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第43話 小西行長こにしゆきなが(1558-1600年)

商人から武将へと駆け上がったキリシタン大名

和泉国堺の薬種商・小西隆佐(りゅうさ:生年不詳〜1592)の次男として、永禄元年(1558)に生まれる。その後、岡山の商人の家に養子として入り、当地を支配する戦国大名・宇喜多直家に見いだされて武士として仕える。後に、宇喜多直家と同盟した羽柴秀吉の部下になった。

小西行長の父や兄は、商人から堺代官など行政官となって豊臣政権の一端を担った。一方、行長は堺から塩飽(しわく:現在の香川県丸亀市)にかけての船舶を監督する舟奉行として、水軍の将の才能を発揮。水軍を率いて秀吉の九州征討(1587年)や肥後国人一揆討伐(1588年)で名をあげ、肥後国の南半分を所領する14万6千石(推定)の大名へと出世した。秀吉が朝鮮半島へ派兵した文禄の役(1592〜93年)でも活躍し、朝鮮半島の漢城(ハンソン:現在のソウル)や平壌を占領する。しかし、兵糧不足が深刻となり、行長は奉行衆の石田三成らと共に、朝鮮軍の救済に出た明(中国)との講和の道を探ることとなった。このとき、行長は明との講和締結を焦るあまり、秀吉に「明が日本に降伏した」と偽りの報告をする一方、明に対しては「関白降表(秀吉が明に降伏を願い出る)」を捏造するなどの欺瞞外交を行い、それが露見して秀吉から死を命じられたが、前田利家らのとりなしによって一命を取りとめた。続く慶長の役(1597〜98年)では再び朝鮮半島へと渡り、各地で明軍や朝鮮軍と戦うが秀吉の死を契機に日本へと退却した。

関ヶ原の合戦(1600年)では盟友である三成の西軍に参加し奮戦するが、小早川秀秋らの裏切りにより壊滅。捕らえられて、京都・六条河原において斬首された。行長は熱心なキリスト教徒(洗礼名:ドム・オーギュスタン[アゴスチーニュ])であり、自害を禁ずる戒律を守り、武士でありながら切腹を拒否したためである。処刑に臨んだ行長は、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコン(描画)を掲げて、死に赴いたと伝えられている。


私財を投じて弱者救済に尽力

商人から武士に転じ、秀吉の配下として数々の武功を上げた行長であるが、キリシタンとして社会的弱者の救済にも尽力した。その行動は、父・隆佐の生き方が大きく影響している。

隆佐は堺の出身で、上洛したザビエルと接触し、永禄3年(1560)頃に京都でキリスト教の洗礼を受けたとされている。同8年(1565)に京都から宣教師が追放される際には河内国まで同行するなど、イエズス会宣教師を積極的に支援した。そうして宣教師の卓越した交渉力をもとに信長をはじめとする武家権力に接近する一方、堺の町衆や豪商とのつながりを深めていった。

こうした父のもとで、行長は、幼少の頃から京都の南蛮寺(聖堂)でキリスト教の教えを受けて育った。長じて秀吉に仕え肥後国の大名となった行長は、九州の地で積極的に布教活動を展開する。所領の天草では多くの教会や学校などを建設し、イエズス会の活動を後押しした。さらに、大坂や生まれ故郷の堺では、私財を投じて孤児院や病院を建てるなど、弱者救済のために数々の社会事業に尽くした。

フランスの日本研究者レオン・パジェス(1814〜1886年)は、『日本切支丹宗門史(上巻)』の中で、「此殿(小西行長)は、捨子の救済資金として、年に百石の米を出すことにした。オルガンチノ師(イタリア人宣教師)は、この補助で子供たちを信者の家に預けて育ててもらった」と述べている。また、『切支丹の社會活動及南蛮醫學(海老澤有道著・昭和19年刊)』にも、「行長の故郷である堺にも同様の孤児院が経営されたであろう。行長の没後は兄(如清:じょせい)がその事業を引き継いだという」とある。

行長の父は、堺でハンセン病患者のための病院を建て、患者を保護・収容した。それがいつ頃であるかは明らかではないが、前著は永禄9~10年(1566~67)頃であろうと推察している。行長はこの篤志を受け継ぎ、天正14年(1586)に大坂でハンセン病院を建てている。『日本切支丹宗門史(上巻)』には、「ドン・アウグスチノ(小西行長)は、大坂に癩病(ハンセン病)院を建てた。癩病人は大抵、財産もなければ医薬もなくて路傍に徘徊していた。彼等を手厚く遇したことは、いたく異教徒を感動させた」とある。また、『切支丹の社會活動及南蛮醫學』には、「文禄2年(1593)に父・立佐(隆佐)が亡くなると、その遺言に従って堺の病院は50人を収容するまでに拡張され、行長の兄(如清ではないかとされている)が、これら病院事業を継承した。こうした小西一家の慈善活動は、教会当局にも一般社会にも非常な感銘を与え、フランシスコ会士の事業と相まって、後に京畿地方のハンセン病患者の救済に大きく貢献した」とある。


