第60話
武家政権を築いた河内源氏の祖
源頼信は源満仲(みつなか)の三男として安和元年(968)に生まれた。祖父経基王(つねもとおう)は、第56代清和天皇の皇子貞純親王の第6子で六孫王(ろくそんのう)と呼ばれ、臣籍に下って「源」姓を賜り、清和源氏の祖となった人物である。
頼信には、頼光、頼親の二人の兄がいた。頼光は藤原道長の側近として但馬・美濃等の受領(ずりょう:任国駐在の国司)を歴任し、父満仲の後を継いで本拠地である摂津国多田荘(現在の兵庫県川西市)を経営、一族の系統は「多田源氏(摂津源氏)」と呼ばれた。頼親も大和守・淡路守などを務め道長没後は再度大和守に就いてその子孫は「大和源氏」と称された。
兄二人に比べ目立たない頼信であったが、その力量が評価されたのは「平忠常の乱」の平定である。当時東国は実力がモノをいう世界で、所領を拡大し勢力を伸ばした武士団は朝廷に反抗的な態度を示すようになった。長元元年(1028)、平忠常(平将門の孫)が反乱を起こし、混乱は長引いた。長元3年(1030)、朝廷は最初の追討使・平直方を更迭、あらたに頼信を追討使に任じたところ翌年春忠常は戦わずして降伏した。実は忠常の乱以前に、所領の徴税に応じない忠常を頼信が追討・屈服させた前例があり、その際、現地の武士を組織化・動員して迅速な対応をした頼信の実力を知る忠常は、戦う前に自らその軍門に降ったのである。
平忠常の乱に戦わずして勝利したことで頼信の名声は一挙に高まり、東国の武士団はその後続々と頼信の配下に加わることとなった。そしてこれが「武家の棟梁」誕生の契機となった。
頼信は乱平定前の寛仁4年(1020)、河内守として河内国石川郡壷井郷(現在の大阪府羽曳野市)に居館を構え、この地を本拠にして京の朝廷に仕えた。その一統は「河内源氏」を名乗り、武家の棟梁の座を継承する。頼信の嫡男頼義はこの地に通法寺を建立して源氏の菩提寺とし、さらに石清水八幡宮を勧請して壷井八幡宮をも創建、源氏の氏神とした。
頼信は永承3年(1048)に没する。その死からおよそ150年後の建久3年(1192)、頼信から6代目の子孫・源頼朝が鎌倉幕府を開く。河内の地から発した河内源氏・頼信の後裔が「武家の棟梁」を受け継ぎ、史上初の武家政権をうちたてその頂点に立ったのである。
フィールドノート
清和源氏発祥の宮───六孫王神社
京都八条通り壬生の交差点の先に、清和源氏の祖で頼信の祖父・源経基を祀る六孫王神社がある。京都市の説明板によれば、この地は経基の邸宅があった場所で、その子満仲がここに社殿を建立したと伝わる。
神社南のゲートに「清和源氏発祥の宮」と書かれた大きな看板が掲げられ、境内には鉄筋3階建ての六孫王会館がデンと構えている。4月に「源氏まつり」という年中祭事があり、どのようなものか社務所で聞いたところ、同社の親睦組織「崇神会」の会祭とのこと。本殿参拝や会館で年次の会員総会が開かれるそうだ。
本殿の背後に経基の遺骸を埋めた「神廟」がある。また、北側の池に囲まれた弁財天社には、満仲誕生の際の産湯に使ったという井戸が残る。
当社は築後年を経て荒廃が進み、元禄時代になって隣家の遍照心院の住職が幕府に願い出て再建された。境内で目に付くのは石燈篭に刻まれた寄進者松平(柳沢)吉保の名である。吉保は河内源氏の流れを汲む甲斐源氏武田家一門の甲斐一条氏の系統に属し、河内源氏2代目である源頼義の三男新羅三郎の末裔と称した。将軍綱吉のもと大老格まで昇りつめた吉保寄進によるその燈篭は、正面「奉寄進六孫王権現祠石燈臺三基」、側面「新羅三郎二十世裔 川越城主」「従四位下左近衛権少将兼美濃守源朝臣松平吉保」と刻字されている。源氏の末裔を名乗り永遠に刻することで、武家の誇りや信仰を維持しようとしたことがうかがわれる。
多田源氏(摂津源氏)発祥の地───川西市
