第29話
大坂町人に生きる指針を説いた「懐徳堂」初代学主
その名を正名、字を実夫、通称を新次郎といい、石庵、または万年と号した。寛文5年(1665)に京都三条通りで生まれ、六人兄弟であった。町人学者であった父の影響から、9歳下の弟観瀾(かんらん)とともに浅見絧斎(あさみけいさい)に入門し、朱子学を学んだ。しかし、入門何年後の事かは不明であるが、師の説を守らず、師の教えである朱子学をはみだし破門されている。その後、親の死後も家業を顧みず学問に励み、ついには財産を使い果たしてしまったが、衣食を節約して弟とともに学び続け、石庵は道義の学に、観瀾は文章に優れたといわれている。
元禄時代に入り、兄弟は江戸に出て学塾の看板をあげたが振るわず、石庵は元禄10年(1697)に単独帰郷した。江戸に残った弟は後に新井白石の推薦で幕府に登用されている。石庵は間もなく讃岐琴平の木村平右衛門(号は寸木:すんぼく)に招かれ、四年間その地で教授した。木村家は酒造を業とし、金刀比羅宮の別当を務めた名家で、家業のため大坂や京に上ることも多く、石庵とは京都で出会ったと推測される。木村家は石庵を長く後援し、寸木の息子たちにもその意思は受け継がれた。
四国と大坂を頻繁に往来する商人たちによって石庵の名が大坂に伝わり、37歳の頃、大坂で塾を開いた。ちなみに、この時8歳だった中井甃庵(なかいしゅうあん)が医師であった父に連れられ入門している。甃庵が実際に石庵に師事したのは14歳の時とされているが、すでに幼くして石庵に面会していたのである。さて、石庵は尼崎町2丁目御霊筋(現在の大阪市中央区今橋4丁目)で門弟を取って教授していたが、狭くなり正徳3年(1713)、三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衛門、舟橋屋四郎右衛門、木村平十郎、木村平蔵(木村平右衛門の息子)等が安土町2丁目に家を買い、石庵を住まわせた。石庵はここを「多松堂」と名付け講義を続けたが、この資金を出した人の中に「徳業の利益もこれなき人がいる。そんな人たちの世話になりたくない」と、享保4年(1719)、自身で高麗橋3丁目に家を借り移転した。しかし、同9年(1724)3月の大火で所蔵の書籍や書き溜めた物すべてが焼けてしまった。
そこで、以前より交流のあった平野の含翠堂に一時身を寄せた。この大火では五井蘭州(ごいらんしゅう)もここに身を寄せた。
この年、5月には、尼崎町1丁目北側の道明寺屋吉左衛門宅に学舎が建てられ、石庵によって「懐徳堂」と名付けられた。なぜ石庵が懐徳堂初代学主として推されたのか、何が人々を石庵のもとに参集させたのか。事後判断的な一般的理解としては、朱子学や陽明学という区別などどちらでもよい町人に対して、日々、生活してゆく指針を、諸学諸思想からわかりやすく説こうとしたからだとされている。石庵は、観念を実体化して独善に陥ってしまうことを避け、最も重要な現実における行為を学問的に基礎づけ、認識力と判断力を深める場として懐徳堂を認識していたと窺われる。
石庵の墓所を訪ねて
大阪府八尾市の神光寺(じんこうじ)に、三宅石庵および次男で懐徳堂3代学主の三宅春楼(みやけしゅんろう)、懐徳堂を創立した五同志のうち長崎黙淵(ながさきもくえん:舟橋屋四郎右衛門)、中村良斎、含翠堂の創設に尽力した土橋友直、井上赤水の墓がある。大火の折、石庵は製薬業を営む土橋友直を頼りこの地に落ち着いた。土橋家とは後に石庵が製薬を営んだり、土橋家の菩提寺に墓があることからも、強いつながりを示している。石庵は、享保15年(1730)7月16日、66歳で亡くなっている。
神光寺は、横穴式石室の後期古墳群のなかにあり、東方に高安山、西方に大阪平野から六甲山を望む位置にある。春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しい人里離れた所である。麓から一本の急坂を登り三宅石庵の墓の場所を尋ねると、首を傾げ「石庵?懐徳堂の?それなら万年先生ですね」と答えが返ってきた。石庵は号を「万年」と称し、神光寺付近では今でも万年先生として、慕われているようだ。
2016年8月
(山田節子)
≪参考文献≫
・脇田修・岸田知子『懐徳堂とその人びと』大阪大学出版・1997年発行
・懐徳堂記念会『懐徳第83号』2015年発行
・山中浩之『懐徳堂と三宅石庵』大阪商業大学商業史博物館紀要・2013年発行
≪施設情報≫
○ 神光寺
大阪府八尾市服部川102
電話:072−941−8672
アクセス:近鉄「服部川」駅より徒歩約11分