第89話
文武両道に秀でたスーパー・ヒロイン
三好正慶尼。歴史の表舞台には登場しないが、江戸後期には、「奴の小万」の名で人形浄瑠璃や歌舞伎の主役として大坂はもとより江戸まで知れわたった浪華のスーパー・ヒロインである。『浪華人物誌』によると、「三好雪女(ゆきじょ)(正慶尼)は浪華の豪商某の妾腹の子なり、幼より長堀薬舗木津屋五郎兵衛の養女となる。木津屋の氏は三好、これも豪商なり。十六、七歳のころから婿を迎えず、嫁にも行かずと云う、生まれつき侠気あり、色白く肥えて力強く」とある。少女時代の雪ことは全く不明で、松井今朝子さんの小説『奴の小万と呼ばれた女』を参考にさせて頂くことにする。読み書きに優れ、箏やお香にも通じ、雪のように色白で手足はすらりと長く伸びた美少女。10歳の頃には習い事の合間を縫って柔の町道場に通う男勝り、背丈は5尺7寸というから173㎝の長身で、髪を結い簪(かんざし)を差すと鴨居を越して天井につくほどであったという。
16歳のとき、雪女は二人の腰元を従え、縮緬の振袖に緞子(どんす)の帯をきりりと締めて四天王寺の秋の念仏会に参詣に出かけた。参詣の人で賑わう下寺町から口縄坂を上り、その中腹にさしかかったとき、二人組の悪党が坂の上から走ってきて雪女の鼈甲の簪に手を伸ばした。雪女は素早く手首を掴んで足を払うと、男は真っ逆さまに坂道を転がり落ち、下で待ち受けた二人の腰元が男の股座を蹴り上げた。さらに雪女は、懐を狙ったもう一人の男の手首をねじりあげ、男は悲鳴を上げてほうほうのていで逃げ出した。このようすを見ていた周りの人たちは、雪女に拍手喝采を送って大騒ぎ。雪女は、腰元が着ていた紋付から木津屋の娘・雪女と知られ、その武勇伝は尾ひれが付いてあっという間に大坂中に広まった。二人の腰元を従えて町を歩く雪女は、たちまち浪華の人気者になり、若い娘たちは雪女のファッションを真似するほどであったという。時には顔に墨を塗り、その上に白粉で化粧するなど元祖ガンクロギャルといったところ。この武勇伝を聞きこんで女任侠物に仕組んだのが、人形浄瑠璃作者の並木竹助と浅田一鳥である。延享5年(1748)、道頓堀豊竹座で『容競出入湊(すがたくらべでいりのみなと)~奴の小万~』と銘打ち初春興行を行ったところ、奴髻(やっこたぶさ)に尺八を持った奴の小万の大立ち回りが大当たりしたと、歌舞伎作者の浜松歌国は『南水漫遊』に書き残している。町の噂に芝居が加わり、ついには東海道を股にかけた女侠客「奴の小万」の名前は大坂中に知れ渡り、雪の虚像は一人歩きしていった。
20歳になった雪女は、こうした騒ぎから逃れるように、京の御所に奉公に出る。雪女が京で5年間どうしていたか詳しくは判らないが、公家長橋局の祐筆(ゆうひつ)(書記係)として、和歌や漢詩など雅な教養を身につけたと思われる。
宝暦3年(1753)、雪女は木津屋の主・五郎兵衛の急死で大坂に呼び戻され、木津屋の女主(おんなあるじ)として大店を任されることになる。5年の御所勤めを終えたといえ、雪女に「奴の小万」の虚像がつきまとい、「同業者の寄合いでも色眼鏡で見られるなど苦労はあったという。正月の薬種業仲間の寄会で雪女は、19歳の木村孔恭(こうきょう)(後の木村蒹葭堂)と出会い意気投合。孔恭の妻の示女とは幼馴染の間柄ということもあり、蒹葭堂サロンに出入りして、画家、儒学者、俳人等の文人から大名まで当代一流の知識人と交友を重ねた。宝暦6年(1756)、28歳になった雪女は「女の家主は3年まで」いう御法度に従い、番頭に店を譲り剃髪して三好正慶尼と名乗る。『蒹葭堂日記』には「正慶尼来ル、泊ル」など、蒹葭堂が亡くなる直前まで60数回に及ぶ訪問の記録が残る。最晩年の正慶尼は『浪華人物誌』に「難波村で定まった住まいを持たず他人の家を転々としながら気儘に過し、棺は自ら用意して、文化三年五月二日、路上に頓死す」とある。享年78。波乱万丈の大往生である。
