第88話
お釈迦さま再来を目指した学僧
「片手にそろばん、片手に十善法語」。江戸期の大坂商人の気質を表したこの言葉は、当時広く人口に膾炙した。金勘定にはうるさいが、その心意気は信頼に値するという意味だ。人としての生き方を説いたこの『十善法語』は、ある一人の学僧によって示された。
慈雲尊者。幼名を満次郎(のちに平次郎)、諱は飲光、字は慈雲。宗教家、能書家、言語研究者。その業績は多岐にわたる。
享保3年(1718)7月、慈雲は大坂・中之島の高松藩蔵屋敷に生まれる。神道や仏道に造詣の深かった父母のもとで、9歳にして初めて文字を読み、10歳で習字と読書を習う。恐れ知らずの気性の激しい少年で、己を賭して人に尽くす剛毅な性格だったため、将来は無頼の徒になるだろうと噂されていた。少年期の慈雲は仏法の説く死後の世界に疑問を抱いており、「釈迦は虚誑(こおう)の首領」「仏教は虚妄」だと思い込み、仏の教えよりむしろ通俗的な朱子学に心服していた。慈雲13歳、父の遺言に従って大坂・法樂寺で出家剃髪した際も、心の裡では「十年間、仏教を学んだ後は儒学を学び、仏教を批判すべし」と強く決意していたという。
寺院では経典を読み、釈迦の言葉とされる古代インドの梵字を学んだ。厳しい修行生活のなかで慈雲は瞬く間に頭角を現し、弟子の首席を任されるのに時間はかからなかった。15歳のとき、密教の四度加行(しどけぎょう)と呼ばれる基礎的修行の最中、慈雲は仏法に目覚める。「はなはだ感ずるところがあって総身に汗が吹き出し」、泣いて懺悔したという。この回心の体験により、慈雲は偏見から解放され、仏教への信心を確かなものにした。
翌年、京都に遊学した慈雲は3年間、伊藤仁斎の古義塾に通い、その息子・東涯のもとで儒学や詩文を学んだ。同時に、荻生徂徠、石田梅岩ら当代の儒学者の思想にも触れ、日夜学問の研鑽に励んだ。また、奈良の寺を巡り、唯識学などを学んだとされる。
河内・野中寺や信州・正安寺などで仏道修行に励んだ後に解脱。25歳であった。
慈雲尊者の教え
これら種々の学問探求と仏法の実践は、慈雲に宗派の垣根を越えた仏教本来の教え(正法(しょうぼう))への探求を促した。
慈雲は正法律(しょうぼうりつ)、つまり、釈迦が説いた教えそのものを重視し、私情を交えず、仏教の真髄を極めようとする原点回帰の姿勢を重んじた。そのため、戒律復興を善とし、「もし中国、日本を網羅して、一微塵ばかりの正法を求めようとも、実に得べからず」と当世の仏教の在り方を嘆いた。当時、経典の多くは漢語に訳されていたが、それでは真の仏意を知ることはできないと考えた慈雲は、原語である梵字を独学で学んだ。理論的考察により梵字の理解を深め、これをまとめた千巻にもわたる『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』は梵学研究における先駆的な大著として、今なお世界中の言語学者に研究対象とされている。近代仏教学、インド学の必読書でもあり、その緻密かつ膨大な資料や網羅的な梵字字典の数々は世界に類を見ない。明治期に来日したフランス人のサンスクリット研究家シルヴァン・レヴィがこの一大書に舌を巻いたのも当然といえる。
正法律を広める運動は釈迦時代の僧衣の再現にまで及んだ。小欲知足、衣法一如(袈裟と仏の教えは一つ)という考えを基に『方服図儀(ほうぶくずぎ)』を集成。その実践として千衣裁製(せんねさいせい)を発願した。釈迦の示す僧衣を再現することで袈裟本来の正儀を明らかにする。そのために、慈雲は僧衣の製法、材質、染料、尺度に至るまでを細やかに明示し、僧尼らに作らせた。
晩年、慈雲は人々の求めに応えて近畿一円の寺院を回り、庶民に対して平易な言葉で法説を開講した。そこで語られた内容には先に述べた『十善法語』も含まれる。『十善法語』とは「十善戒」を守ることで人間が本来持つ菩提心を働かせ、人倫日用の道を説くものである。
「十善戒」には「不殺生」「不偸盗(ふちゅうとう)」「不邪淫」「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」「不慳貪(ふけんどん)」「不瞋恚(ふしんに)」「不邪見」があり、身・口・意の三つの業に分けられている。
「人の人たる道は、十善にある」という慈雲の言葉は性差や身分差を超越した普遍性をもって人口に膾炙し、とりわけ士農工商の下層階級に位置する人々の思想的なバックボーンとなった。大坂の商人や農民は慈雲の教えを通して学びの大切さや世に背かない生き方を学んだのだ。数々の偉業を成し遂げた後に隠棲した慈雲は、文化元年(1804)12月、京都・阿弥陀寺において87歳で遷化した。その生涯はお釈迦さまを再現する姿そのものであり、日本の小釈迦と呼ばれる由縁である。
フィールドノート
中之島・慈雲尊者誕生の地
