第13話
立身出世より天文学研究を優先した江戸期屈指の科学者
麻田剛立は享保19年(1734)豊後国杵築(きつき)藩(現在の大分県杵築市)の儒学者綾部絅斎(けいさい)の子として生まれる。名は妥彰(やすあき)。幼い頃、影の変化を見て太陽の動きに気づき天体観測に興味を持つ。長じて医学を修め藩医として務めるかたわら、独学で太陽や月の運行を観測。宝暦13年(1763)、当時の宝暦暦(ほうりゃくれき)に記されていない日食を予言し周囲を驚かせた。天文学への思いが高じ、ついには安永2年(1773)脱藩を敢行、大坂に移り住み麻田剛立と名乗った。
剛立上坂後まもなく、中井履軒(なかいりけん)は剛立から聞いた人体解剖の話をもとに、医学解剖書『越俎弄筆(えっそろうひつ)』を著わした。
剛立は医者として生計を立てながら、ひたすら天体観測に打ち込んだ。英国製の反射望遠鏡や大坂職人手製の観測器具を駆使し、膨大な観測データを収集する。月面観測図を作成したり、「ケプラーの第3法則(惑星の公転周期の2乗は軌道の長半径の3乗に比例する)」と類似の法則を日本に伝来する以前に発見したりするなど、わが国の天文学上先駆的な成果をあげた。
剛立は、天体観測拠点である大坂本町の自宅に私塾「先事館(せんじかん)」を開いた。門人には大坂定番同心の高橋至時(たかはしよしとき)、両替商升屋の番頭山片蟠桃(やまがたばんとう)、質屋の十一屋(じゅういちや)を営む間重富(はざましげとみ)らが集まった。当時、老中松平定信は不具合の多い「宝暦暦」を改定するため、幕府直属の官吏を起用せず敢えて大坂在住の学者である剛立を天文方に指名しようとした。しかし剛立は定信の度重なる出仕要請を辞退。代わりに門人の至時と重富を推挙し、二人を江戸に送り込んだ。剛立がその優れた能力を見込んだとおり、至時と重富の活躍により「寛政暦」が完成、寛政10年(1798)1月1日から施行されたのである。
剛立は立身出世とは距離をおき、終生後進の指導と天体観測に身を捧げ、寛政暦施行の翌年に65歳で没した。
フィールドノート
中井履軒・解剖学書『越俎弄筆』の実相とは
杵築藩の藩医であった剛立は犬や猫、狐や獺(かわうそ)などの解剖を行い、内臓器官の構造を研究していた。また、時期は不明であるが、3体の人の屍体解剖も行っていたという。しかし、剛立は一連の解剖による研究結果を書物として著さなかった。中井履軒は優れた実績を世に問おうとはしない剛立をみかね、儒者という立場を越えて『越俎弄筆』の筆をとったのである。『越俎弄筆』とは「自分の本分を越えて戯れに書く」という意味で、本来は剛立が執筆すべきものであるが剛立に代わって自分が分(ぶん)を越えて著したという意が込められている。『越俎弄筆』の上梓は剛立が杵築から大坂に移ってからわずか1カ月足らず、杉田玄白らの『解体新書』が世に出る1年前のことであった。
中井履軒は享保17年(1732)に懐徳堂内で生まれた。中井竹山の弟で名は積徳(せきとく)、履軒は号である。履軒は兄とは違い、朱子学における「格物窮理(かくぶつきゅうり)(事物に触れ道理をきわめること)」や「格物致知(かくぶつち)(事物に触れ知をきわめること)」の見地から、自ら足を運んで事実や実態に接し、体験・実証を重ねて真理を求めるという考え方を重視。儒者でありながら西洋の学問(蘭学)に関心をもち、自然科学への造詣を深めていった。履軒は懐徳堂の名目上の学主ではあったが懐徳堂とは一定の距離をおき私塾「水哉館(すいさいかん)」を創設、独自の道を歩んだ。
剛立の兄綾部富阪(ふはん)は杵築藩の祐筆(ゆうひつ)を務め後に郡奉行となった人物で、中井竹山との交流をもっていた。そのこともあり、上坂した剛立は弟履軒と深く交わるようになった。剛立の影響もあってか履軒は天文学への関心を強め、自ら天体図も作製するほどであった。
剛立の知見でもある解剖書『越俎弄筆』は、履軒という得難い親友がいたからこそ後世に残されたといえるだろう。しかし、『越俎弄筆』が剛立の解剖研究の成果であると世に知られたのは、死後160年もたってからである。