フィールドノート
画家・三好正慶尼
正慶尼が和歌や漢詩に長じていたことは知られるが、画家としても数は多くはないが作品を残している。関西大学図書館に正慶尼が描いた絵があることがわかり見せて頂いた。京の町中の花売り娘『大原女図』である。なんと、この大原女は右手に赤いキセルを持って口から煙を出しながら歩いている大胆な構図。御所勤めを終えて大坂に戻った雪女が、京を想い描いたのかもしれない。画賛(がさん)(絵の余白に添えた文章)には「宝暦五年六月郡山柳沢湛園」とある。木村蒹葭堂の紹介で大和郡山藩の重臣で南画の大家・柳沢湛園に絵を習い始めた初期の作品である。
『江戸期おんな表現者事典』にも、三好正慶尼は漢詩、画家として記載されている。作品は『自画像述懐図』『六歌仙画』等とある。柳沢湛園は多芸多能な風雅な人、色白でグラマララスな雪女と艶福家湛園のことだから愛人ではという噂も流れていたという。余談になるが、柳沢湛園は晩年、郡山藩の重臣として自藩には直接関係は無いにも拘わらず「万民の大益、諸国民の益」のためと幕府の許可を得て、北前船を但馬国の円山川から播磨国の市川を通す航路「播磨但馬間通船計画」に賛同し、その資金集めに尽力。この壮大な日本列島改造計画は膨大な資金が集まらず頓挫する。しかし湛園の夢にかけて奔走する男のロマンに正慶尼は魅かれるものがあったのでは…。こんな噂話が大坂の文檀の中で瞬く間に広まり、上田秋成の耳にも入っていたと思われる。
『器量は見るに煩悩の雨宿り』
それから10年、正慶尼は蒹葭堂サロンの異色の花形の有名人、蒹葭堂と上田秋成は茶飲み友達。三人でどんな会話が弾んだのか。明和3年(1766)、秋成が和訳太郎(いたずら坊主)の名前で書いた浮世草子の処女作『諸道聴耳世間狙(しょどうききみみせけんざる)』に正慶尼と柳沢湛園がモデルとして登場する。三之巻一『器量は見るに煩悩の雨宿り』は、京から武士の格好で江戸見物に行った商人・柳屋権兵衛が、隅田川辺りで雨に降られ飛び込んだ一軒家が尼の庵。そこで一夜を勧める浄慶尼に、好色ゆえに自分を泊めたと勘違いして涎(よだれ)を流すが、尼の狙いは武芸の試合で、男はほうほうの体で逃げ出した、という話である。この武芸好きの浄慶尼のモデルが三好正慶尼、権兵衛のモデルが柳沢湛園である。『諸道聴耳世間狙』が刊行された時には柳沢湛園は亡くなっていたが、正慶尼は38歳。出家したといえ気儘に生きる正慶尼のこと、こんなゴシップは笑い飛ばしたと思われる。
長堀木津屋
雪女が育った長堀木津屋は表間口が12間半、奥行き20間、母屋と二つの土蔵の間に中庭がある大きな屋敷であった。木津屋は炭屋のかたわら薬種業を営む。銅の精錬に使用する木炭を商う大店で、銅吹所いずみやの東隣と地の利を生かし大いに繁盛したと思われる。しかし、享保2年(1717)に馬琴が訪ねたときは、大きな空き屋敷があったと記しているから既に廃業をしていた。現在の大阪市中央区島之内1丁目、末吉橋西詰の南側だ。長堀川は埋め立られ、長堀通りの横堀川の上には高速道路が走る。銅吹処いずみやの跡には三井住友銀行事務センターのビルが建ち、東側の木津屋の跡地には往時を偲ばせるものは何もない。
口縄坂から始まった奴の小万伝説
天王寺七坂の一つ「口縄坂(くちなわさか)」。松屋町筋から谷町筋まで東西に真っすぐ伸びる坂道で、下から眺めると起伏が蛇のように波うってみえるから口縄坂と名つけられた。長い石畳の石段に沿って真っすぐ延びる寺の築地塀、レトロな街燈、両側から覆いかぶさる木々。静かで別世界に迷いこんだような風景だ。「大阪みどりの百選」に選定された道である。石畳の石段を鉄製の手すりを掴みながらゆっくり登って中ほどで一休み。石畳の陽だまりで昼寝していた野良猫がピクッと耳を立て目を開けたが、また直ぐに目を閉じた。振り返り下を見ると結構な坂道。ここが雪女の武勇伝の舞台になった場所である。投げ飛ばされた悪党二人が坂を転がり落ちる姿が目に浮ぶ。そして奴の小万伝説は始まった。石段を登りきったところに織田作之助の『木の都』の一文が刻まれた文学碑があり、その先の浄春寺は画家の田能村竹田や天文学の麻田剛立の墓所である。また、梅旧院には「口とじて蛇坂を下りけり」と詠んだ芭蕉の供養塔もある。まさに歴史街道である。
