JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第18話 木村蒹葭堂
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第18話 木村蒹葭堂きむらけんかどう(1736-1802年)

趣味に徹したなにわの知の巨人

木村蒹葭堂の本草学(ほんぞうがく)(中国に由来する薬物学)や書画、詩作、多種多様な蒐集物はいずれも当代一流で、師匠を超える域に達する。しかし、本人はそれで身を立てようという気はなく、あくまで趣味に徹した。江戸時代中期、とりわけ元禄から享和へかけては、大坂では商業や金融業の繁栄に支えられて、町人学者や画家、文人達が輩出した時代。蒹葭堂は、そうした知識人が交流するサロンの中心的な存在であった。

蒹葭堂は元文元年(1736)、大坂北堀江瓶橋(かめはし)北詰めの酒造家に生まれた。幼名太吉郎、通称坪井屋吉右衛門、号を巽斎(そんさい)という。幼児期は病弱で、父は病弱の息子に好きな学芸に専心する環境を整えた。こうして蒹葭堂の才能が開花。本人の意思と相まって才能が大きな実を結び、中村真一郎や芥川龍之介のいう〝世紀のディレッタント(好事家)木村蒹葭堂〟として大成したのである。要するに稀な大坂のボンボンであった。ちなみに父・吉右衛門重周は蒹葭堂が15歳のときに亡くなっている。

蒹葭堂はきわめて早熟で、5、6歳で画をはじめ、大岡春卜(狩野派の大家で当時60歳)に学びかわいがられた。さらに8歳で、父の友人宅に滞在する大和郡山藩家老の柳沢里恭(さととも) (淇園(きえん))に絵の手ほどきを受け、12歳で長崎から来坂中の僧鶴亭(かくてい)に花鳥を学び、13歳で淇園の弟子でもある池大雅(いけのたいが)に師事している。生涯画の師と仰いだのは大雅で、落款を蔽(おお)えば師の作品かと見まごうような秀作が残されている。また、11歳のときには親戚の児玉氏の導きで片山北海(かたやまほっかい)の「混沌社(こんとんしゃ)」に入塾し漢学・詩文を学んだ。さらに本草学を京の津島桂庵(つしまけいあん)および小野蘭山(おのらんざん)に学んでいる。

宝暦6年(1756)、細合半斎(ほそあいはんさい)(考証学の大家)の媒酌により21歳で森示子(しめ)(示女)と結婚(当初子がなかったため母が妾をいれたので)、妻妾同居し、長崎への旅行には妻妾同伴している。25歳頃、邸内に井戸を掘っていた折、古い芦(あし)の根が出てきたため、これこそ古歌で名高い浪速の芦であろうと大いに喜び、自宅の書斎を「蒹葭堂」と名付け、号としても用いた(蒹葭はヒメヨシのことで中国の古典に由来する)。

蒹葭堂は学者になることを欲せず、名誉や地位にも執着せず、芸術や学問は趣味だと公言した。そうして豊かな経済力にものをいわせ、書籍、書画、金石、器物、地図、古銭、動植物、美術装飾品などを買い漁り、内外の多様なコレクションを始める。しかしこれらコレクションを独り占めにせず、だれにでも公開し貸し出している。やがて全国から多くの学者、文人、好事家がひっきりなしに蒹葭堂宅を訪れるようになった。これらの来訪者は、蒹葭堂が遺した23年分・5冊におよぶ「蒹葭堂日記」に記されている。その数、延べ9万人におよび、交友範囲の広さには驚く。増山雪斎(ますやませっさい)、松浦静山(まつうらせいざん)らの大名、田能村竹田(たのむらちくでん)、池大雅、与謝蕪村(よさぶそん)、丸山応挙(まるやまおうきょ)、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、谷文晁(たにぶんちょう)らの画家、中井竹山(なかいちくざん)、頼春水(らいしゅんすい)、頼山陽(らいさんよう)、上田秋成(うえだあきなり)、本居宣長(もとおりのりなが)、橋本宗吉(はしもとそうきち)、杉田玄白(すぎたげんぱく)らの学者が含まれる。特に交友の深かったのは上田秋成(東作、余斎)で、2歳年長でほぼ同年代を生きた秋成との交友は30年に及ぶ。「蒹葭堂日記」には56回の相互訪問、1日2回の記録もある。秋成は蒹葭堂の依頼で蒹葭堂賛文「あしかびのこと葉」を残しているが、趙陶斎(ちょうとうさい)や中井竹山にも「蒹葭堂記」を書かせており、これもコレクションの一つだろうか。

