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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第38話 狩野山楽かのうさんらく(1559-1635年)

狩野永徳の画風を受け継いだ「京狩野」の創始者

狩野山楽〔初名木村光頼(みつより)、号山楽〕は、近江国(滋賀県)蒲生郡の出身。浅井長政の家臣であった父木村永光(ながみつ)は狩野元信に師事して絵を学んでおり、山楽は早くから父の影響を受けた。天正元年(1573)8月、浅井家は小谷城の戦いで織田軍に敗れ滅ぶ。北近江長浜城主となった羽柴秀吉は、有能な旧浅井家家臣を自らの配下に置いたが、その中に永光親子もいた。

山楽は当時最大最強の絵師集団・狩野派棟梁狩野永徳の門下に入り、その後養子となって狩野姓を名乗る。入門の経緯については、あるとき、長浜城内で杖を持って従っていた山楽がその杖で庭の土に馬の画を描くのを見た秀吉が、その画才を認め永徳に推挙したのだと、狩野永納が『本朝画史』で語っている。

山楽は、永徳の気宇壮大な画風を体現し、信長の安土城、秀吉の伏見城や大坂城、京都の寺社仏閣などの作事にあたって膨大な障壁画を揮毫した。永徳の死で中断していた東福寺法堂の天井画雲龍図は、秀吉の命により山楽が完成させたといわれている。また、有力公家の九条幸家(くじょうゆきいえ)も新御殿造営にあたって山楽を起用し、その障壁画の一部が『車争図屏風』として今に残る。その後の同家と山楽一派の関係は長く続く。

秀吉の死後、山楽は豊臣秀頼に仕えるべく、工房を京から大坂に移し制作に携わる。元和元年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣家が滅び、山楽も豊臣家の一員として残党狩りに遭い、男山八幡宮の松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)の許に匿われ危うく難を逃れることに。しかし、旧浅井家ゆかりの人びとの支援もあり、その年に許されて駿府で徳川家康に拝謁した。その後、 宗家を始めとして狩野派の多くは京を離れて江戸に移り、幕府の御用絵師(江戸狩野)となったが、山楽は京に留まり九条家や本願寺の御用絵師を務め画業にいそしむ。その系譜は娘婿で2代目山雪(さんせつ)、3代目永納(えいのう:山雪の子)へと引き継がれ、後世「京狩野」と呼ばれた。


フィールドノート

京狩野を前面に押し出した「狩野山楽・山雪展」の迫力

平成25年(2013)春、京都国立博物館は大勢の入館者で溢れていた。京狩野創始者の山楽、2代目山雪の代表作のほぼすべてを集めた特別展『狩野山楽・山雪展』が開催されたのである。京狩野2代の世界を系統的に紹介する本邦初のそして最大級の展覧会であった。80点を超える展示のうち、山楽作品は重文級の襖絵、屏風絵を中心に20点近く、『松鷹図襖』、『紅梅図襖』、『牡丹図襖』(いずれも大覚寺)や中国の古事・人物を題材にした『文王呂尚・商山四皓図(ぶんのうろしょう・しょうざんしこうず)屏風』、『竜虎図屏風』(いずれも妙心寺)など代表作がずらりと並び、永徳譲りの画面の迫力に圧倒された。

また、昭和18年(1943)に大阪・四天王寺の蔵から発見された貴重な板に描かれた『聖徳太子絵伝』の壁画断片と、当時調査にあたった山楽研究のパイオニアで京都工芸繊維大学教授・土居次義氏(故人)の発見当時の貴重な調査ノートも展示され異彩を放っていた。

京都国立博物館は平成27年(2015)春に特別展『桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち』を開催、新たに発見された山楽の屏風を出品した。先の特別展に続き同博物館の力の入れようには目を見張るものがある。


狩野派の「派」の意味―職人が集団で制作する工房

京都の二条城では昭和47年(1972)から障壁画の模写作業が行われている。障壁画は3千面以上あり、平成26年(2014)3月末までに715面の模写が終わったという。また、平成13年(2001)から修理保存事業にも取り組んでおり、現在年間約20面の修理保存を行っているとのことである。模写作業や修理保存事業は今後も長期におよぶことが想像されるが、一つの城や御殿を飾る障壁画はことほど左様に質・量とも膨大な規模なのである。