剃髪して三好正慶尼と名乗り難波村・木津村に隠遁
雪女は28歳になると剃髪し、仏門に入って天王寺村の月江寺に寄偶したと伝えられる。そして、自分の家系は戦国武将三好長慶の末裔だとし、「三好正慶尼」と名乗った。朝夕の読経の声は四方に響きわたり、人々が耳を澄まして聞き入るほどの美声だったという。程なくして木津村の別宅に移るが、人の往来が煩わしいといって家を菩提寺に寄進し、難波村で知人の家を転々としながら暮らした。
文政8年(1825)刊行の『文政新改摂津大阪全図』を見ると、難波村は道頓堀川の直ぐ南側の新開地で、芝居小屋や遊所が建ち並ぶ道頓堀には至近距離にあることがわかる。任侠気質で気ままに暮らす正慶尼には快適な場所だったであろう。遊所の芸妓たちに俳諧や和歌それに筝などを教えていたとの記録もある。また、鉄眼禅師開祖の瑞龍寺での大法会の折、突然のにわか雨に大勢の参詣者が途方にくれていた時、使いの者を長町に走らせ傘を100本買ってこさせ人々に配り与えたという正慶尼の晩年のエピソードを、浜松歌国が『南水漫遊』に書き残している。困った人を見捨てられない正慶尼の侠気が人気を呼び、庶民の間で語り継がれたのかもしれない。
正慶尼ゆかりの瑞龍寺は、『摂津名所図絵』を見ると七堂伽藍を配した大きな寺だ。しかし昭和20年(1945)の大阪大空襲で全焼。現在の瑞龍寺は、昭和54年(1979)に難波のビル街のなかに建立された。朱塗りの山門と鉄筋3階建の本堂(瑠璃光殿)をもつ、ちょっと派手目な異彩を放つ禅寺である。
滝沢馬琴が三好正慶尼と面談
享和2年(1802)、滝沢馬琴(当時36歳)が作家としてデビューする前、京坂を旅行して『羇旅漫録(きりょまんろく)』(註1)を著した。この中に正慶尼との面談記録『奴の小万が傳』を4ページにわたって書き残している。「長堀銅吹処いずみやの隣に大なる空き屋敷あり。このところ正慶の家なりという」さすが小説家の馬琴、長堀の生家を訪ねている。そして、難波村で方々正慶尼の居所を探し、やっと医師鎌田氏を介して面会に成功する。「正慶みずからいう74歳と。顔色既に老衰すと言えども、いにしえの余波(なごり)みゆ。歩行いまだすこやかなり」扇面に揮毫を乞うと、こころよく「早春」という題の一編の漢詩を書いてくれた。
金城春色映丹霞 活気和風到萬家
死笑宴然楼上興 捲簾先見園中花
早春 三好氏婆 正慶草
春の赤い靄(もや)のかかった大坂の町の風景と、明るく盛り上がった宴会の様子を詠んだ七言絶句の漢詩である。時に馬琴36歳、正慶尼74歳「手跡甚だ見事なり。正慶草とあるから自作であろう。言葉に侠気を感じる」と書き残している。
(註1)『羇旅漫禄』滝沢馬琴 享和2年(1802)5月から8月まで京坂を旅行し、各地の風俗や人物など図入りで克明に記録した取材旅行記。当時の風俗を知ることが出来る貴重な本。国立国会図書館デジタル・コレクションで原本閲覧可能
木津村「唯専寺」
