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第57話

千利休せんのりきゅう

(1522 – 1591年)

侘び茶を大成した桃山時代の傑物

茶の湯を大成させた茶聖。侘び茶の完成者。今風にいえば、茶会というイベントの「演出家」であり、そのための〝茶室〟を創案した「空間プロデューサー」である。

宗易と名乗った千利休が羽柴秀吉と出会ったのは、今井宗久や津田宗及と共に、織田信長に茶頭として仕えた頃である。その後、天下人となった豊臣秀吉は、関白・太政大臣に就任したお礼のため正親町天皇に献茶を行う禁中茶会を企画する。そこで宗易は、秀吉の介添役として参内するために、正親町天皇より「利休居士」の名乗りを許された。利休64歳のときである。かくして利休の名は天下に知れわたり、のちに、利休七哲と呼ばれる蒲生氏郷、高山右近、細川三斎、古田織部など大名たちが弟子となった。

千利休は大永2年(1522)、堺の納屋衆(倉庫業を営む富商)、田中与兵衛の長男として生まれた。幼名は与四郎。16歳頃から商人の教養として茶の湯を習い始める。19歳で家業を継ぐと、南宗寺の禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)に参禅し、茶禅一味の修行に励んだ。はじめは東山流の書院茶をくむ北向道陳(きたむきどうちん)に学び、後に武野紹鷗の弟子となって抛筌斎宗易(ほうせんさいそうえき)と名乗った。

天文11年(1542)20歳の時、三好家の一族の女性と結婚、一男四女をもうける。そうして30代から40代後半まで、ほとんど堺を離れず家業に打ち込んだ。ときあたかも戦国バブル期にあり、家業は順調に発展。堺の有力商人の集まり「会合衆(えごうしゅう)」10人に名を連ねるほど頭角を現した。

秀吉の筆頭茶頭となって知行3千石を与えられた利休は、大坂城や京の聚楽第(じゅらくてい)に屋敷を構えて秀吉の側近として仕えた。九州攻め(1586年)や小田原攻め(1590年)にも随行し、秀吉の懐刀ともいわれた。秀吉に謁見した大友宗麟が、秀吉の弟・秀長から「公儀のことは私に、内々のことは利休に」と言われたほどである。



名前に込められた禅の精神

利休の祖父は田中千阿弥(たなかせんあみ)といい、室町幕府8代将軍足利義政の同朋衆(どうぼうしゅう:将軍に近侍して茶道や連歌などの芸能に従事する人たち)の一人で、千姓はそこからきているといわれている。また「利休」の意味については、日本史学者の芳賀幸四郎(1908〜1996)が著書『千利休』の中で、いつの頃からか「利休」とは「名利(みょうり)共に休す(名誉も利益も求めない)」や「名利頓(とみ)に休す」という意味で一般に流布しているが、もっと高次元で解釈すべきだとし、「利休」とは、錬磨に錬磨を重ねた末、鋭さや精妙さ(利)がなくなり(休)、よそ目には上手か下手か、深いか浅いか見当もつかぬようになった状態のことであり、禅者の極めて高い境涯を意味するという主旨の説明をしている。


利休が取り組んだ作法改革

山崎の戦いで利休が陣中に作った草庵茶室『待庵』は、一切の虚飾を排除した2畳敷きの空間で数奇屋建築の原点といわれ、唯一現存する利休の茶室として国宝に指定されている。利休の創作は、4畳半から2畳半、2畳の草庵茶室に始まり、茶会の形式も「運び点前」(風炉、釜以外の器物を茶室から運び出して行う点前)や「吸い茶」(濃茶の回し飲み)など作法の改革にも取り組んだ。茶碗も朝鮮王朝時代の日用雑器として焼かれた高麗茶碗や国産の伊勢天目などの高価でないものを愛用するなど、さまざまな面で独創的な改革を行った。その背景には、茶の湯を楽しむ人の増加と立派な茶室や唐物の名物道具を持てない茶の湯愛好家への配慮があったと思われる。こうした改革は秀吉の後ろ盾があってこそで、茶道史研究家の矢部良明氏(人間国宝美術館館長)は、「侘び茶の大成は秀吉と利休の共作でもあった」と、『千利休の創意』で述べている。