安土城、大坂城、伏見城のいずれの作事でも数千枚の障壁画が制作されたと思われる。その作業には強力なリーダーシップをもった棟梁と優れた番頭格の絵師そして画紙、糊、金箔貼り、金泥塗り、岩絵具などに多くの専門の職人が動員された。施主(この場合、織田信長、豊臣秀吉)の築城構想を十二分に理 解することはもちろん、区分けされた各部屋の役割にマッチしたイメージの絵を重複しないように割付け、正確な下絵を準備し、現場に張り付いて建屋造作工事の進行に合わせながらチーム一体となって効率よく制作しなければならない。資材の不足や手直しの繰り返しで工程が遅れたりすることは許されない。完成したとしても施主の満足が得られない場合は死さえも覚悟しなければならない。それはまさに戦場で戦う武士集団となんら変わるところはない。

狩野永徳を棟梁とする狩野派は、この過酷な条件下で施主の意図に対応し、工房集団として他を圧倒して優位な立場を築き上げていった。永徳は、山楽を常に重要な作事に参画させた。山楽も棟梁永徳の期待に応え自らの実力を練磨していったと思われる。

とくに障壁画は集団で制作した作品であるがゆえに、個別の絵師が号を書き入れ、落款を印すことはない。今日でも大半の障壁画は「狩野派絵師が描いた」との表現にとどまるか「伝永徳筆」のように名前の前に「伝」をつけ「そのように伝わっています」とするのが通例である。しかし、永徳や山楽クラス になると、構図や筆致、色使いなどが署名入りの作品と合致していれば、自ら主導的に描いた作品であると鑑定されている。近年の埋もれていた山楽作品の発見は、そのような研究が一段と進んだ結果ともいえよう。


理想の「群青色」を求めて
―摂津多田銀銅山で藍銅石の独占的採掘権

先述の「文王呂尚・商山四皓図屏風」について、特別展の図録解説は、その図で使われている「群青の眼も覚めるような鮮やかさ」を激賞している。実際、そのとおりで、他色にくらべ抜きんでる発色であった。山楽は、群青にこだわったようだ。この色の岩絵具は、藍銅石から採れるが主に中国からもたらされる貴重なもの。国内の鉱山で産出するところは限られており、当時は秀吉が直轄していた摂津国多田銀銅山がその一つであった。多田銀銅山は奈良時代の大仏建立の際、銅を寄進したとされる古い歴史をもつ。天正14年(1586)、山楽は秀吉から紺青(群青と同じ)の朱印状を下付され独占的採掘権を獲得、良質の紺青をふんだんに使える好条件を獲得した。藍銅石は、金鉱石と同等の価値があり、その採掘には秀吉の許可が必要とされたという。採掘権付与は秀吉の山楽に対する寵愛の深さを表すもので、山楽のその後の秀吉に対する不動の忠節に繋がることを物語っている。

多田銀銅山跡が兵庫県川辺郡猪名川町銀山に今も大切に保存されている。町が設置した「多田銀銅山悠久の館」には、銀銅山の絵図・文書・高札等の歴史史料をはじめ、さまざまな鉱石類が展示されており、その中に最後の代官所郡司秋山良之助から京狩野家9代目狩野永岳に渡された件の朱印状の写しもあった。

悠久の館を出て代官所跡を過ぎ、さらに坂を登って行くと昔の坑道跡の一つ青木間(まぶ:坑道)に着く。入口が幅1m、高さ1.8mほどの坑道をゆっくり進んで行くと、一番奥の昔の手掘りの坑道手前で行き止まりとなった。天井部分には緑青のような色の鉱石が露出しており、坑内の気温は摂 氏10度ほどで、夏は涼しく冬は暖かそうだ。この多田銀銅山には秀吉の埋蔵金伝説(一説に4億5千万両ともいわれる)が今も伝わるが、静かに佇む山の 周辺はギラギラした伝説とは程遠く、健脚を試す人にとって格好のハイキングコースとなっている。


大坂の山楽
― 大坂城と四天王寺そして住吉大社(住吉神宮寺)

秀吉が、石山本願寺跡に大坂城の作事を開始したのは天正11年(1583)。本丸築造に1年半を費やし慶長3年(1598)に没するまでの15年間、難攻不落の巨城を築きあげていった。5層の天守閣を覆う瓦には金を使い、本丸御殿の内部は金銀の装飾で輝き満ちていたという。当然のこととして狩野派は総動 員され、棟梁永徳はじめ山楽もこの天下の大事業に参画した。天正14年(1586)からは京都聚楽第の作事も始まり、この時期は狩野派の絶頂期であったといえよう。

