第52話
語り継がれる日本史上最大の英雄
豊臣秀吉については改めてここで紙数を費やすまでもない日本史上最大の英雄であり、今なお研究書に、小説に、ドラマに登場し続け、取り上げられれば必ずヒットする物語性に富んだ人気者である。
ところで秀吉は尾張国愛知郡中村の農村出身であるのに、なぜ大阪において「太閤びいきの大坂」といわれ続けて人気があるのだろうか。大坂城を築き、大坂の街並みをつくり、現在の大阪市の骨格を作り上げたことに加えて、大坂冬の陣、夏の陣で徳川に敗れ去った敗者の美が人々の感動を誘うのであろう。人間が織りなす歴史の実相は、ある時期の残念無念の思いが何百年も沈潜し、時に表面に浮かび出たりまた沈んだりを繰り返すものである。
秀吉のレガシーは今も関西・大阪に色濃く残っている。ところが秀吉と大坂の関わりは、天正11年(1583)9月に大坂築城に着手してから慶長3年(1598)8月に伏見城で亡くなるまでの僅か15年間に過ぎない。さらに秀頼の時代が慶長20年(1615)まで続くが、通算しても豊臣政権時代は32年間でしかない。徳川政権に較べれば10分の1の期間である。しかも、この間秀吉が進めた大坂城築城とまちづくりの実態は、今なお謎が多いのに驚かされる。豊臣滅亡後、徹底的に豊臣関連の事跡の抹殺が行われたからだ。平成の今になっても、豊臣時代に関わる新発見がしばしば報告されている。本稿では秀吉と大坂の関わりに焦点を絞って探訪を試みることとしたい。
なぜ秀吉は大坂に築城したのか
秀吉が大坂の地政学的な優位性に着目して統一日本の首都にするべく築城したことは広く知られている。いにしえよりなにわ津は大陸との交流の玄関であり、遣隋使、遣唐使もなにわから出発した。水運海運が発達し諸国の物産の集散地であり、これからの商業の発達を考えればなにわ大坂の優位性は自ずと明らかである。豊富な物資も技術職能集団もすぐ集められる場所だ。五畿内の中央にあって周辺大名を糾合し睨みを利かせるにも絶好の場所だ。
次に上町台地北端は石山本願寺が堅固に要塞化した場所であり、北、西、東は川や沼地で、南側さえ守ればよいという防衛拠点としてはもってこいの地勢であることが着目の理由としてあげられる。なにしろ織田信長相手に石山本願寺が10年間、戦争を持ちこたえた要塞である。補給線も海から確保できるし、籠城しても井戸から水が湧き出るから心配ない。
この好立地を得て、秀吉はどのような城を目指したのか。大阪城天守閣主任学芸員の跡部信(あとべまこと)氏は著書『豊臣秀吉と大坂城』(吉川弘文館)で、信長の安土城を超える壮大、華麗な城を目指したのではないかと推理する。信長の跡を受けて天下人となった自分の威信を、すべての面で信長を凌駕する神の申し子であると言えるほどの高みにまで押し上げたかったというわけである。さらに上町台地の南にのびる地形を生かし、大坂城から四天王寺、住吉をへて堺港に至る壮大な都市計画も秀吉の胸中にはあったと思われる。
秀吉の都市計画
大坂城の立地は北、東を滔々たる河川が流れ天然の要害をなしているが、西は海浜に砂州がつらなっている。豊臣大坂城研究の成果によると、築城の第1期は天正11年(1583)から同13年(1585)頃にかけて本丸普請から始まった。同時に平野郷から築城工事に必要な商人、職人を呼びよせ上町城下町を城の西側に作る一方、平野町城下町を南に展開させた。
上町城下町は中世の港湾・渡辺の津から現在の松屋町筋あたりを南に向かい、西側は横堀を挟んで北船場に接する。平野城下町は上町台地上を南へ住吉、堺に至る道沿いに作られた街並みで、店舗や労働者の宿営所に充て、道路は河内からの用材や石を運ぶ道となった。
第2期は天正14年(1586)頃から同16年(1588)頃にかけて二の丸普請が行われ、天満城下町ができた。現在の天満宮を中心とする地域である。
秀吉は天皇の行幸も視野に聚楽第建設の思惑もあったといわれるが、それは実現せず、天満には天正13年(1585)に本願寺が貝塚から移転してきて寺内町を形成した。