大阪市北区中之島。堂島川にかかる玉江橋の辺りは、江戸の日本経済において重要な場であった。橋の北側、中津藩蔵屋敷跡には福澤諭吉の生誕碑がある。慈雲の生誕碑があるのは橋の南側で、かつて高松藩の蔵屋敷があった場所、現在のロイヤルホテル北側に位置している。碑が建てられているのは結婚式場の敷地内である。生誕碑の隣には平成24年(2012)に顕彰碑も建立されている。顕彰碑を形作る十層の石柱は『十善法語』にちなんでいる。
修行の足跡を辿る
法樂寺(大阪市東住吉区)
慈雲が出家得度した寺院。ここで忍綱貞紀和上より薫陶を受ける。幅広い学問研究に励む慈雲にとって、「学術がなくては法将となって外道を降伏させることはできない」という忍綱の助言は導きとなった。境内には樹齢千年の大楠がある。修行僧時代、慈雲はこの木の葉を集めて風呂を沸かしていたという。
各地の寺で修行を積んだ後、元文5年(1740)、忍綱の譲を受けた慈雲は23歳の若さで法樂寺の住職となる。この寺で阿字観(瞑想法)を授かった慈雲は一切の寺務を放棄し、日夜部屋で座し続けた。
野中寺(羽曳野市)
元文元年(1736)からの約2年間を過ごし、密教の灌頂(正当な継承者となるための儀式)を受けた。同3年(1738)、慈雲は具足戒(僧坊の一員となるために守るべき戒律)を受け、比丘(正式な修行僧)となった。学問研究に傾倒していた慈雲は、ここで一つの転機に直面する。寺の蔵で偶然手にした書物を読んだことで「多聞は生死を度せず、仏意とはるかに隔だつ」と自省し、単に知識を探求だけでは限界があると感じ、以後座禅の修行に邁進した。
雙龍庵(そうりゅうあん)跡(現・天龍院)(東大阪市)
生駒山中、長尾の滝のほとりに位置する。宝暦8年(1758)、41歳の慈雲はここに自ら設計した雙龍庵を結んだ。茅葺き屋根に入母屋造りの建物で、いくつもの禅室があり、窓からは河内平野が一望できたという。法の守護者である雙龍(双竜)の名を冠したこの場所に移り住んだ理由は、本格的に正法の研究に取り組むための環境づくりに加えて慈雲の愛弟子の早世が原因の一つであったともいわれている。「しづかなり人もとひこぬ山住は窓の月かげ軒のしら雲」という歌は隠棲地の閑寂としたさまをありありと表現している。先述の千衣裁製や『梵学津梁』の完成といった大事業はこの地に滞在中になされた。現在、雙龍庵の遺構の一部である禅那台は東大阪の長栄寺に移築されている。長栄寺は慈雲ゆかりの寺院の一つであり、大坂での説法は専ら長栄寺にて行われたという。
慈雲尊者の墓
慈雲の本墓は高貴寺(大阪府南河内郡河南町)にある。天明6年(1786)、この寺の僧坊が幕府に認可されて以来、慈雲はこの地を真言律宗の総本山としたという由縁がある。京都で遷化した慈雲の遺骸は弟子たちによりこの地に運ばれて埋葬された。『梵学津梁』もこの寺に保存されている。
蘇る偉業、広がる教え
平成30年(2018)は慈雲尊者生誕300年の記念年である。法樂寺の関係者を発起人として有志を集い、慈雲の功績を後世に残すために種々の行事が催された。同年7月には法樂寺にて生誕三百年記念法要が行われた。また、「慈雲尊者の足跡を訪ねて」と銘打ったバスツアーやDVD制作など、慈雲尊者の名を広める活動が行われた。
現代日本において慈雲の存在を知る者は少ない。それは決して大胆華美ではない隠遁者的な気質、あるいはその偉業があまりに多岐にわたりすぎる故かもしれない。慈雲の業績、とりわけ梵字研究などの学問領域においては海外の研究者のほうがより慈雲を高く評価しているとさえ思える。
早稲田大学の留学生センター長を務め、日本の宗教の専門家であるアメリカ人研究者・ポール・ワット氏は、慈雲の教えが身分さを超えたところに近代日本の道徳観の基礎を築いたことや、様々な宗教を融合させる柔軟な思想を高く評価しており、「宗教的対立が加速する昨今の情勢において慈雲の寛容な宗教観は見倣うべき手本たりうる」と述べている。
2019年2月
葭谷隼人
≪参考文献≫
・岡村圭真、三浦康廣『慈雲尊者の生涯』(本稿掲載写真の一部を抜粋)
・慈雲尊者二百回遠忌の会『真実の人 慈雲尊者』
・Paul. B Watt『第九回・石門心学講演会記録』
≪施設情報≫
○ 慈雲尊者生誕碑・顕彰碑
大阪市北区中之島5–3–74
アクセス:京阪中之島線「中之島駅」下車すぐ
○ 法樂寺
大阪市東住吉区山坂1–18–30
アクセス:JR阪和線「南田辺駅」より徒歩約5分
○ 長栄寺
東大阪市高井田元町1–11–1
アクセス:近鉄奈良線「河内永和駅」より徒歩約5分
○ 野中寺
羽曳野市野々上5–9–24
アクセス:近鉄南大阪線「藤井寺駅」より徒歩約10分
○ 高貴寺
大阪府南河内郡河南町平石539
アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス「平石」下車徒歩約15分
○ 雙龍庵跡
東大阪市山手町2054
アクセス:近鉄奈良線「額田駅」より徒歩約40分