山楽は、秀吉没後大坂に移り住み、豊臣家の絵師として秀頼に仕えたものと思われる。生前秀吉が命じ秀頼が受け継いだ慶長5年(1600)の四天王再建で、山楽は絵堂を飾る壁画『聖徳太子絵伝』を制作するも、慶長19年(1614)大坂冬の陣で絵伝は焼失した。さらに元和元年(1615)大坂夏の陣で大坂城が落城、障壁画はことごとく灰燼に帰した。そして、山楽自身も豊臣家残党として命を狙われる羽目となった。

山楽の大坂時代は秀吉の死後約10年続いたといわれる。秀吉恩顧の絵師山楽は、遺児秀頼の成長を見届ける気持ちになったのだろうか。

大坂冬の陣で焼失した山楽の『聖徳太子絵伝』は、2代将軍徳川秀忠の命により山楽が再び制作、元和9 年(1623)に完成を見た。しかし、19世紀初頭、四天王寺が落雷火災により絵伝は焼失する。誰しもがこの世から消えたと思っていた絵伝であったが、昭和18年(1943)の奇跡的な絵堂壁画断片の発見により、山楽の重要な作品の一つとして冒頭の特別展での展示につながっていくのである。

昭和58年(1983)に四天王寺絵堂が再建され、杉本健吉画伯の筆による昭和の『聖徳太子絵伝』が絵堂西の間から東の間に完成した。聖徳太子の月命 日の8月22日、絵堂が開扉され7面にわたって展開する昭和の絵伝と絵解き(解説)を拝観する機会を得た。今を遡る300年以上の昔、山楽が描いた絵伝に手を合わせ僧侶の絵解きの一語一語に耳を傾け太子の遺徳を偲ぶ人々の姿が彷彿として蘇ってくるようであった。

ここで書き残しておきたい山楽のもう一つの貴重な画績がある。秀吉の遺児秀頼が建立し後に秀忠が再建した住吉神宮寺は明治の神仏分離によって伽藍が取り壊されたが、東西にあった二重塔のうち西塔を阿波(現在の徳島県阿波市)の切幡寺(きりはたじ)が譲り受け約10年をかけて四国の地に移築された。その西塔(現在の切幡寺大塔)にあった須弥壇裏の来迎壁に山楽の筆になる『猊座文殊画(げいざもんじゅが)』が今もなお奇跡的に残っているのである。山楽の画が明治の初頭まで大坂の住吉神宮寺に存在していたことを記憶にとどめたい。

冬のシーズンの京都市の観光協会は、毎年「非公開文化財特別公開」を大々的にPRしている。平成26年(2014)の特別公開は山楽をはじめとする狩野派の作品に触れる絶好の機会であった。山楽作品は、高台寺開山堂の龍の天井画、建仁寺正伝永源院方丈の『蓮鷺図襖』、血天井で有名な養源院本堂「牡丹の間」の三方の襖に描かれた『牡丹図襖』、また山楽以外には、知恩院三門楼上の天井や柱の狩野派による極彩色の天女や飛龍図、大徳寺聚光院方丈の狩野松栄・永徳父子のデジタル複製された襖絵などを観て回った。

京都では幸いにも多くの障壁画が生き残ったが、2度にわたり豊臣・徳川の戦場となった大坂には山楽の足跡をたどれるものは四天王寺の絵伝のみ。最多の作品を擁していたのは秀吉の大坂城であったが、今は石垣を一部残すだけで障壁画の偉容を目の当たりにすることはできない。

現代の大阪人は今もなお大阪城を愛し太閤秀吉に親近感を抱く傾向が根強い。日常生活に溶け込んでいる四天王寺、住吉大社もしかり。秀吉の命を受け、大坂の精神的シンボルである大坂城、四天王寺そして住吉神宮寺での重要な作画に従事した山楽を、大坂ゆかりの狩野派絵師に位置付けても異論はないと思う。さらに付け加えるなら、山楽を「最後の太閤絵師」と呼んでみたいものである。


浅井家と近江衆― 山楽の陰の強力なサポーター

山楽は父とともに浅井家家臣から秀吉の臣下に入った。子飼いの家臣団を持たない秀吉にとって、有能な近江衆はまさに喉から手が出るほど欲しい戦利品であった。浅井長政の三姉妹も秀吉の庇護を受け、その後の数奇な運命を辿ることになる。長女茶々は秀吉の側室淀殿となり、秀頼を生んだ。次女初は京極家に嫁し、徳川・豊臣の講和に動いたこともあった。三女江は佐治一政、豊臣秀勝と二度の婚姻を経て徳川秀忠の正室になった。江と秀勝との間に設けた完子は姉淀殿の猶子となり公家の九条幸家に嫁ぐ。山楽が大坂夏の陣の残党狩りの難を逃れ、家康との拝謁にまでこぎつけたのは、このような浅井姉妹と幸家、秀忠との姻戚というつながりが大きく動いたことは想像に難くない。