第3期は文禄3年(1954)から慶長元年(1596)にかけてで、秀吉は要塞化のために惣構堀を掘らせた。現在の東横堀である。文禄2年(1593)に秀頼が生まれ、秀吉は自分亡き後も秀頼政権を盤石足らしめようと大坂城の要塞強化を進める。南側にも惣構堀(空堀)を巡らせ、惣構え、外堀、内堀を備えた難攻不落で堅固な前代未聞の巨城ができあがっていく。
天下の情勢は刻々変化する。慶長3年(1598)、病に悩みながら秀吉は大坂城のさらなる強化に乗り出し、三の丸普請と東国大名の屋敷を伏見から集団移住させるためのまちづくりを行う。これが第4期にあたる。町人は惣構えの外側に移住させられる。そのため西にひろがる砂州を利用し、北は道修町から南は博労町あたりまで、東は横堀川に接し西は心斎橋筋あたりまでの南北に延びる複数の砂州の埋め立て開発を行った。船場の誕生である。一方で彼は伏見にも巨大な城をつくっており、こちらは天皇の御所に近いところで政庁の機能を持たせ、西国大名を集結させていた。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城で栄光と波乱に満ちた生涯を閉じた。秀吉と大坂の都市計画の関わりはここまでで、この後、秀頼の時代になっても三の丸普請と船場の整備は行われたが、さらに徳川の時代になって大規模な城郭工事と干拓による大坂の街並み整備が行われ、現在の私たちが目にする都市大坂の骨格ができることになる。
豊臣大坂城の痕跡
豊臣を滅亡させた徳川幕府は徹底的に秀吉の痕跡の抹殺を行い、秀吉の作った大坂城を完全破壊して埋め込み、寛永7年(1630)、秀吉の大坂城を凌ぐ巨大で華麗な大坂城を新築したのである。この城も鳥羽伏見の戦いのあと、大手門・千貫櫓・石垣などを残して炎上、今私たちが目にしている天守閣は、「大坂夏の陣図屏風」をもとに昭和6年(1931)に市民の募金で造られた新城である。
破壊された秀吉の城の詳細は不明のままで、やっと昭和34年(1959)になって秀吉時代の城の石垣が地下に埋もれていることがわかった。石垣はその後、昭和59年(1984)にも発見され、夏の陣から400年たった現在、地下に埋もれている石垣を研究し公開するため、豊臣石垣公開プロジェクトが始まっている。その費用を捻出するため、太閤なにわの夢募金として市民の寄付を募っている状況である。
フィールドノート
エッゲンベルク城
2000年、21世紀を迎えるにあたり、EUの支援でEU域内の古文化財修復のプロジェクトが開始され、オ―ストリアのグラーツ市にあるエッゲンベルク城に伝わる屏風もその対象になった。その図柄から日本のものではないかと日本の学会に照会があったが、鑑定を依頼されたケルン大学(ドイツ)の江戸文化研究者フランチェスカ・エームケ教授が交換教授として平成18年(2006)に関西大学に着任したことから、エッゲンベルク城の屏風の研究が本格化。大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長も加わり研究の結果、秀吉の時代の大坂を描いた屏風であることが判明した。豊臣時代の大坂の痕跡は徳川幕府によって消されたため、これは当時の実情を知る上で貴重な資料である。残念ながら日本からオーストリアに渡った経緯はいまだ特定されていないが、豊臣大坂城を描いた屏風が原型をとどめて保存されているのは奇跡的な幸運というしかない。
エッゲンベルク城の屏風は、ある時期に原状の八曲一隻から八面のパネルに変更され、「日本の間」に丁重に保管されている。一方、八曲一隻に復元された屏風が、関西大学なにわ大阪研究センターと大阪城天守閣に所蔵されている。描かれた大坂の風景は大坂城のほか、街並みや神社仏閣、武士や商家のようすなどが人物とともに生き生きと描かれている。なかでも城の北、淀川に面して華麗な極楽橋が架けられ、正面を唐門が飾っている。おそらく秀吉が船で伏見と往来するときの乗船、下船の船着き場への玄関だったのだろう。
実は、実情が謎に包まれた秀吉の大坂城の遺構で現存が確認できるのは、前述の石垣と極楽橋唐門(からもん)だけである。その極楽橋唐門は移築されて滋賀県の竹生島に宝厳寺(ほうごんじ)の唐門として存在している。
竹生島の宝厳寺唐門