医学者の小川鼎三(ていぞう)東京大学名誉教授(1901~1984)は、ある時『越俎弄筆』の写本を手に入れた。それは当時数部しかないといわれた貴重本であった。教授はその本の序文にある履軒の「吾友人豊国麻子」という表現に着目した。そして、この「豊国麻子」こそ豊後出身の麻田剛立その人であることを自著『明治前日本解剖学史』(昭和30年刊)の中で明らかにし、剛立の解剖研究を今日に伝えたのが履軒の『越俎弄筆』に他ならないことを示したのである。小川名誉教授は奇しくも剛立と同郷の大分県杵築市の出身(旧豊後国)であった。『大坂蘭学史話』(中野操)には、『越俎弄筆』にまつわる事情がそのように詳しく紹介されている。
小川名誉教授は自著『医学の歴史』(昭和39年刊)の中で、「人体の解剖こそは医学における実証精神のあらわれであり、真の進歩に最も多くあずかってきたことは疑いをいれない」と述べ、解剖が医学の発展にいかに寄与したかを強調している。剛立にとって、解剖は医学を究めるうえで人体という小宇宙の構造をつかむためのものであり、観測は天文学を究めるうえで大空に広がる大宇宙の成り立ちをつかむためのものである。人体解剖と天体観測は、いずれも実証精神の表れと同根なのである。履軒も剛立と同じく実証主義を重んじる学者であった。『越俎弄筆』は、そうした二人の偉大な学者に共通する精神から生まれたものではなかったか。筆者は『越俎弄筆』の実相は、どうもこのあたりにあったのではないかと思う。
「先事館」と門人たち
寛政元年(1789)に剛立が日本で初めて開いた天文暦学研究の私塾「先事館」は、現在の大阪市中央区本町3丁目辺りにあったとされている。しかし現地にそれを示す標識は何もない。
ただ、本町3丁目という場所は懐徳堂から南へ徒歩約10分、西長堀川にかかる富田屋(とんだや)橋北詰めにあった重富の十一屋から北へ約15分、現在の法円坂にあったとされる至時の大坂定番同心屋敷から西へ約15分、そして後に入門する医師・橋本宗吉の私塾絲漢堂(しかんどう)があった南船場から北へ10分ほどの距離にある。実際に歩いてみると、いずれも先事館を中心に半径1.5㎞ほどの範囲にあり、その距離の近さに驚かされる。
大坂の数学者坂正永(さかまさのぶ)は常々、天体観測には数学の知識が絶対に必要だといっていた。自ら円弧に関する数学書『弧矢弦論解』を著している剛立も同じ意見であった。その正永が数学の天才だと太鼓判を押したのが高橋至時であった。また、「からくり」や「しかけ」(今日の装置や機械工学)に長じていたのが間重富で、京都の金工戸田東三郎を使って様々な観測機器を製作した。そして医学をはじめ天文学や物理学などの西洋の科学知識を吸収・獲得するには、言葉の壁を何としても乗り越えなければならない。それをやってのけたのが重富の支援を受けたオランダ語の天才橋本宗吉である。天文学の三つのツールである「観測と観測機器」、「数学」そして「オランダ語」は、まさに剛立の門人やその流れを受け継ぐ孫弟子3人が受け持つことになった。剛立とその弟子たちは、定時・定点・継続という確たる観測手法と、当時の日本最高水準の知識と技術を持ちあわせた最先端を行く科学者集団であった。老中松平定信が江戸の幕府天文方をさしおき大業である改暦の責任者を大坂から迎え入れようとしたのも当然だといえるだろう。
医学や天文学で優れた業績をあげたにもかかわらず、前述の履軒の著作や同郷の親友で生涯交流のあった杵築出身の哲学者三浦梅園(ばいえん)あての書簡(この中から後述の日本最古の月面観測のスケッチ図が発見された)を除けば、剛立本人が残した著作物・書簡・記録類などの史料はあまりにも少ないといわれている。なぜなら、「実測・実験による大・小宇宙の法則を追究し続けた剛立には、自らが生前に打ち立て究明した法則や真理が、次代には誤りになることが目に見えていたであろう」(『麻田剛立の史料』鹿毛敏夫)とされ、さらに鹿毛氏は同論文の中で、剛立は死を悟った直前にそれらの記録や資料を処分してしまったのではないかと推察している。