蒹葭堂が特に庇護を受けたのは里恭と雪斎である。柳沢里恭(柳沢淇園)は大和郡山藩家老柳沢保挌(やすただ)の子であり、文人画家にして池大雅の師でもあった。蒹葭堂は父の友人を通じて里恭と知り合い、里恭から池大雅に紹介される。なお、里恭は後述の三好正慶尼(みよししょうけいに)(奴(やっこ)の小万(こまん))にも画を教えた風流人であった。増山雪斎は伊勢長島藩主で、学問、詩文、書画に長じ、藩校文禮書院を設け蒹葭堂などを招き振興に努めた。異色の交友では、煎茶の中興の祖といわれる僧・賣茶翁(ばいさおう)(高遊外(こうゆうがい))とは昵懇の間柄であり、さらに柳沢里恭に絵を習った「奴の小万」こと後の三好正慶尼との交友がある。正慶尼(俗称・木津屋雪) は蒹葭堂とは古い知り合いで、蒹葭堂の妻示子は雪の親戚の娘である。「蒹葭堂日記」によると、雪は1カ月に2~3回は顔を見せ、食事をし宿泊もしている。南都古梅園松井和泉との交流も見逃せない。

また、蒹葭堂は第11回朝鮮通信使〔宝暦14年(1764)〕を片山北海,細合半斎、上田秋成とともに接遇した。江戸参府のつど大坂を訪れるオランダの商館長や随従の医師と交流し、オランダ語やラテン語にも通じた。

蒹葭堂は町の年寄(世話役)を務め、酒造業を営んでいたが、実務を任せていた支配人宮崎屋の過失により、寛政2年(1790)3月、酒造統制に違反して酒の過剰生産を指摘され謹慎させられた。しかし、たまたま大坂城勤番として在坂中の増山雪斎の同情を受け、雪斎の世話により伊勢長島領内の川尻村に2年4カ月の間、田舎住まいをしている。その後、58歳のとき船場呉服町(現伏見町4丁目)に戻り、文具商(古梅園の墨も扱ったかもしれない)を営む。

享和2年(1802)1月25日(太陽暦2月27日)病没した。「蒹葭堂日記」には1月1日、賀客多数とあり10日まで記述がある。享年67。墓所は、天王寺区餌差町「大応寺」にある。死後、蔵書・物産標本類を幕府が収納し、養嗣子坪井屋吉右衛門に500両を下賜した。


フィールドノート

生家跡

大阪市立中央図書館南東角に「木村蒹葭堂邸跡碑」および木村蒹葭堂顕彰版がある。実際の屋敷跡は、大阪市西区北堀江4丁目辺りにあったが、現在はコインパーキングになっており、往時の痕跡はない。雑誌『大阪春秋』20号〔昭和54年(1979)〕に「木村蒹葭堂邸跡周辺と市立中央図書館(古西義麿氏)」の記事、周辺図、写真が掲載されている。なお、近隣に土佐藩蔵屋敷跡、土佐稲荷神社がある。


古梅園本店(奈良市椿井町)

古梅園7代目当主松井元彙(まついげんい)、8代目松井元孝(まついげんこう)は「蒹葭堂日記」によると2回ずつ蒹葭堂邸を訪問、蒹葭堂も奈良の古梅園本店を訪れ自家用墨を発注している。


古梅園大坂支店

享保7年(1722)、6代目当主松井元泰が現在の大阪市中央区心斎橋筋(南久宝寺町南西角)に開設。元の丸善大阪店に近い一等地に戦前まで存在した。蒹葭堂日記には前記7代目、8代目の来訪以外に前後8回古梅園来訪の記載があるが、氏名は明らかではない。


混沌社(混沌詩社)

片山北海を盟主に大阪で明和元年(1764)に結成された詩文結社の混沌社は、蒹葭堂を中心とした蒹葭堂会が発展したもので、懐徳堂、泊園書院と並ぶ当時の大坂有数の学問所であった。儒者、医師、武士、商人など身分に関係なく毎月16日に北海の居宅「孤松館」淀橋横町(現立売堀)に集まり、詩作(漢詩)し北海が論評した。蒹葭堂をはじめ頼春水、中井竹山なども参加し、30数年間に延べ3千人以上の門弟がいたといわれる。


