第40話
日本初の「手形」を振り出した大坂最初の両替商
初代天王寺屋五兵衛(本名:大眉光重〈おおまゆみつしげ〉)は、大坂最初の両替商「天王寺屋」の創業経営者である(註1)。日本最初の手形振り出しも五兵衛の創案による。
元々「天王寺屋」は、摂津国住吉郡遠里小野村(おりおのむら:現在の大阪市住吉区)で代々建築業を営んできた旧家で、四天王寺創建(593年)に貢献したことで、聖徳太子(574~622年)から屋号を賜ったとされる。天正2年(1574)、初代五兵衛(光重)の祖父光敦(大眉吉右衛門)は、遠里小野村から大坂今橋(現在の大阪市中央区)に移転して土木工事の店を構えたが、慶長19年(1614)、大坂冬の陣の難を避け遠里小野村の元の屋敷に引き上げた。光敦の子秀綱〔天正12年(1584)生まれ〕は、元和元年(1615)に大坂今橋へ再度移転して建設業を営むが(光敦は同行しなかったようである)、寛永5年(1628)に将来を見越して両替商に転じた。このとき秀綱には子がいなかったため、当時5歳になる甥の光重が養子となった。
当時は金・銀・銭(銅)の3貨が流通しており、金は定位貨幣で江戸において上級武士が使用し、銀は秤量貨幣で上方において商人がその都度秤にかけて取引決済していた。また、農民・庶民は銭を使っていた。こうした異なる階級での商取引に際しては、例えば小判(金)を一分銀に替えたり、小玉銀を銭に替えるなどの「両替」が必要で、両替商が手数料を取ってその業務を行っていた。また、両替相場は常時変動し、両替商に巨利をもたらす素地となった。
寛永15年(1638)、秀綱の逝去により家督を相続した光重は、天王寺屋五兵衛(大眉五兵衛)を名乗り、店名を「天王寺屋五兵衛店」と改め、両替商の傍らわが国ではじめて「手形」という金融システムの運用を始めた。すなわち、秤量貨幣である銀での現金払いは不便かつ危険であるため、銀の量目を表示した「銀目手形」を振り出し、天王寺屋五兵衛店が現金保証することで手形を普及、流通させたのである。その後、小橋屋浄徳(初代光重の妻の父)、鍵屋六兵衛が両替商に参入したが、寛文2年(1662)、幕府は両替商の名称を公認し小判買入のための公用をこれらの3名に命じた。
(註1)
津田宗及(天王寺屋の3代目)とは別家である。
江戸時代の経済を支えた豪商
天王寺屋の指導と手引きを受け、平野屋五兵衛は寛永12年(1635)に、鴻池屋善衛門は明暦2年(1656)に、それぞれ酒造業で蓄積した資本をもとに両替商を開業した。これら有力両替商は「掛屋」(かけや:幕府と諸藩の公金出納にあたった金融業者)となり、大名への貸し付けも手がけるようになった。
当時、大坂の両替商には、本両替仲間、銭両替仲間、南両替仲間という3つの団結組織があった(註2)。一方、大坂町奉行は寛文10年(1670)、本両替仲間を統括するとともに幕府公金の取り扱いや米の買い上げ、御用金調達などの公用を務める機関として「十人両替(註3)」を創設した。天王寺屋 はその筆頭に位置付けられ、幕末までほぼ一貫してその地位にあった。十人両替のメンバーは時代ごとに変わったが、天王寺屋家と鴻池家の2家のみがその地位を保ち続けた。
元禄7年(1694)に初代五兵衛が没した後も、当主は代々五兵衛を名乗って活躍した。そのうち、4代光重(初代と同名)の妻は鴻池3代目の宗利(山 中喜右衛門宗誠)の娘於益で、この時代、財力では天王寺屋を上回っていた鴻池家も格式を高めるため天王寺屋との縁組を求めたことが見て取れる。また、8代光虎は山中善之助の妹登志を、9代歓全は三井三郎助の娘春を妻とした。
しかし明治維新に際し、銀目廃止や蔵屋敷の廃止、藩債処分の打撃を受けたこれら豪商の多くは新規事業に対応できずに倒産。天王寺屋もまた、終焉を迎 えることとなった。
(註2)
本両替仲間…両替の他、金銀の売買や手形振り出し、大名貸しなどを行った。幕末には179名が22組に分かれ、十人両替の統括を受けた。
銭両替仲間…「銭屋」とも呼ばれ、両替業務のかたわら米などの商品販売も行っていた。十人両替の管轄外で、幕末には617名が大坂三郷に分かれて取り締まられた。
南両替仲間…南部の銭両替544名で作られた組合。銭両替より資力があり、享保17年(1732)には「小判銭相場間合所」を建てた。
(註3)
十人両替の役目は金銀相場を動かしたり本両替の取り締まりで、幕府の公用を務める報酬として帯刀を許され、家役を免ぜられた。
フィールドノート
現代に残る史実とフィクション
NHK朝ドラの山王寺屋