江戸時代のメセナ精神
剛立たちが天体観測に使用した望遠鏡は、レンズの組み合わせによる屈折望遠鏡と鏡の組み合わせによる反射望遠鏡の2種類であった。当時、日本には反射望遠鏡(英国製)は2台しかなかったが、道修町で裕福な薬問屋を営む剛立の門人山本彦九郎の働きでその内の1台を手に入れることができたのである。
剛立はこの反射望遠鏡の優れた性能によって月のクレーターを日本で最初にスケッチできたのである。昭和51年(1976)、国際天文学連合(International Astronomical Union)において「クレーター・アサダ」の命名が正式に承認され、剛立の名を永遠に月にとどめることとなった。平成19年(2007)に打ち上げられた月周回衛星「かぐや」は、月の「豊かの海」の北端に位置する直径約12㎞のクレーター・アサダを撮影している。
『暦象考成(れきしょうこうせい)後編』は、西洋の天文学の最新知識を採り入れた中国の天文暦算書で、剛立ら天文学者にとっては喉から手が出るほど欲しい書物であった。しかもこの難解な書物は日本に2、3部しかない稀少本でもあった。ところが重富は持ち前の商才を発揮してこの希少本を手に入れ、先事館にもちこんだのである。剛立、重富、至時の3人はこの書を究めて暦説をまとめ、後の「寛政の改暦」に大きく寄与することとなった。
剛立は、反射望遠鏡といい『暦象考成後編』といい、観測や研究に必須の武器を門人たちの奔走によって手にすることができたのである。侍出身で学究肌の剛立が持ち合わせていないのは財力と折衝力であった。その弱点を補ったのが大坂商人重富らの門人の機転と才覚、飽くなき学問支援の姿勢である。門人たちは世話焼きであったかもしれないが、さりとて押しつけがましいところはなく、師弟関係は風通しがよく実に爽やかであったといえる。
現在、大阪には民間からの寄付によって関西の芸術・文化を支援する「アーツサポート関西[平成26年(2014)設立。事務局・公益財団法人関西・大阪21世紀協会]が活動を行っており、誰もがアーティストのパトロンになれる新たな仕組みとして注目されている。また、平成3年(1991)、大阪商工会議所が日本で初めて設立した「大阪コミュニティ財団」は、民間などから寄付された基金をもとに、学術・研究、芸術・文化の振興のほか、奨学金支給や一般市民・企業の社会貢献活動を支援し、地域社会の公益の増進を目指している。これらの取り組みは、「民による文化支援」という大阪の精神的風土が、江戸時代から現代まで連綿と続いている証しといえないだろうか。
日本の暦について
ここであらためて日本の暦の歴史を振り返ってみよう。暦は中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったとされている。『日本書紀』には欽明天皇14年(553)に暦博士を日本に招き「暦本」を手に入れようとしたとの記事があり、これが暦に関する初出といわれている。その後、暦は朝廷が制定するものとなり、陰陽寮(おんみょうりょう)が暦の作成のほか天文と占いを司る任に当たることとなった。
当時使用された暦は月(太陰)が満ち欠けする29・5日の周期を採用した「太陰太陽暦」(太陰暦または陰暦とも呼ばれた)であったが、地球が太陽を回る周期は365・25日のため暦と季節が合わなくなり、2、3年に一度閏月(うるうづき)を設けて1年が13カ月ある年を作って暦と季節を調整してきた。
中国唐時代の宣明暦(せんみょうれき)が貞観4年(862)から鎖国を開始した江戸時代初期まで約800年余りにわたって使用されてきたが、貞享2年(1685)、渋川春海(はるみ)によって初めて日本人による暦に改められた(「貞享の改暦」)。その後も西洋の天文学知識を積極的に採り入れて改暦が実施され、太陰太陽暦の精度を高める努力が続けられた。「宝暦の改暦」に続き至時や重富ら大坂の天文学者が活躍した「寛政の改暦」そして「天保の改暦」が行われた。