秀吉は、大坂城山里丸に2畳半の草庵茶室を造らせる一方で、それとは対極の「黄金の茶室」の製作も利休に命じた。天井から壁、柱、障子の桟まで金箔が貼られ、茶碗、茶入れ、炉、丸釜、茶杓まですべて金無垢という設えは、天下人の権力をこれでもかと見せつけたことであろう。秀吉は、自分が亭主を務めるときは唐物の名物道具を使用したといわれている。

しかし利休と秀吉の良好な関係は長くは続かなかった。秀吉が利休の愛弟子である高山右近に棄教を命じたり山上宗二を打ち首にすると、利休は秀吉が黒を嫌うと知りながら天正19年(1591)正月の茶会において黒楽茶碗で茶を点て秀吉の機嫌を損ねた。また、大徳寺に寄進した山門(金毛閣)に自像を安置したことや、茶道に対する秀吉との考え方の違いなどが重なって、二人の間に齟齬が生まれ始める。そして同年2月28日、ついに利休は秀吉から切腹を命じられ、70歳の生涯を終えた。


千利休の辞世

人生七十 力囲希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
我這宝剣 祖仏共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル 我得具足の一ツ太刀(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち)
今此時ぞ 天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)


引き継がれる侘び茶のこころ

利休が亡くなった後、千家は取り潰しにあい、利休の茶道具は秀吉が没収。長男の道安は飛騨高山の金森家にあずけられた。また、後妻の連れ子・少庵(利休の娘と結婚)は、会津の蒲生氏郷に預けられた。こうして利休の茶は途絶えたかに見えたが、徳川家康や蒲生氏郷のとりなしで3年後に赦免され、没収されていた利休の茶道具は、少庵の嫡男千宗旦に返還された。一方、道安は堺の本家の家督を継ぎ茶人として細川忠興の茶頭に取り立てられ、後に秀吉の茶頭にもなるが跡目を継ぐ嫡男がなく、堺の千家は途絶えた。

少庵は本法寺(京都市上京区)前の屋敷に戻り、京の千家を再興した。そして少庵の嫡男・宗旦は、何処にも仕官することなく「貧乏宗旦」と言われながら侘び茶を京の町衆に教え、3人の子どもたちにそれぞれ、表千家、裏千家、武者小路千家の祖となる道筋をつけた。宗旦の次男は一翁宗守(いちおうそうしゅ)と名乗り武者小路千家として高松藩に、三男は江岑宗左(こうしんそうさ)と名乗り表千家として紀州藩に、四男は仙叟宗室(せんそうそうしつ)と名乗り裏千家として金沢藩に仕え、千家の茶の湯を広めていった。この時期、戦乱の世は去り武家にとって能楽や茶の湯は教養の一つとされ、武士たちは競って茶の湯を習い始めた。


茶の湯指南書『茶道便蒙鈔(ちゃどうべんもうしょう)』

利休百年忌を迎えた元禄時代、上方では井原西鶴や近松門左衛門、歌舞伎役者の坂田藤十郎の登場など文化の華が開き始めた。さらに商工業の発達で、新興の豪商たちの台頭が、茶の湯愛好者の増加に拍車をかけた。そこで千家は茶の湯のマニュアルを整備する必要に迫られたが、創始者の利休はもとより、少庵(2代)や宗旦(3代)も、茶会記や指南書を書き残していなかった。利休は秀吉の側近として多忙を極めていたからであろうか、手紙は数多く遺されており筆不精だったとも思えない。元禄3年(1690)、茶の湯愛好者の増加に対応して、宗旦の高弟・山田宗徧(そうへん)が仕官先の三河国吉田藩小笠原家で茶の湯の実用的入門書『茶道便蒙鈔』を書き上げたところ人気を呼び、版木印刷によって版を重ねたといわれている。また、紀州藩に仕官していた江岑宗左が『逢源斎書(ほうげんさいしょ)』や『江岑夏書(こうしんげがき)』などを書き残し、没後100年にして、ようやく千家の指南書が世に出ることとなった。