兵庫県川西市は旧摂津国の北に位置し、東は大阪府の箕面市や池田市と接する。川西市の観光・文化のキーワードのひとつが「源氏発祥の地」で、その中心となるのが多田神社(旧多田院)だ。
多田神社は天禄元年(970)天台宗寺院として源満仲が創建した。同社の由緒によれば、満仲が摂津守であった当時、住吉大社参籠の折に神託を受けて当地を開拓、源氏の居城となしたとある。満仲、その子頼光・頼信、孫頼義、曾孫義家を祀り、源氏の霊廟として足利氏や徳川氏の尊崇も集めてきた。
小高い丘上にある社領は北面に拝殿・本殿があり、南に大門そして東西の門とそれを繋ぐ塀で囲まれている。参道の一画に「清和源氏同族会長」の告知板があり、源氏の流れを汲む方の入会を誘う内容が書かれていた。また、参道両側の「旧御家人」と刻した玉垣が目を引く。「御家人」とは満仲を中心とする強靭な結束力をもった武士団(多田院御家人)をいい、本拠地多田庄を武力で守るだけでなく、新田開拓や寄進を通じて多田の経済的発展にも寄与した人たちである。その後も千年以上にわたって結束と地域発展の歴史を担ってきた多田院御家人の子孫が、誇りをもって先祖を「旧御家人」と称しているのであろうか。
川西市は観光協会を中心に毎年4月の第2日曜日に「川西源氏まつり」を開催、平成29年(2017)で第53回を迎えた。最大のイベントは多田神社から能勢電鉄「多田駅」の間を往復する「懐古行列」。駅前や沿道には祭りの幟と提灯がならび、能勢電鉄の車両には祭りの車体広告。市長、市会議長をはじめ職員を多数動員し市をあげての華々しいお祭りだ。
行列は赤い制服をまとった女子高校生によるブラスバンドが先導し、鎧兜姿で満仲公に扮した市長が馬に乗り、議長扮する頼光公、巴御前が騎乗しそれに続く。さらに頼信、義家などの源氏武将や、きらびやかな衣装をまとった静、常盤の各御前、伝説の美女丸・幸寿丸が加わり、神輿や親に手を引かれた稚児行列などが賑やかに続く。
満開の桜のもと、市と市民が一体となって「源氏発祥は川西にあり」を誇り高く訴えようという強い熱気が伝わってくるようであった。
河内源氏発祥の地───羽曳野市
大阪府羽曳野市は南河内に位置し、平成29年(2017)、府内初の日本遺産の認定を受けた竹内街道・横大路(よこおおじ)をはじめ世界文化遺産申請中の百舌鳥・古市古墳群など古代史跡が多く点在する地域である。「河内源氏の発祥の地」でもある同市で、頼信とその子孫の足跡をたどった。
寛仁4年(1020)、頼信は河内守として当地に居館を構えた。「通法寺跡(大阪府羽曳野市通法寺)」に源氏館跡を示す石碑があるが、説明板によれば、彼らの居館は壷井八幡宮のある丘陵あたりで、その場所や規模を知る手がかりはないとのこと。少なくともここから程遠くない場所にあったことは間違いないであろう。
河内源氏の2代目を継いだのは頼信の嫡男頼義。頼義には3人の子があり、いずれもこの本拠地壷井で生まれたとされる。長男義家は石清水八幡宮、次男義綱は上賀茂神社、三男義光は園城寺新羅善神堂(しんらぜんしんどう)で元服し、後年、それぞれ八幡太郎、加茂次郎、新羅(しんら)三郎と称された。
河内源氏の菩提寺となる通法寺は頼義が長久4年(1043)に創建。その後荒廃するが、江戸時代元禄8年(1695)に柳沢吉保と徳川綱吉に生類憐れみの令の発令を勧めた僧・隆光(りゅうこう)の尽力もあって再建された。しかし明治期の神仏分離令によって廃寺となり、現在は山門、鐘楼建物、基壇を残すのみとなった。通法寺跡は間口が7~8m、奥行きは深いところで50m近くあり、観音堂跡には頼義の墓がある。
壷井八幡宮は通法寺跡の北、小高い丘の上に鎮座する。当社は康平7年(1064)に頼義が京都の石清水八幡宮をこの地に勧請し創建したもの。その2年前、頼義は前九年の役を平定し京へ凱旋する途上、同じく石清水八幡宮を鎌倉の地に勧請して鶴岡八幡宮(現在の由比若宮。元八幡ともいう)を創建している。これにより「八幡大菩薩」を源氏の氏神としたのである。