この時代、民間では各地で様々な暦が出版された。伊勢国伊勢神宮周辺の暦師と呼ばれる出版元からは、毎年「伊勢暦」という暦本が発行された。伊勢参拝に人々を勧誘しようと御師(おし)が販促ツールとして年末に配ったこともあって、最も名の知れた暦となった。
そして明治維新を経て、明治5年(1872)に太陽暦による改暦が発表された。翌明治6年(1873)1月1日(旧暦12月3日)からグレゴリオ暦が施行され、旧暦という社会生活上の慣行は残したものの、太陰太陽暦の歴史は幕を閉じたのである。
星に願いを
西の空が茜色に輝き、東から月が昇り始めやがて星々が姿を見せる。夏の太陽の残光が完全に消えると大阪の空は満天の星たちで埋まる。大きな光を放ち存在感を際立たせる星もあれば、微かで今にも消え入りそうな星の群れもある。それは時の経過とともに東から西へと移っていく。
大阪市立科学館(大阪市北区)のプラネタリウムホールは、300人を収容する世界一の施設。巨大なドーム天井に展開されるデジタル・スカイ・ビューのリアルな映像は、観る者を江戸時代の星空に誘う。都会から星空が消えてしまった現代、プラネタリウムは剛立の観察したかくも美しい大坂の満天の星空を追体験できる唯一の場所である。
星空に浪漫(ロマン)を感じるのは剛立も江戸時代の大坂庶民も同じ。しかし、それを理論構築した学者剛立とは違い、大坂には星空を信仰の対象にする人たちも多かった。大阪天満宮(大阪市北区)の北隣、天満天神繁盛亭(同)の近くにある「星合池(ほしあいいけ)」はそうした場所の一つ。天暦3年(949)にこの地に天満宮が造営されたとき、この池に霊光が映ったと伝えられており、江戸時代の『摂津名所図会大成』には、「七夕池」あるいは「星合池」ともいうと書かれている。
星合池は古くから男女見合いの場所として使われていて、織姫・彦星に因んだ「七夕の社」が昔あったそうだが今はない。七夕は別名「星合(ほしあい)」と呼ばれ、星合池にかかる「星合橋」は縁結びのスポットだとも言い伝えられている。毎年7月7日にはここで「星愛七夕まつり(天神橋筋商店連合会主催)」が行われ、多くのカップルが訪れるそうだ。
剛立の墓所
天王寺区夕陽丘の口縄坂(くちなわざか)を上りつめた先に壬生勝鬘山(みぶしょうまんざん)浄春寺がある。境内墓地に並ぶ多くの墓碑の中に大木を背景にした剛立の墓が建つ。墓銘は「剛立麻田先生墓」と横書きで刻まれ、その下さらに左右、裏面まで中井蕉園(しょうえん)(曾弘(そうこう))撰による碑文で埋まっている。蕉園は中井竹山の四男で、剛立の親友中井履軒の甥であった。
2016年4月
(2019年4月改訂)
長谷川俊彦
≪参考文献≫
・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
・鹿毛敏夫『月に名前を残した男 江戸の天文学者 麻田剛立』(くもん出版)
・中野操『大坂蘭学史話』(思文閣出版)
・中野操『大坂名医伝』(思文閣出版)
・脇田修、岸田知子『懐徳堂とその人びと』(大阪大学出版会)
・小川鼎三『医学の歴史』(中公新書)
・本渡章『大阪古地図 むかし案内』(創元社)
≪施設情報≫
○ 先事館跡付近
大阪市中央区本町3
アクセス:大阪メトロ御堂筋「本町駅」すぐ
○ 懐徳堂跡碑
大阪市中央区今橋3–5 日本生命ビル南側壁面
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」すぐ
○ 間長涯天文観測の地碑と冨田屋橋碑
大阪市西区新町2
アクセス:大阪メトロ鶴見緑地線「西大橋駅」すぐ
○ 絲漢堂跡碑
大阪市中央区南船場3–3–23
アクセス:大阪メトロ御堂筋線・長堀鶴見緑地線「心斎橋駅」より徒歩約5分
○ 大阪市立科学館
大阪市北区中之島4–2–1
アクセス:大阪メトロ四つ橋線「肥後橋駅」より徒歩約5分
○ 星合池
大阪市北区天神橋2–1–8 大阪天満宮内
アクセス:大阪メトロ谷町線「南森町駅」より徒歩約5分