平成28年(2016)9月から半年間放送されたNHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』で、主人公「白岡あさ」のモデルとなった女性実業家の本名は広岡浅子である。浅子とその異母姉「春」(ドラマでは、はつ)は、京都の三井十一家の出水三井家に生まれ、同じ慶応元年(1865)に、幼い頃からの婚約者である加島屋(同、加野屋)の広岡信五郎と、天王寺屋(同、山王寺屋)の大眉歓全にそれぞれ嫁いだ。姉妹の義兄である養子の高喜は後に三井銀行を設立した人物である。春は実際には24歳で没しており、ドラマで山王寺屋に男児が2人いるのはフィクションである。
元の天王寺屋の屋敷(現在の今橋1丁目あたり)と加島屋の屋敷(肥後橋)とは、約1.2㎞の距離のところにあった。また、現在の今橋1丁目八百屋町筋は、「天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の両居宅に挟まった横町」ということで、五と五を足して「十兵衛横町(よこまち)」と呼ばれていた。
天王寺屋新田
宝永元年(1704)、中甚兵衛が50年の歳月をかけて嘆願した大和川の付け替え工事が、幕府により工期わずか8カ月で竣工し、新大和川の開通により不要になった1千町歩(約992万平方メートル:阪神甲子園球場の約258倍)を超える旧河川敷は、新田開発されることになった。当時、新田の開墾は資金回収に年月がかかり、豪商の社会奉仕に近い感覚だった。開墾希望者は川奉行に対して入札することとされており、このときの新田入札金は3万7千両(現在価格で推定約50億円)で、幕府は開発費用3万7,500両をほぼ回収できた。
その中で、天王寺屋吉兵衛が開墾を申請したのは13町5反5畝18歩(約13万4,400平方メートル:阪神甲子園球場の約3.5倍)で、鴻池新田の159町歩(約157万7千平方メートル:同約41倍)など、他に比べ小規模だった。吉兵衛の名は天王寺屋本家筋の家系には見当たらないので分家筋と思われるが、年代的には3代政重(当時44歳)に相当する(4代光重は元服したばかりの当時16歳)。
現在、大阪府八尾市のJR志紀駅周辺、天王寺屋1丁目から7丁目には、天王寺屋公園、天王寺屋地蔵、天王寺屋会館(公民館)など天王寺屋の名を冠した場所が多くある。
天王寺屋の墓所
元祖秀綱、初代五兵衛をはじめ歴代天王寺屋の墓は、大阪市中央区谷町8丁目の久本寺(くほんじ)にある。この寺の本堂(1629年築造・10間四面100坪)、客殿(1648年築造・88畳敷)、庫裏(1650年築造)、鐘楼などは、天王寺屋歴代が勧進元となり寄進して建てられた。第2次大戦の戦火を免れ、江戸初期から中期の法華宗〈日蓮宗〉寺院の伽藍構造を残す最古の寺であり、由緒ある寺が建ち並ぶこの界隈でも、ひときわ歴史の厚みを感じさせる建造物群である。ここには住友家2代友以(とももち)、3代友信、4代友芳が眠ることでも知られている。
天王寺屋ゆかりの人・場所・モノ
高谷宗範(1851~1933年)
名は恒太郎、元検事。明治6年(1873)、退官して弁護士となり高麗橋2丁目の天王寺屋居宅に事務所を構える。明治26年(1893)、灘商業銀行を頭取として立て直す。大正7年(1918)、茶道の起源である広間の茶、書院式茶道を復活する目的で山荘流を始める。
適塾
緒方洪庵の適塾の敷地は、天王寺屋忠兵衛別宅を譲り受けたものである。
松殿山荘(宇治市木幡)
約900年前、関白藤原基房が別荘を開いた地を求め、高谷宗範自らが図面を引き、約2万坪の敷地に茶室16を含む建造物を展開。そのうち主な建物(大玄関、大書院、天五楼、檆(さん)松庵など)は、天王寺屋五兵衛の屋敷から移築したものである。
2016年10月
(2017年11月改訂)
江並一嘉
≪参考文献≫
・宮本又次『大阪町人論』ミネルバ書房 昭和34年(1959)
・宮本又次『大阪』日本歴史新書 至文堂 昭和34年(1959)
・毎日放送文化双書『大阪の商業と金融』」昭和48年(1973)
・宮本又次『大阪商人』講談社学術文庫 平成22年(2010)
・宮本又次『上方の研究』[第三巻・天王寺屋五兵衛家とその系図]
・古川智映子 小説『土佐堀川』広岡浅子の生涯 潮文庫 平成27年(2015)
・永尾剛『広岡浅子 気高き生涯』PHP文庫 平成27年(2015)
≪施設情報≫
○ 「天五に平五・十兵衛横町」碑
大阪市中央区今橋一丁目5・大阪市立開平小学校南西角
アクセス:JR環状線「大阪城公園前駅」より徒歩約10分
○ 久本寺
大阪市中央区谷町8丁目1−34
電話:06−6761−3304
アクセス:地下鉄谷町線「谷町9丁目駅」より北へ250m
○ 適塾
大阪市中央区北浜3丁目3番8号
電話:06−6231−1970
アクセス:地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分