三好正慶尼が葬られたのは大阪市浪速区敷津西の唯専寺。明治初年まで木津村と呼ばれていたところ。小野妹子所縁の願泉寺の向いである。寺の門のインターホンで「三好正慶尼についてお話を伺いたい」と案内を乞う。住職は亡くなられ奥様に対応して頂いた。正慶尼ついて尋ねると、「住職は色々と調べていたようですが、私は何も知りません。昭和20年の大阪大空襲で寺は全焼し、過去帳も含め総て焼失した」という。「残ったのは墓碑と辛うじて徴用を免れた梵鐘だけ」ということで、入口の鐘楼に案内して頂いた。刻銘は読み取ることはできなかったが、以前採られた拓本を見せて頂いた。寛永14年(1637)鋳造の梵鐘で、江戸の三好某寄贈とある。明治25年(1892)に小説『奴の小万』を上梓した村上浪六(1865~1944年)は、その後書きに「西成郡木津村の唯専寺を訪ね当て、古い過去帳の中から『文化三年五月二日西刻葬。正慶。大和屋庄兵衛、同家、木津屋正慶』を見つけ出した」と述べ、「そして墓碑を探したが見つからなかった、ただ、草に埋もれた百年以上は経ったと思われる文字のない小碑があったと」記している。あの大空襲まで正慶尼の過去帳はあったのだ。ここが長堀木津屋の菩提寺であることを確信して唯専寺を後にした。
語り継がれる奴の小万伝説
奴の小万の人気は明治になっても衰えることがなかった。村上浪六の小説しかり、大衆の娯楽の花形として登場した無声映画にとっても、「奴の小万」がバッタバッタと悪玉を切り捨てる大立ち回りは見せ場の一つだった。大正から昭和の初期にかけて5本の無声映画『奴の小万』が製作された。十代の頃には四ツ橋で男たちを相手に派手な立ち回りを演じたとか、歌舞伎役者の嵐吉三郎を愛人にしたとか、東海道をまたにかけた盗賊・日本左衛門の情婦だったとか、あらぬ噂の正慶尼だったが、その実像は、漢詩や書画に親しむ教養豊かな女性である。
平成15年(2003)、直木賞作家の松井今朝子さんが『奴の小万と呼ばれた女』上梓。同16年(2004)には、前進座が国立劇場で鶴屋南北・文政11年(1828)作の『裙模様沖津白波(つまもようおきつしらなみ)―奴の小万』を河原崎國太郎主演で上演し、本邦初の通し(全編)として話題となった。近年では落語家の桂福丸さんが『女侠客・奴の小万』を、講談でも旭堂南華師が「女任侠・奴の小万」を口演するなど、静かな「奴の小万ブーム」といったところ。長堀木津屋の分家筋にあたる堀江木津屋の十三世木津屋治郎兵衛氏は、家業の傍ら自宅で「木津屋の集い」を主宰し、ゆくゆくは長堀木津屋跡に三好正慶尼の記念碑をと話す。
独特の上方文化を創りだした商人の町大坂で、実像と虚像を巧みに演じ分け波瀾万丈の78年の生涯を全うした三好正慶尼。大阪女性のパワーの源流「奴の小万」の伝説は、今も「なにわ大坂」のヒロインとして語り継がれる。
2019年2月
橋山英二
≪取材協力≫
・唯専寺
・十三世木津屋治郎兵衛氏(木津屋の集い)
・松井今朝子氏
≪参考文献≫
・岡本撫山『浪華人物誌五巻』
・松井今朝子『奴の小万と呼ばれた女』(講談社)
・中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社)
・長島弘明『秋成研究秋~秋成浮世草子のゴシップ性~』(東京大学出版会)
・木村蒹葭堂『蒹葭堂日記』
・浜松歌国『南水漫遊』
・滝沢馬琴『羇旅漫禄』
・上田秋成『諸道聴耳世間狙』
・『三好正慶尼大原女の図』(関西大学図書館蔵)
・柴桂子監修『江戸期おんな表現者事典』(桂文庫)
≪施設情報≫
○ 天王寺口縄坂
大阪市天王寺区下寺町2丁目から夕陽丘町に至る坂道
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より徒歩約3分
○ 唯専寺
大阪市浪速区敷津西2–13
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「大国町駅」より徒歩約5分
○ 瑞龍寺(鉄眼寺)
大阪市浪速区元町1–10
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「なんば駅」32番出口より徒歩約3分
○ 十三世木津屋治郎兵衛氏宅(木津屋の集い)
大阪市西区南堀江4–23–27
アクセス:大阪メトロ千日前線「西長堀駅」より徒歩約7分