第53話
代表として第3代宗利(むねとし)(1667–1736年)
華麗なるなにわの豪商
鴻池善右衛門は初代善右衛門正成(1608〜1693)から現在の第15代まで連綿と続くなにわの豪商で、今橋鴻池家の当主が代々名乗る名前である。ここでは、その中から第3代宗利を中心に取り上げたい。
遠祖は尼子氏家臣の山中鹿之助と言われる。鹿之助の死後、子息の新六直文が武士を捨て摂津国鴻池村(現伊丹市鴻池)において酒造を始め、鴻池流という清酒を開発した。やがて伊丹から大坂に進出して清酒醸造の他、海運、両替を営み身代を大きくした。
新六の八男、正成が分家を立て江戸への廻漕業を拡大し、参勤交代の大名の荷物を扱うようになり、蔵物など大名の物流を差配するようになった。その関係で大名貸が始まり、明暦2年(1656)に両替商を開店、寛文10年(1670)には幕府御用の両替商になった。この正成が今橋鴻池家の初代善右衛門とされている。
第3代善右衛門宗利は、父祖の始めた両替商とくに大名貸に注力し、最盛期を築く。全国100以上の大名の財務に係り「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とまでいわれ、落語にも登場した。
宝永元年(1704)の大和川付け替え工事では、新田の開発を請け負った。鴻池新田の誕生である。
宗利の弟、又四郎はいわゆる五同志の一人として学問所「懐徳堂」の創設に加わり、その後の運営に協力した。
第4代から後の歴代の善右衛門は茶人として名を成し、茶器の名品の収集でも知られるようになった。また、のれん分けを許された別家から経済学者の草間直方が出ている。
幕末から維新にかけて大名貸が貸し倒れになり、鴻池家は莫大な損害を被ったといわれる。しかし明治以降も堅実経営を家訓とし、第十三国立銀行を設立、のちに鴻池銀行となり三和銀行へと発展する。
第11代幸方は日本生命保険の初代社長を務め、明治44年(1911)男爵に叙せられている。鴻池家一族からは事業の成功者が輩出し、別家、分家など同族集団は鴻池財閥を形成した。しかし第2次大戦後の財閥解体と農地改革で鴻池家は、またもや大きな打撃を受けた。しかし、今も鴻池新田会所に隣接するビル群の経営などで鴻池家は健在である。
フィールドノート
伊丹市鴻池
伊丹市の県道331号線と335号線が交差するところに「鴻池」という地名が交差点に表示されている。周辺はマンションや住宅が立ち並ぶどこにもある風景だが、ここが鴻池発祥の地だと思って眺めると感慨深い。鴻池という町名は今も残っていて鴻池1丁目から7丁目まである。
鴻池6丁目の鴻池善右衛門の屋敷があった場所は児童公園になっていて、小さな稲荷神社がある。善右衛門が屋敷の庭に祀ったお稲荷さんである。傍らに懐徳堂の全盛期の学者、中井履軒(中井竹山の弟)の撰文と筆になる鴻池の歴史を刻んだ石碑「鴻池稲荷祠碑」があり、古代の貨幣の形をした石碑が亀形の台に載っている。天明4年(1784)建立と思われる。傍に碑文の現代訳があり「鴻池家は酒造によって財を成し、慶長5年(1600)から200年も続いている。その初代は幸元(ゆきもと:新六直文の別名)で、山中鹿之助の子孫であるといわれている。鴻池家は、はじめは清酒諸白を製造し江戸にまで出荷した。近隣の池田、伊丹,灘、西宮などでは鴻池家にあやかって酒造業を興した者が数百軒もあった。鴻池家の後ろには大きな池がありこれを鴻池といった。これは村の名の由来となり、またその名前を大坂の店の屋号として用いた。
鴻池家が酒造業を始めた年、屋敷の裏に稲荷の祠を祀って家内安全を願った。幸元の子供らのうち大坂で分家したものは3家、そこからさらに9家が分かれた。大坂の鴻池家の富は莫大になっている。(中略)幸元から数えて7代目の当主元長の子、元漸(もとやす)が自分の弟子であったのでこの銘文を書くことになった」とある。
この屋敷跡から150メートルほど離れたところに「清酒発祥の地・鴻池」と書かれた銘板があり、これは平成10年(1998)に幸元生誕400年を記念して有志によってつくられた。また、この近くには鴻池神社がある。
今橋鴻池家
大坂に移った鴻池家が拠点とした今橋(大阪市中央区)に行ってみる。