参道の「源義家公三十五世後裔」とした寄進者名が刻まれた石の鳥居を抜けると、壷井の地名の由来となった「壷井水」の井戸があった。石段を上りつめると正面に陽光に明るく輝いた朱塗りの本殿が控える。本殿の説明板によれば、現在の社殿、権現社は江戸元禄期に将軍綱吉が再建したものを平成7年(1995)に復元修理した、とある。再建には通法寺と同じく柳沢吉保が後押しした。権現社前の生垣に囲まれた2基の石燈篭には六孫王神社の石燈臺と同じ「新羅三郎二十代後裔 武州川越城主」等の刻字が見える。
通法寺跡にある頼義の墓のすぐ近くの丘陵に頼信、義家の墓がある。これらは総称して「源氏三代墓」と呼ばれている。急な坂を上って行くと平らな台地にまず「源義家墓」があり、さらに奥へ進んで行くと葡萄畑のハウスの先に「源頼信墓」が姿を見せる。いずれもこんもり盛った土山に葬られている。この頼信の墓近くに「大僧正隆光墓」の説明板と今にも崩れそうな墓があった。先述のように隆光は通法寺再建の立役者で、将軍綱吉の学僧を務め「生類憐みの令」を公布させた人物である。綱吉の死後お役御免となり、通法寺の住職に左遷させられたのだという。出身地である奈良市内で死去したが、分骨されてここに墓碑が建てられた、と説明板にあった。
吉保にしろ隆光にしろ、源氏にかかわって河内に名を刻んだ人物の歴史の一コマを見る思いである。
頼信を祖とする「河内源氏」は、源頼朝をはじめ新田氏、足利氏、武田氏など数多くの末裔が武家として武力をもって日本史を塗り替えてきた。しかし江戸時代の安定期に入ると武士としての自覚や存在感が次第に薄れていく。そうした中、吉保に見られるように源氏末裔を標榜することが、武士の誇りと権威を覚醒させるツールとなったのであろう。さらに士農工商の身分制度を超えて商人や豪農など非武士階級ですら自らの系図を作り、その筆頭に清和天皇を掲げ、系図=源氏の子孫とする風潮がひろがっていく。系図を以て「由緒正しい家柄」の証とした。六孫王神社や多田神社で今も源氏の同族会が続いているのは決して不思議ではなく、日本人のDNAに弱者同情の「判官贔屓」とは異質の「源氏・イズ・ベスト」的なものが刷り込まれていることを物語っているのではないだろうか。
2018年1月
(2019年4月改訂)
長谷川俊彦
≪参考文献≫
・大阪市史編纂所『大阪市史』
・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
・元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書)
・岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社現代新書)
・大阪春秋26号『特集 河内のすべて 後編』(新風書房)
・村井康彦『河内源氏の原像―棟梁の条件』なにわ大阪再発見(大阪21世紀協会)
≪施設情報≫
○ 六孫王神社
京都市南区壬生通八条角
アクセス:JR京都線「京都駅」八条口より徒歩約20分
○ 多田神社(旧多田院)
兵庫県川西市多田院多田所町1–1
アクセス:能勢電鉄「多田駅」より徒歩約15分
○ 源氏之祖源満仲公像
兵庫県川西市栄根2丁目
アクセス:JR宝塚線「川西池田駅」すぐ
○ 石清水八幡宮
京都府八幡市八幡高坊30
アクセス:京阪本線「八幡市駅」より男山ケーブル「男山山上駅」下車、徒歩約5分
○ 壷井八幡宮
大阪府羽曳野市壺井605–2
アクセス:近鉄南大阪線「上ノ太子駅」より西へ徒歩約25分
○ 通法寺跡・源氏館跡碑
大阪府羽曳野市通法寺
アクセス:壷井八幡宮より徒歩約10分
○ 源氏三代墓
大阪府羽曳野市通法寺
アクセス:通法寺跡より徒歩約3分