第7話
徳を政治の基本にすえた賢者
第30代敏達(びだつ)天皇3年1月1日(574年2月7日)に、第31代用明天皇の第2皇子として生まれた。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。
用明天皇と穴穂部間人皇后の父は、ともに第29代欽明(きんめい)天皇で、用明天皇の母は蘇我堅塩(きたし)姫、穴穂部間人皇后の母は堅塩姫の妹の蘇我小姉(おあね)姫。2代にわたる姉妹の婚姻で生まれた廐戸皇子(後の聖徳太子)は、蘇我氏の血を濃く受け継いだ。
さらに、後に政治で辣腕を振るう蘇我馬子(うまこ)は蘇我堅塩と小姉姫の兄、つまり聖徳太子の大叔父で、蘇我稲目(いなめ)は曾祖父にあたる。こうして完全に蘇我氏一族に組み込まれたことが、後年の歴史を複雑にする(系図参照)。
聖徳太子という呼び名は天平勝宝3年(751)に編纂された『懐風藻(かいふうそう)』に初出する。廐戸皇子と呼ばれたいきさつは、出産予定日に母穴穂部間人皇后が宮中を巡察中、廐(うまや)の戸にあたった拍子に生まれたからだとある。
生後3カ月で会話ができ、1年後には東に向かい南無仏(なむぶつ)を唱えて合掌し、長じては一度に10人の訴えを聞き分けるほど賢明であったと伝えられている。
フィールドノート
「丁未(ていび)の乱」初陣の地 ― 大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)(下ノ太子)
用明天皇が僅か即位2年で急逝すると、皇位継承をめぐって穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推す物部守屋と、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を立てる蘇我馬子の2大豪族が対立した。大和政権の一翼を担った軍事部族の物部氏は、財政を掌握する蘇我氏と仲が悪い上、蘇我氏が朝鮮から入れた仏教信仰とも対立して廃仏論を提唱。用明天皇2年(587)、河内国渋川で両軍は激突した。
蘇我馬子側は泊瀬部皇子を筆頭に竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子らの皇子と、妃(き)、巨勢(こせ)、膳(かしわ)、大伴、阿部、平群(へぐり)の諸部隊が連合して討伐戦に挑んだが、精強な物部軍と3度戦い3度破れる。蘇我軍に参戦していた14歳の廐戸皇子は形勢不利とみて、白膠木(ぬりで)を切り、急いで四天王の像(みかた)を彫り、「もし我を勝たせてくれたなら、必ず護世四王のために堂宇を建てましょう」と祈願したといわれている。
大阪府は中河内のJR八尾駅近く、国道25号線沿いにある大聖勝軍寺一帯は物部氏の本拠地であり、丁未の乱の主戦場となった。同寺は戦に勝利した聖徳太子が四天王を祀る太子堂を建立したのが始まりで、また敵であった物部守屋像と太子16歳像を安置し、「敵味方の区別なく両軍の霊を弔い、和の心を後世に伝う」と寺伝にある。近くには弓塚や物部守屋の立派な墓もある。排仏派であるが故に滅ぼされた守屋だったが、神道が擁立されるとその存在が見直され、国道に面した墓には日本各地の神社の名を記した玉垣がめぐらされる。最初は共に国を治め、一時は相反し戦いを交えたが、時の移り変わりとこの地に住む人々の広い心で再び共存する。これもまた、廐戸皇子が唱えた敬愛の精神の現われであろう。
元四天王寺〔鵲森宮(かささぎもりのみや)神社〕の存在
四天王寺は、『日本書紀』推古天皇元年(593)9月の条に、「この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造りはじめた」と記されているが、四天王寺についてさらに調べていると、一つ気になることが見つかった。「元四天王寺」の存在である。四天王寺に伝わる廐戸皇子(以後、聖徳太子と表記)の直筆といわれる「四天王寺御手印縁縁起」に丁未の歳〔聖徳太子が物部氏を滅ぼした年(587)〕、玉造の岸上に寺を建てたとの文言がある。これは何を意味するのだろう。
JR森ノ宮駅すぐ近くに鵲森宮神社(通称森之宮神社)があり、元四天王寺ともいわれているので訪ねた。宮司の石崎弘幸さんは「玉造の岸上とは、この鵲森宮神社のある辺りのことです。聖徳太子が物部氏との戦いに勝利されたのち、父の用明天皇を神として祀られました。その後、四天王像をお祀りするための寺を建てられ、それが天王寺(元四天王寺)なのです」と話す。その後、推古天皇元年(593)に寺は難波の荒凌に移される。現在の四天王寺がそれであるという。
当時の鵲森宮神社は現在の場所から少しばかり離れていて、河内湖に面していたという。明治になっても鵲森宮神社の前には天野川が流れ、鵲橋が架かっていた写真が残っている。現在のJR森ノ宮駅付近という。
1400年を経てなお日本人の心を律す