今橋2丁目の本邸跡地は、今は大阪美術倶楽部に売却され、ビル用地や駐車場になっている。ところが店の一部は奈良市の富雄に移築され現存しているという。奈良市鳥見町1丁目の菓子店になっていると分かり、さっそく訪ねてみた。
玄関には鴻池表屋と表示板がかけられ、きれいに保存整備され、内部は菓子の販売とカフェとして利用されている。持ち主は「みやけ」という菓子メーカーで、先代が大阪の今橋鴻池本家が取り壊されるという話を聞き表屋を自宅がある奈良市富雄に移築したのだという。
鴻池家の両替商という看板や書類などもあり、しばらくは展示館としていたが、7年前からカフェとして利活用を始めたのだという。住宅街の真ん中でおよそ商業地のイメージがないのにもかかわらず、水曜日の午後3時頃だというのに20人ほどの客でほぼ満席状況で賑わっていた。
鴻池新田
鴻池家が現在も大きな存在感を示している拠点は鴻池新田会所(東大阪市)で、国の史跡・重要文化財として保存管理、公開されているほか、さまざまな文化活動も展開している。JR学研都市線の鴻池新田駅から南東に徒歩5分、住宅街を線路の反対側に回り込んだところに正面入り口がある。1万662㎡の敷地に本屋、蔵、居宅の建物と庭園が保存展示されている。東大阪市のパンフレットの解説を引用しておく。
「大坂の河内平野南部で江戸時代中期(1704)大和川付け替えの後、流れが途絶えた旧大和川の川筋と玉串川、久宝寺川の川床を中心に新田が造成された。1705-1707年に鴻池善右衛門宗利とその子善次郎による干拓事業で埋め立てられた158haの新田では小作農民が米と綿を栽培した。綿は河内の主要産物となって行った。鴻池新田会所では、鴻池家から派遣された支配人の管理下で小作料、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の管理補修、宗門改帳の作成、老人への米の配給、争いの裁定などを行った」
鴻池新田会所は、いわば民営の代官所だったが、それにふさわしい堂々たる構えがそのまま残っている。蔵にはビデオによる解説や農具類の展示があり、居宅の座敷は文化講座などに利用することが出来る。
河内木綿
ところで鴻池新田では綿作を奨励し、7割が綿畑であった。肥料には北前船で運ばれてきた鰊粕(にしんかす)や干鰯(ほしか)が使われた。木綿の栽培と綿布の普及は当時の日本に衣料革命を起こした。それまでは庶民は麻の衣服を着ていたが、軽くて暖かい綿布によって暮らしの快適さは飛躍的に向上した。この河内木綿が明治以降大阪の綿糸、綿布の繊維業発展の礎となり、繊維商社の誘起につながっている。大阪の経済発展に計り知れない大きな貢献をしてきたといえる。
歴代の善右衛門は、大阪市中央区中寺町にある鴻池家の墓地・顕孝庵(けんこうあん)に静かに眠っている。
活躍する伝法の鴻池一族
今橋鴻池家とは別筋で大坂の西成郡北伝法村(現在は大阪市此花区)に17世紀頃から居を構えた鴻池家がある。当家は六軒屋と称し、廻船業などを営んでいたが、明治4年(1871)鴻池忠治郎が土木や建設に手を広げ、淀川改良工事に貢献。淀川の洪水に際して被害地の復旧に全力を挙げた。その後、事業は鴻池組や鴻池運輸となって発展した。今は大林組とも縁戚関係にあり、参議院議員の鴻池祥肇氏もこの一族である。
2017年8月
(堀井良殷)
≪参考文献≫
・宮本又郎『日本企業経営史研究』(有斐閣・2010年)
・宮本又次『人物叢書 鴻池善右衛門』(吉川弘文館・1991)
・鴻池新田会所 東大阪市案内文
・大阪市『新修大阪市史』(1991年)
・三善貞司『大阪人物事典』(清文堂・2001年)
・『日本史辞典』(小川出版)
≪施設情報≫
○ 鴻池稲荷祠碑(鴻池家発祥の地)
兵庫県伊丹市鴻池6丁目14
アクセス:JR、阪急伊丹駅前、バス2番のりばより荒牧公園行きで
北センター前下車、徒歩3分
○ みやけ(甘味処/旧鴻池邸表屋)
奈良市鳥見町1-5-1
アクセス:近鉄奈良線「富雄駅」西口より徒歩約10分
電 話:0742−51−3008
○ 鴻池新田会所
東大阪市鴻池元町2-30
アクセス:JR学研都市線(片町線)「鴻池新田駅」より南東に徒歩5分
電 話:06−6745−6409
○ 顕孝庵
大阪市中央区中寺2−4−6
アクセス:地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」より200m
電 話:06-6761-1241