秀吉の大坂城の唯一の遺構である宝厳寺唐門を見るために長浜から琵琶湖汽船で竹生島に向かう。約30分、湖上から見た形が前方後円墳に似た島に着く。崖が湖面からそそり立つ岩山で、貼りつくように石の階段があり神社や寺院が建っている。狭い敷地に窮屈に建てるため檜皮葺きの唐門も足元が切られて低くなっている。
唐門、観音堂が一体となり、さらに船廊下で都久夫須麻神社(竹生島神社ともいう。以下この表記)に繋がっている。唐門と竹生島神社は国宝、観音堂と船廊下は国の重要文化財に指定されている。船廊下は秀吉の御座舟「日本丸」の部材を用いて作られたのだという。
しかし、これらの建物は断崖の上で湖面からの風雨をまともに受けて劣化が著しく、金箔や色彩がはげ落ちていて唐門は平成30年(2018)までの計画で、建屋で覆って修復工事中である。
唐門、観音堂、船廊下、竹生島神社社殿の一連の建物は慶長7年(1602)、豊臣秀頼が普請奉行・片桐且元に命じて京都東山の豊国廟から移築させたものだという。現地の表示にもそう書かれているのだが、しかし、なぜ秀頼はわざわざ京都からこの華麗な美術品のような建物を湖の真ん中の孤島の断崖に移築したのだろうか。そもそも秀頼はこの時まだ9歳、片桐且元は傅役(もりやく:養育係)だったはず。となると黒幕は普請奉行の片桐且元だったことは想像に難くない。この人物、大坂城にありながら関ケ原の戦い(1600年)で東軍に味方し、その後も徳川家康に操られていたと疑われている人物である。
秀吉の遺体を埋葬した京都の豊国廟は、関ケ原の戦いで西軍が敗北した2年後でも一万石の社領をもっており、秀吉の命日には豊国祭も行われ、家康も認めていた。廃絶されたのは元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したのちである。慶長7年(1602)の移築に片桐且元と徳川家康にどのような思惑があったのだろうか。秀吉の偉業を称えるかのような極楽橋の建築を京都から追放したかったのかも知れない。また寺社の改築で豊臣家の財源を濫費する狙いもあったのかもしれない。歴史の真相は謎に満ちている。
この唐門は不思議な移築を繰り返している。大坂城の極楽橋として慶長元年(1596)に建造されたが、2年後秀吉が死去すると、同5年(1600)に、まだ建造後4年の新築同様の建物を京都東山の豊国廟に移築。さらにその2年後の同7年(1602)、竹生島に再移築している。
では、移築先がなぜ竹生島だったのか。これにはある程度説明がつくように思う。竹生島は古来、経済的にも戦略的にも重要な拠点であった。北陸から日本の中央部に出てくる人も物資も武装勢力も琵琶湖北岸から船を利用して南岸まで往来した。琵琶湖北部の中央にある竹生島はこの船の往来を監視するには絶好の位置にある。秀吉の出世街道のなかで、最初の国持ち大名になったのはここ長浜であり、竹生島とも縁が深い。京都の豊国廟の華麗な建造物を移築する大義名分にはなったと思われる。
唐門とは中央部が高く左右になだらかな曲線で流れる破風を持つ門という意味で、建造時は檜皮葺、総黒漆塗りの上に金鍍金の飾り金具を散りばめ、鳳凰や松、兎、牡丹、唐草などの彫刻を極彩色で塗った豪華絢爛たるものであった。桃山芸術の傑作も、今は剥落した塗料のなごりに僅かに当時の面影を偲ぶのみである。
2017年8月
(堀井良殷)
≪参考文献≫
・大阪市『新修大阪市史』(1991)
・三善貞司『大阪人物事典』(清文堂、2001)
・関西大学なにわ大阪研究センター『新発見豊臣期大坂図屏風』(清文堂、2010)
・跡部信『豊臣秀吉と大坂城』(吉川弘文館・2014)
・大阪市立大学豊臣期大坂研究会『秀吉と大坂城―城と城下町―』(和泉書院・2015)
・竹生島奉賛会『竹生島 琵琶湖に浮かぶ神の島』(2017)
≪協力≫
・関西大学なにわ大阪研究センター
≪施設情報≫
○ 関西大学なにわ大阪研究センター
吹田市山手町3-3-35 関西大学キヤンパス内
アクセス:阪急電鉄「関大前駅」より徒歩約5分
○ 宝厳寺・唐門・観音堂・船廊下
滋賀県長浜市早崎町竹生島1664
アクセス:JR「長浜駅」より徒歩約10分、
長浜港より琵琶湖汽船(竹生島行き)で約30分
電 話:0749−72−2073