JR北陸線「河毛」駅から湖北バスで10分ほどの小谷山麓にある長浜市の「小谷城戦国歴史資料館」には、浅井家三代と浅井三姉妹の資料が展示されている。

小谷城址のある小谷山に向かう。雪が残る急勾配の山道を、息を切らせながら進んでいく。海抜500m近いこの山の峻厳さと、天下屈指の山城としての堅固さが足元から直に伝わってくる。眼下に琵琶湖上に浮かぶ竹生島を望み、東には伊吹山の偉容が迫ってくる。灌木の茂った林を抜けると浅井長政が最期を遂げた赤尾屋敷跡があり、そこに自刃の地の石碑が静かに立っていた。

天下の要衝北近江を治めた長政は、信長の妹で妻であるお市の方や娘たちを深く愛し、家臣に対しては篤い心配りに満ちていたという稀有な戦国大名であった。山楽はそのような環境の中で幼少時代を送った。浅井の血統が山楽を危難から救い、九条家の庇護のもとに京狩野派を近代明治以降まで生き長らえさせたといってよいだろう。


2016年9月
(2017年11月改訂)

長谷川俊彦



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・京都国立博物館『狩野山楽・山雪展図録』
 ・別冊太陽『狩野派決定版』
 ・小学館ギャラリー『新版名宝日本の美術 友松・山楽』
 ・週刊アーティストジャパン『狩野山楽』
 ・辻惟雄『カラー版 日本美術史』
 ・土居次義『日本歴史新書 障壁画』
 ・土居次義『人と歴史シリーズ 永徳と山楽』
 ・土居次義『狩野山楽の聖徳太子絵伝板絵』
 ・五十嵐公一『京狩野三代生き残りの物語』
 ・佐藤晃子『画題で読み解く日本の絵画』
 ・鈴木盛司『豊臣秀吉の埋蔵金を掘る』
 ・長浜歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ』
 ・苗村和正『新湖国物語―水の国の文化、道の国の人々』
 ・淡海文化を育てる会編『近江戦国の道』
 ・太田浩司『浅井長政と姉川合戦―その繁栄と滅亡への軌跡』
 ・山本博文『徳川幕府の礎を築いた夫婦 お江と秀忠』



≪施設情報≫
○ 大阪城
   大阪市中央区大阪城1番1号
   電:06−6941−3044
   アクセス:JR環状線「大阪城公園前駅」より徒歩約10分

○ 四天王寺
   大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
   電:06−6771−0066
   アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より徒歩約10分

○ 多田銀銅山
   兵庫県川辺郡猪名川町銀山字長家前4番地の1
   電:072−766−4800
   アクセス:能勢電鉄「日生中央駅」より阪急バス「銀山口」バス停下車、西へ徒歩約30分

○ 京都国立博物館
   京都市東山区茶屋町527
   電:075−525−2473(テレホンサービス)
   アクセス:JR「京都駅」より京都市営バス「博物館・三十三間堂前」下車すぐ

○ 大覚寺
   京都市右京区嵯峨大沢町4
   アクセス:JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」下車、北へ徒歩約20分

○ 養源院
   京都市東山区三十三間堂廻町656
   電:075−561−3887
   アクセス:JR京都駅前より京都市営バス「博物館・三十三間堂前」下車、三十三間堂を南へ徒歩約5分

○ 高台寺
   京都市東山区高台寺下河原526
   電:075−561−9966
   アクセス:JR「京都駅」より京都市営バス「東山安井」下車、東へ徒歩約5分

○ 建仁寺正伝永源院
   京都市東山区大和大路通四条下る4丁目 小松町586
   アクセス:阪急電車「河原町駅」より東へ徒歩約15分

○ 知恩院
   京都市東山区林下町400
   電:075−531−2111
   アクセス:JR「京都駅」より京都市営バス「知恩院前」下車、徒歩約5分

○ 大徳寺聚光院
   京都市北区紫野大徳寺町58
   電:075−491−0019
   アクセス:JR「京都駅」より京都市営バス「大徳寺前」下車、徒歩約5分

○ 小谷城趾、小谷城戦国歴史資料館
   滋賀県長浜市小谷郡上町139番地
   電:0749−78−2320
   アクセス:JR北陸線「河毛駅」より湖北バス「歴史資料館前」下車、徒歩約5分

○ 切幡寺
   徳島県阿波市市場町切幡観音129

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