聖徳太子は元四天王寺を難波に移し、戦勝を謝して四天王を祀った。中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、左右に回廊を巡らせた百済式伽藍に加え、敬田院(きょうでんいん)、施薬院、療病院、悲田院の四箇院をつくった。竣工までには数十年の歳月を要したといわれる。四箇院は聖徳太子が共鳴した『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の思想に基づくもので、社会・福祉事業の先駆といわれる。
推古天皇3年(595)、高句麗の僧慧慈(えじ)が来日、聖徳太子の仏教の師となる。同9年(601)、斑鳩宮を造営。同11年(603)、氏姓制ではなく才能を基準に人材登用を目指す「冠位十二階」を制定し、同12年(604)、天皇の中央集権国家の建設を推進する力となる「十七条憲法」を発布した。同22年、最後の遣唐使を派遣。同30年(622)2月22日、48歳で崩じる。
聖徳太子の「十七条憲法」第1条の「以和為貴」(和を以って貴しと為す)はあまりにも有名である。各項の条文を読むと、憲法というよりは、我(が)を通すことが優先された古代において、徳をもって他人を思いやる心を育むための指針を示す道徳書のようなものに思えるのだが。
1400年を経てなお日本人の多くの心を律し、心の根幹をささえることから、高額紙幣の肖像画にもなった。日本最古の木造建築物を有する奈良県斑鳩町の聖徳太子建立の法隆寺は世界遺産となり、大阪市の四天王寺では聖霊会が毎年行われる。
ゆかりの寺が現在も多くの人々の信仰対象とされていることは、稀有なことである。
はじめての国立演劇研究所 ― 土舞台
推古天皇20年(612)、百済から渡来した味摩之(みまし)が「呉の国に学び、伎楽の舞ができる」と言うのをうけて、桜井(奈良県)に住まわせて少年たちに伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まのおびとのでし)、新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の二人が習ってその舞を伝えたと『日本書紀』に記されている。
同県桜井市の市立桜井小学校を見下ろす小山の台地に土舞台の碑がある。聖徳太子が味摩之の舞う呉の仮面劇の芸術性を認め、若者たちに修得させたのがこの場所であったという。一方、近年明日香村の豊浦の向原寺(こうげんじ)あたりこそが、その場所であったという説もでて、新たに伎楽伝承地の石碑が建立された。豊浦は推古天皇の豊浦宮が置かれた所であったことを考えると、伎楽を学ぶ場所があっても不思議ではないのだろうが、場所についての諸説は推測の域である。
歌舞音曲でもてなす ― 四天王寺「聖霊会(しょうりょうえ)」
四天王寺で最も大事で盛大な行事「聖霊会」は、本来は聖徳太子の命日とされる旧暦2月22日に行われていた。かつては「寒さの終(はて)も聖霊会(おしょうらい)さん」と言われ、季語にもなるほど大阪の庶民に馴染が深く、江戸時代までこの日だった。現在は新暦4月22日に行われている。
聖霊会の法要は伽藍の北にある六時堂に仏舎利と聖徳太子像をお迎えし、御霊を慰める法要の間、堂の前の石舞台では雅楽や舞楽が途切れることなく奉納される。それは太子が「三宝の供養には、この新しい外国の音楽や舞を用いよう」と言われたことに始まる。現在は昼過ぎから夕方にかけてだが、かつては早朝から夜遅くまで時間をかけて行われてきた。その賑わいの様子は『摂津名所図会』に描かれている。
四隅に巨大な赤紙花の曼珠沙華を飾った石舞台の上で舞われる舞楽は、曼荼羅図に描かれた仏の世界「極楽」をこの世に再現しようとしたものだと考えられ、古い時代の人々は、この聖霊会の舞楽を見て、浄土とはこのようなものかと夢を思い描いたのだろう。
舞楽には、左方の唐楽(とうがく)と右方の高麗楽(こまがく)がある。唐楽は中国大陸から伝来したもので赤系統の衣装、高麗楽は朝鮮半島から伝来したもので緑系統の華麗な装束をつける。現在の我々がもっている侘び、さびの古典文化のイメージとは異なり、大仕掛けでカラフルな装束は、極楽浄土を表したというより、見たこともない異国の優れた文化に触れ、感嘆(驚嘆)させるエンターテイメントだった。
聖徳太子が取り入れようとしたグローバルな知識は、後の奈良時代で大きく花を咲かせた。日本人の海外の文化を取り入れようとした進取の気質は、聖徳太子によって芽生え、現代にまで受け継がれてきたといえる。今も寺々では、境内や堂内で古今東西の音曲が奏されて参詣者ともども仏を慰めている。
聖徳太子薨去(こうきょ)の年のずれ