キリシタン弾圧で福祉事業が途絶

行長は慶長5年(1600)に没したが、小西一家が寄進した癩病院は発展を続け、小西家以外からも寄付金が多く集まった。慶長8年(1603)、大坂と堺の病院ではキリシタンであるかないかにかかわらず貧者や病者が収容され、その後1千名以上が洗礼を受けた。

しかし、こうしたキリシタンによる社会福祉事業は、やがて秀吉や徳川家康によるキリシタン弾圧によって立ち行かなくなった。慶長19年(1611)になるとキリシタン弾圧は全国に及び、高槻城主でキリシタン大名の高山右近もマニラに追放された。行長らが建設した病院や孤児院も、閉鎖を余儀なくされたであろう。また、行長は堺に敷地を求めて天主堂やキリシタンの駐在所、墓地などの建設に充てたとされる(日本切支丹宗門史)が、現在の堺市でその痕跡を確かめることはできなかった。

ちなみに秀吉は、当初、民衆がキリスト教を信仰することに寛容であった。しかし、キリシタン大名の強力な結束力や領民の集団改宗、イエズス会による長崎の要塞化などの振る舞いに警戒感を強め、天正15年(1587)に一転して「伴天連(ばてれん)追放令」を発令した。同年6月18日、ポルトガル出身のイエズス会司祭で日本副管区長のコエリヨ(Goelho,Gaspar)に対して以下の5項目、すなわち(1)なぜ秀吉の臣下に改宗を求めるのか (2)なぜ寺院を破壊するのか (3)なぜ仏教僧を追放するのか (4)なぜ農作業に有益な牛を食するのか (5)なぜポルトガル人は日本人を買い付け、インドに送って奴隷にしているのを認め許しているのかについて説明を求めている。

当時、ポルトガル人は日本人(少年少女を含む)を奴隷として買い付け、家畜のように鎖につないで船底に押し込み、外国に売り飛ばしていた。その数たるや数百人にのぼり、しかもその多くは船中で死んだといわれている。コエリヨは秀吉に対し、こうした事実を認めたうえで、「教会はこれを禁じる権力を持っていない」と、答えている。

秀吉が、ポルトガル商人の人身売買を黙認するキリシタン教会を非難し、その責務を問うたのは理解できる。江戸時代のキリシタン弾圧といえば、民衆に棄教を迫り苦しめるようすを描いた映画や小説が多いが、その背景には、外国人による日本人売買を止めさせようという思惑もあった。当時、行長もこの事実を憂い、マカオなどに転売された日本人の救済にも努めている。また、現地の追放キリシタンたちも、窮境にありながら彼らの救出活動に助力したのであった。


フィールドノート

 小西行長屋敷跡碑

行長の故郷・堺で、小西家が行った社会福祉事業の痕跡を見つけることはできなかった。堺市南区宿屋町、路面電車(阪堺線)「妙国寺前駅」近くの紀州街道沿いに、ここが行長の屋敷跡だと示す碑が立てられているが、2017年1月現在、その解説文にも行長が孤児院や病院などの建設に寄与したという記述はない。ともあれ、行長がこの地で信仰を深め、親を失って路頭に迷う子どもたちや難病に苦しむ人たち、さらには外国に売られた同胞たちを救うべく奔走したことを知った今、この小さな碑を見て、感慨深く思うのであった。


 お手植えの松 ~ 菅原神社 ~

阪堺線「妙国寺前駅」から南へ2駅目の「大小路駅」を降り、東へ3分ほど歩いたところに、長徳3年(997)創建の菅原神社(祭神:菅原道真、天穂日命[あめのほひのみこと]、野見宿祢[のみのすくね]の三座)がある。ここに、行長が手植したといわれる傘松の幹(樹齢約400年)がある。行長が文禄の役から凱旋したときに朝鮮から持ち帰って奉納したもので、同寺の楼門(随身門)の裏側に展示されている。

また、境内には小西家と縁の深い薬祖神社がある。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と神農大神(しんのうおおかみ)。少彦名命は童話「一寸法師」のモデルといわれ医業・酒造の神、神農大神は古代中国の伝説上の王で、医薬の基礎を作ったことから薬祖神として知られている。同社は応永4年(1397)に創建され、明治40年(1907)に菅原神社に合祀された、日本で最も古い薬祖神社と言われている。とくに近年は癌封じの神様として崇敬されている。



2017年4月
(2017年11月改訂)

三上祥弘



≪参考文献≫
 ・大阪市参事会編『大阪市史・第一』(1918年)
 ・徳富猪一郎『近世日本国民史豊臣氏時代・乙篇』(民友社・1920年)
 ・レオン・パジェス『日本切支丹宗門史(上巻)』(岩波文庫・1938年)
 ・海老澤有道『切支丹の社會活動及南蛮醫學』(冨山房・1944年)
 ・鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像・史料で読む戦国史』(八木書店・2010年)



≪施設情報≫
○ 小西行長屋敷跡碑
   堺市堺区宿屋町東1丁(紀州街道沿い)
   アクセス:阪堺線「妙国寺前」下車 徒歩すぐ

○ 菅原神社、薬祖神社
   堺市堺区戎之町東2丁-1-38
   電:072-232-2450
   アクセス:阪堺線「大小路駅」より徒歩3分

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