創られた利休像 ― 『南方録』

元禄3年(1690)には、千家以外からも〝利休伝〟が登場した。福岡藩の家老・立花実山が書いた『南方録』である。利休茶法の秘伝書とされるこの書物は、堺の南宗寺の僧・南坊宗啓が利休から茶法を聞き書きした形で構成されている。以来300年、利休の秘伝書として筆写が続けられ、侘び茶の教典といわれるほどになった。現在は、南坊宗啓が実在の人物かどうか、立花実山によるフィクションではないか、内容や用語が史実に反しているのではないかといった指摘が研究者から出されている。しかし、南方録の現代語訳や解説書の出版は今も続き、茶の湯を学ぶ人たちにとっては貴重な古典とされているようである。筆者もそれを読み、利休の人物像が実によく描かれていると感じた。


フィールドノート

京都 茶の湯 街歩き

「いずくにも 帰るさまのみ 渡ればや もどり橋とは 人のいふらん」と、和泉式部が詠んだ数々の伝説が伝わる京都の名橋・一条戻橋。今は何の変哲もないコンクリートの小さな橋であるが、天正19年(1591)、ここで利休の無残な姿が晒された。

一条通りは京都御所と聚楽第を結ぶメインストリート。秀吉が聚楽第を建てた頃は土産物屋や雑貨屋などが軒を並べ、聚楽第見物の人で大いに賑っていたことが『京都名所絵図』から伺える。天下一の茶頭・千利休の首が曝されたという噂は瞬く間に京の町に広がり、一条戻橋は怖いもの見たさの人で列をなしたと伝えられている。町人が切腹させられたのは利休が最初で最後だそうだ。小説家の杉本苑子氏が『利休 破調の悲劇』の中で、「侵略戦争を目論んで堺から博多へと乗りかえた秀吉の冷酷な覇者気質、それに取り入り利権獲得のため陰で猛運動を展開した博多商人の野望と打算。官僚機構を基本にすえた管理体制を大名支配の理想と考え、利休をその障害物と見た石田三成ら官僚グループの意図。この三者が合体し利休を共通のターゲットとして狙ったのがこの賜死事件の真相だった」と述べているのを思い浮かべ、次へと向かった。

京都には利休ゆかりの場所が数多く残されている。楽焼窯元とそれに隣接する楽美術館はその一つ。京都市上京区油小路中立売上ル、利休の聚楽第屋敷の直ぐ近くにある。天正14年(1586)、利休は瓦師・長次郎を訪ね茶碗の製作を依頼する。以来、楽家はこの地で400年15代にわたり一碗一窯、独特の手法で楽茶碗を焼き続けてきた。歴代の楽茶碗が展示された美術館に入ると、まるで茶室にいるような緊張感が迫ってくる。

楽美術館から北に油小路を一筋、東に2分ほど歩くと武者小路千家・官休庵に着く。館内は非公開なので外観を写真に収め、スマホの地図を頼りに小川通りを北に向かう。20分ほど歩くと骨董品屋や茶道屋の看板が目に入る。さらに寺之内通りを過ぎると表千家・不審菴(ふしんあん)の大きな玄関が見えてくる。北隣は裏千家・今日庵である。この付近は茶の湯の聖地。いずれも一般には非公開となっており、外観を見学して再び小川通りを北へ向かう。

20分ほどで北区紫野の大徳寺の正門に到着。利休を始め堺の商人たちが帰依した禅寺である。応仁の乱で伽藍は焼失したが、堺の豪商たちの支援で復興した。正面の門を入ると右手に大きな山門「金毛閣」が見えてくる。天正10年(1582)、利休が父・田中与兵衛の五十回忌法要を記念して全額を寄進して再興した山門であり、ここに置かれた利休の木像が、利休切腹の原因の一つとされている。


堺・南宗寺の利休忌


2月27日は利休の命日である。堺の茶の湯の聖地・南宗寺では、毎年、三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の利休忌が行われる。