法隆寺と聖徳太子についても謎が多い。我が国の黎明期において、冠位十二階や十七条憲法を制定し、混沌とした国家の礎をつくろうと真摯に立ち向かったのが聖徳太子であった。真実の追究を身を以って実践したがゆえに、その一族は滅亡しなければならなかったのも運命であったといえる。聖徳太子が神格化し、神秘化されるにつれ、真実はベールに覆われていく。
太子の没年について『日本書紀』では「推古天皇29年(621)の春2月5日、夜半に廐戸豊聡耳(うまやどのとよとみみの)皇子命、斑鳩宮に薨(かむさ)りましぬ」とある。このとき諸王・諸臣および天下の人民は、老いたるものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からぬ程であった。若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声は巷に溢れた。農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音もさせなかった。皆がいった。「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と。この月、磯長(しなが)の陵に葬ったとあり、その死因を述べていない。
一方、『天寿国繍帳(ししゅうちょう)』や『法隆寺金堂釈迦三尊像』光背(こうはい)(後光)、『法隆寺塔婆露盤(とうばろばん)』の各銘文には、推古天皇30年(622)2月22日とある。『釈迦三尊像』の光背の銘文には「推古29年(621)の12月20日の夕に太子の生母穴穂部間人皇后が崩じ、翌年1月に太子が病床につき、2月21日に太子の妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなり、続いて翌22日に太子が薨(こう)じた」と詳細に記されている。この1年の違いは何を意味するのか。繍帳に縫い込まれた「世間虚仮(せけんこけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」つまり、この世の物事はすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実であるという言葉がいかにも聖徳太子らしく、印象に残る。
母も妻も共に眠る ― 叡福寺
なぜ聖徳太子は磯長(大阪府太子町太子2146)を墓所としたのか。磯長は蘇我氏の本拠地であり、太子は蘇我氏とのつながりが深かったからではないかといわれている。太子が亡くなる前年の推古天皇28年(620)に墓所を決めていたのは、何か虫の知らせのようなことを感じていたのかも知れない。
南大門をくぐればゆったりとした境内の正面に聖徳太子の廟が座している。「北古墳」とも呼ばれ、「岩屋山式の切石造り両袖式」という石室の奥に穴穂部間人皇后の石棺、前部の右側に聖徳太子、左側に太子がもっとも愛したといわれる妃の膳大郎女の石棺が安置されていると伝わる。なお正妃である刀自古郎女(とじこのいらつめ)は生没年不詳でその墓所も不明である。
2019年2月
(中田紀子)
≪参考文献≫
・日本古典文學体系『日本書紀 下』(岩波書店)
・大山誠一『聖徳太子と日本人』(角川学芸出版)
・上原和『聖徳太子』(講談社学術文庫)
・宇治谷孟『日本書紀 下』(講談社学術文庫)
・田中龍夫『奈良・大和路』(実業之日本社)
・寺内直子『雅楽を聴く』(岩波新書)
・棚橋利光『八尾の史跡』(やお文化協会)
・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂)
・和宗総本山四天王寺『四天王寺』
・総本山四天王寺『四天王寺』
・南谷美保『四天王寺聖霊会の舞楽』(東方出版)
・浦池勢至『太子信仰』(雄山閣出版)
・天王寺雅楽所雅亮会『雅亮会百年史』
・森邦夫『わが国における初期寺院の成立』論文
≪施設情報≫
○ 大聖勝軍寺
大阪府八尾市太子堂3–3–16
アクセス:JR大和路線「八尾駅」より南西へ徒歩約12分
○ 鵲森宮(元四天王寺)
大阪市中央区森の宮中央1–14–4
アクセス:JR大阪環状線、大阪メトロ中央線「森ノ宮駅」西すぐ
○ 四天王寺
大阪市天王寺区四天王寺1–11–18
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約7分
○ 叡福寺
大阪府南河内郡太子町太子2146
アクセス:近鉄長野線「喜志駅」より金剛バス「上の太子バス亭」すぐ
○ 法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1–1
アクセス:JR大和路線「法隆寺駅」より北へ徒歩約20分、奈良交通バス「法隆寺前」下車すぐ
○ 桜井市谷土舞台
奈良県桜井市谷
アクセス:JR万葉まほろば線、近鉄大阪線「桜井駅」より南へ約800m
○ 明日香村向原寺土舞台
奈良県高市郡明日村豊浦
アクセス:近鉄南大阪線「橿原神宮前駅」よりバス「豊浦バス停」すぐ