髙島屋史料館

大阪市浪速区の髙島屋東別館3階髙島屋史料館(2019年1月現在改装のため休館中)には、「木村巽斎125年祭記念 蒹葭堂遺墨遺品展覧会」の出品目録、新聞記事が所蔵されている。当展覧会は髙島屋呉服店蒹葭堂会主催、大正15年(1926)11月23日~29日、南区長堀橋南詰めにあった髙島屋長堀店にて開催、主催者の蒹葭堂会には、有名な当時の大阪市長關一(せきはじめ)も参加している。なお、この事業の一環として高梨光司による『蒹葭堂小伝』が編まれ蒹葭堂研究のバイブルとなった。


大阪市立自然史博物館・木村蒹葭堂貝石標本(ばいせきひょうほん)

かつて京都大学理学部地質学鉱物学教室に、戦火を逃れるため大阪の関係者が預託したと推定される鉱物(奇石)や貝類の標本があった。昭和44年(1969)1月、その鉱物が日本地学研究会館館長の益富寿之助(1901~1993)の鑑定によって蒹葭堂のコレクションと認められた。また後日、貝類はアマチュア研究家の梶山彦太郎(1909~1995)により蒹葭堂のコレクションと推定された。これらのコレクションは、益富氏により大阪市立自然史博物館に収蔵されるのが妥当と判断され、現在、同館に所蔵されている。

奇石と貝類は別々の重箱に保存され、奇石は6段重ねで鉱物、岩石、化石等を含む175種ある。貝類は7段の重箱で、北欧産や南方産のものを含め600種近くある。貝類は、源氏物語や36歌仙、12支などに因んで編集されている。同標本は普段は展示されていない。


蒹葭堂の墓所「大応寺」

蒹葭堂の墓碑は、天王寺区餌差町の浄土宗「大応寺」にある。墓碑に揮毫したのは、蒹葭堂が不遇の時代に親身の世話をした伊勢長島藩主 増山雪斎である。墓碑の左右背面には、増山雪斎撰の碑文「蒹葭翁墓表」が漢文で刻まれている。内容は蒹葭堂の事績に加えて家系が記され貴重な史料となっている。ちなみに、蒹葭堂7代前の祖は大坂夏の陣で討死した後藤又兵衛基次である。

昭和18年(1943)1月24日、同寺にて百四十三回忌「蒹葭堂追遠忌法要」が蒹葭堂研究会主催にて営まれた。参詣者は、研究者、コレクターら75名。さらに同寺にて、「木村蒹葭堂遺著、遺墨並関係書」展を開催し、展示品65点を記載した「展觀目録」が発行された。本法要および展覧会の詳細は『上方 第146号(昭和18年3月25日発行)蒹葭堂號』に特集された。



2019年4月

江並一嘉



≪参考文献≫
 ・大阪歴史博物館編『木村蒹葭堂 なには知の巨人』(思文閣出版)
  ※2003年開催の没後200年記念展の図録。蒹葭堂の書画、コレクションの一端を紹介している。
 ・高梨光司『蒹葭堂小伝』(髙島屋蒹葭堂会)
 ・蒹葭堂日記刊行会『蒹葭堂日記』(中尾松泉堂書店)
 ・中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社)
 ・水田紀久『水の中央にあり 木村蒹葭堂研究』(岩波書店) 
 ・芥川龍之介『僻見』
 ・大阪市立自然史博物館『木村蒹葭堂貝石標本』(江戸時代中期の博物コレクション・収蔵資料目録第14集)
 ・松井今朝子『奴の小万と呼ばれた女』


≪施設情報≫
○ 木村蒹葭堂邸跡碑・顕彰版
  大阪市西区北堀江4–3–2(大阪市立中央図書館東南角)
  アクセス:大阪メトロ千日前線「西長堀駅」7号出口すぐ

○ 大応寺(墓所)
  大阪市天王寺区餌差町3–15
  アクセス:JR大阪環状線「玉造駅」より徒歩約10分

○ 古梅園本店
  奈良県奈良市椿井町7

  アクセス:近鉄奈良線「近鉄奈良駅」より徒歩約6分

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association