梅の花が咲き誇る境内に千利休一門の供養塔があり、全国各地から大勢の人が訪れる。本堂で法要が営まれた後、実相庵と海会寺(かいえじ)、本源院では、利休を偲んで三千家の献茶会が催される。法要のあと南宗寺の住職・田島硯應老師は、「中世の堺は国際貿易都市として栄えたが、南宗寺の七重の塔や妙國寺の大伽藍が聳える宗教都市でもあった。ここ南宗寺は、三好一族の武将たちや武野紹鷗、千利休、津田宗及といった堺の商人たちが参禅し、茶禅一味の茶の湯を学んだところ。今も茶の湯と連歌の聖地でもあります」と、古田織部好みの国指定の名勝「枯山水の庭」の前で話された。


さかい利晶の杜(りしょうのもり)

堺の偉大な先人千利休と与謝野晶子を紹介し、堺の歴史文化を体感できる文化観光施設「さかい利晶の杜」が平成27年(2015)3月にオープンした。東隣に隣接する利休の屋敷跡も併せて整備され、観光ボランティアガイドが詳しく解説してくれる。また、「利休茶の湯館」では、堺の茶の湯の歴史と利休の侘び茶を茶碗や茶道具など実物も展示され、最新の映像技術を使った展示で来館者を楽しませている。1階には「待庵」も復元され、茶室でのお点前を体験できる観光スポットとして人気だそうだ。

総務省は「平成28年社会生活基本調査」の結果、全国で176万1千人が普段の趣味・娯楽として茶道を行っていると発表している。また、平成28年(2016)発行のレジャー白書(日本生産性本部)によれば、平成27年(2015)の1年間に1回以上「茶道」を体験した人は230万人と推計している。年齢層は10代と60代が大きな割合を占めている。これは、学校のクラブ活動として茶道を行う生徒が多く、講師の大半が60代以上であることが原因とみられている。また、茶会の参加者は圧倒的に女性が多く、男性の参加が少ないのが近年の傾向のようである。

茶道を海外に広める活動も活発で、例えば裏千家は世界約40カ国に110余カ所の拠点をおき、千利休が大成した詫び茶の精神を世界各地に広めている。

2020年の東京オリンピック招致のキャッチコピーは「おもてなし」であった。そして2022年は利休生誕500年の節目の年。堺市博物館の前には「千利休を大河ドラマの主人公に」と書かれた幟がはためいていた。徳島でも「三好長慶を大河ドラマの主人公に」という運動が始まったと聞く。千利休は日本茶道史のスーパースター。5年後の2022年には、どんなイベントが催されるのか楽しみである。

2017年11月

(橋山英二・三上祥弘)



≪参考文献≫
 ・千宗左、千宗室、千宗守監修『利休大事典』淡交社
 ・芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文堂
 ・八尾嘉男『茶道教養講座 千利休』淡交社
 ・野上弥生子『秀吉と利休』中公文庫
 ・熊倉功夫『現代語訳 南方録』淡交社
 ・中村修也『戦国茶の湯倶楽部』大修館書店
 ・神津朝夫『千利休をめぐる諸問題』堺市博物館研究報告
 ・公益財団法人日本生産性本部『レジャー白書2016』
 ・一般社団法人金融財政事情研究会『第13次 業種別審査事典第7巻』
 ・総務省統計局ホームページ
 ・裏千家ホームページ
 ・一般社団法人茶道裏千家淡交会ホームページ



≪施設情報≫
○ 南宗寺
   堺市堺区南旅篭町東3–1–8
   電  話:072−232−1654
   アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約5分

○ さかい利晶の杜
   堺市堺区宿院西2丁1–1
   電  話:072−260−4386
   アクセス:阪堺電車「宿院駅」より徒歩約2分

○ 千利休屋敷跡
   堺市堺区宿院西2丁1–1
   アクセス:阪堺電車「宿院駅」より徒歩約2分

○ 大徳寺
   京都市北区紫野大徳寺町53
   電  話: 075−491−0019
   アクセス:京都市バス「大徳寺前」より徒歩約5分

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