川方に尽くした心斎に、将軍・徳川秀忠は恩賞として長堀川を往来する船の料金徴収と沿岸の開発権を与えた。これが心斎橋の繁栄の原点であるが、心斎自身が大坂の町の衰退を嘆き、新しい堀を開削することで町の復興をと、江戸幕府に願い出たという説もある。
いずれにせよ、工事が始まった元和2年(1616)当時、大坂のまちは2度の戦災で甚だしく衰退していた。これを憂えた心斎は、75間だった長堀川の横幅を25間も拡げる大工事を行い、その両岸を造成。商店街を整えて地域の活性化を図った。そうして6年後の完成とともに移り住み、諸国の産物を扱うことで自らが先導して商いの町としての性格を強めた。
しかし、心斎は富を独占しなかった。「心斎橋」を架けた後も、地域の発展のために大金を投じて土木事業に尽力する姿勢は変わらず、町民に心から慕われた。そんな無私の功績を残すべく、付近の町は「心斎町」「長堀次郎兵衛町」「平右衛門」など長堀川の開削を行った人物の名がつけられ、明治初期まで用いられていた。
幹線運河として大いに活躍した長堀川であったが、昭和35年(1960)から埋め立てが始まり、同45年(1971)に完全にその姿を消した。いまは交差点の地名などに川や橋があったことを知るのみである。
江戸時代へタイムスリップ、「長堀の石浜」
水の都の大阪で、江戸時代の長堀川は幹線運河の役割を担っていた。そのため両岸にはさまざまな職業や産業に従事する人々が集まり、商工業が大いに栄えた。大阪では川岸のことも浜というが、長堀川、東横堀川、道頓堀川、西横堀川に囲まれた島之内の長堀橋から東横堀の間には泉屋(住友の前身)吉右衛門が銅の精錬所を建設して、「住友の浜」と呼ばれた。一方、佐野屋橋から西には大坂屋久左衛門の銅吹き工房があり、こちらは「大坂屋の浜」と呼ばれ、住友と合わせて「銅吹きの浜」と呼ばれた。また四国の宇和島や土佐の蔵屋敷があったことから良質の木材が持ち込まれ、材木問屋が生まれて「長堀材木浜」と称され、市が開かれた。
他にも、長堀川北岸には石工の工房が軒を並べる「石屋の浜」という場所があった。『摂津名所図会』によると、「長堀の石浜は山海の名石あるは、御影石、立山、和泉石などの諸国の名産をあつめ、その好みに従って石の鳥居、石の駒犬、燈爐、水鉢、石臼、地蔵……までこしらえ、商うなり」とある。心斎が拓いた河川のおかげで、大坂の産業がいかに隆盛を極めていたかがわかる。
現在、長堀川が埋め立てられた長堀通の下は、レストランやファッションブティックが並ぶ「クリスタ長堀」という地下街に変貌している。このショッピングモールの東端に天窓から陽光が降り注ぐ広場があり、巨大な石のレリーフが設置されている。タイトルは「長堀の石浜」。江戸時代の石浜の様子を描写した図画とともに、歴史を物語る。周囲の壁には石垣がオブジェのように飾られ、当時の雰囲気を再現している。周辺のオフィスワーカーの憩いの場にもなり、ランチタイムには食後の休憩に立ち寄る人たちが多い。江戸時代へと時を遡らせる空間が、日常の喧騒を忘れさせてくれるのかもしれない。
心斎橋はいまも「町橋」
江戸時代の大坂では、200近く架かっていた橋のうち幕府が建設・管理する「公儀橋」は12しかなく、ほとんどは町人が管理する「町橋」だった。心斎橋はその代表格で、町人たちが何度も建て替えながら大切に使い続けてきた。『菊屋町文書』などに残る記録によると、享保9年(1724)から慶応3年(1867)の間に6回架け替えられたとあるが、実際にはもっと多かったらしい。
明治時代になると、心斎橋の重要性はさらに高まった。新町の遊郭や道頓堀の芝居小屋が繁盛し、通り道の心斎橋も賑わったのである。明治6年(1873)には、文明開化と交通量の増加に伴って近代化が叫ばれ、ドイツから輸入した弓形のトラス橋が架けられた。日本で5番目の鉄橋で、当時は珍しいものだった。工事中にトラスを見た人々は太鼓橋のようなものができると想像していたらしく、通行部分が平面であったことに大変驚いたという。
その後、明治41年(1908)末の市電軌道敷設を機に、石造りのアーチ橋に架け替えられることとなる。ちなみに、撤去されたトラス橋は境川橋へと転用され、さらに鶴見緑地のすずかけ橋となって、日本に現存する最古の鉄橋として保存されている。一見の価値ある橋である。
石造りのアーチ橋は明治42年(1909)に完成。1月23日に渡り初め式が盛大に行われた。周辺の道路を埋め尽くすほどの群衆が押し寄せて大変な混雑だったという。今でいえば、阪神タイガースの優勝時のような光景だったのだろうか。この橋は西洋風の意匠が人気で、とくに二重アーチのデザインが川面に映る姿から眼鏡橋とも呼ばれ、心斎橋筋のシンボルとして長く親しまれた。しかし第2次世界大戦後に戦災の焼却物の投棄で川が満杯になり、加えて交通量の増加で近隣に駐車場が必要となったため、昭和37年(1962)に長堀川が埋めたてられると同時に撤去された。
しかし2年後の昭和39年(1964)に地下駐車場が誕生したときに陸橋となって復元改造され、石造りの高欄がそのまま使われた。さらに平成9年(1997)の「クリスタ長堀」完成時には、長堀通りを横断する歩道の中央分離帯部分に明治42年(1967)の眼鏡橋の欄干を再利用。ガス灯もモニュメントとして再現され、両端には当時の橋柱も据えられた。
歴史的建造物が姿を消すことが多い昨今、このように在りし日の姿が偲ばれている例は珍しいだろう。それだけミナミの人々に愛され続けてきた証であり、心斎橋はいまも「町橋」なのである。
2016年9月
(2017年11月改訂)
木下昌輝
《参考文献》
・松村博『大阪の橋』松籟社
≪施設情報≫
○ 心斎橋
アクセス:地下鉄御堂筋線「心斎橋駅」
○ クリスタ長堀
大阪市中央区南船場4丁目 長堀地下街8
電話:06−6282−2100
アクセス:地下鉄御堂筋線「心斎橋駅」2番出口