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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第3話 今井宗久いまいそうきゅう(1520-1593年)

日本で最初の武器商人

堺の豪商であり茶人。永正17年(1520)生まれ、通称彦八郎。青年時代、大和国(現在の奈良県)本願寺の寺内町今井で商売を始めたと伝えられるが定かではない。立身出世を志し、南蛮貿易で活気溢れる堺へ出て納屋宗次宅に身を寄せ、商人として修業を重ねる。このとき、商人としての教養を身に付けるため、豪商で茶人の武野紹鷗に茶の湯を学ぶ。同門に津田宗及や千利休もいたが、宗久は紹鷗に気に入られ娘婿になる。やがて納屋宗次から独立し薬種業を始める。

機を見るに敏な宗久は、鉄砲の時代を予測した。天文17年(1548)、火薬の原料(硝石)を独占的に買い占め、同21年(1552)には河内鋳物師を集めて鉄砲の生産に乗り出す。高性能の火縄銃を生産して戦国武将の注目を集める一方、茶会を通じて武将や堺の豪商たちとの人脈を広め、会合衆(えごうしゅう)の仲間入りを果たす。

弘治元年(1555)紹鷗が53歳で急逝すると、紹鷗の長男・宗瓦が幼少だったため娘婿の宗久が後見人となり、武野家の財産管理を任される。天下を狙う織田信長が上洛すると、茶器の名品「松島の茶壺」や「紹鷗茄子」などを献上し、信長に取り入った。また、永禄12年(1569)に信長が堺の豪商たちに2万貫の戦費を要求した際、宗久は会合衆たちを説得してこれに応えた。この功績により、宗久は信長から堺五箇庄の代官に任命される。

こうして宗久は、信長の庇護のもと、塩合物座(塩魚や干物を扱う商人組合)の権利、淀川通行船の関税免除、生野銀山の開発などの特権を次々に得て、政商としてのし上がって行く。鉄砲の大量生産や販売、南蛮貿易にも進出し、火薬の原料となる硝石や鉛(鉄砲玉の原料)の調達など、総合軍事産業の事業家として巨万の富を築き、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務め、天下の三宗匠と称された。

しかし、信長から羽柴秀吉の時代に変わると、茶の湯の世界は千利休が牽引するようになり、宗久は静かに主役の座を降りた。そして文禄2年(1593)、宗久は73年の人生を終えた。墓は大阪府堺市の臨江寺(りんこうじ)に武野紹鷗と共にある。


フィールドノート

軍需景気に沸いた堺

大阪市内から国道26号線を南下し、大和川大橋を渡って堺市に入ると「鉄砲町」という標識が目に入る。470年前、日本で初めて鉄砲の生産を行ったところである。

鉄砲は、戦国時代の天文12年(1543)に種子島に伝来した。1年後には橘屋又三郎によって堺に伝えられたが、一挺200貫(現在の100万円相当)と非常に高価だったにもかかわらず、その性能は極めて低かった。そこで宗久は全財産をはたいて鍛冶職人を集め、鉄砲の改良に着手。性能を向上させるとともに、鉄砲の部品を各々の職人が分業で作り組み立てる画期的な製造法で大量生産にも成功した。さらに価格を従来の3分の1ほどに下げたことで、戦国武将たちから大量に受注するようになり、最盛期には1年に1万挺ほどが生産されたと記録に残っている。

織田信長が堺を直轄領として宗久を代官に任命したのは、鉄砲と火薬の独占を狙ってのこと。こうして信長が堺を抑えてしまったため、敵対する武田信玄や上杉謙信は火薬の原料(硝石)が入手困難となり、鉄砲を多用できなかったとも伝えられている。また、元亀元年(1570)から10年におよぶ石山合戦では、鉄砲や大砲、甲鉄戦艦が登場し、合戦は長期化した。天正3年(1575)の信長と信玄の長篠の戦いでは、信長は3千挺の鉄砲を使用。従来の騎馬戦から鉄砲隊による歩兵戦へと、戦術の革命的な変化をもたらした。その背後で宗久は、大量の鉄砲と火薬を供給し、武器商人として巨万の富を得ていったのである。

しかし、鉄砲は国産化したものの、火薬の原料となる硝石は国内では採れず、中国からの輸入に頼らざるをえなかった。鉄砲玉の鉛も国内生産では間に合わず、輸入に頼ることになる。別府大学の平尾良光・飯沼賢司教授の共同論文『大航海時代における東アジア世界と日本の鉛流通の意義』(2009年)によると、戦国時代の鉄砲玉を分析した結果、その大半が東南アジアのメコン川流域産であることが判明した。宗久をはじめ堺の豪商たちの海を越えた交易が、戦国武将の合戦を支えていたことを如実に物語るものである。

当時の南蛮貿易は、日本からは銀や銅、漆器などが輸出され、外国からは硝石や生糸、絹織物、陶磁器などが輸入されたと記録に残っている。自治都市・堺の黄金の日々は、硝石や鉛といった軍需景気に支えられていたといえよう。


鉄砲を捨てた日本人

天文12年(1543)の鉄砲伝来以来、全国の戦国武将たちが保有していた鉄砲は総数30~50万挺ともいわれる。しかし戦国時代が終焉した後、それらは一体どこに消えたのか。米国ダートマス大学のノエル・ベリン教授は、『鉄砲を捨てた日本人・日本史に学ぶ軍縮』(中公文庫・川勝平太訳)のなかで、「アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、日本人だけが優れた工業力で鉄砲の大量生産に成功した。そして日本は世界最大の鉄砲生産国で最大の保有国で輸出国でもあった」「江戸時代初期には、全国で50万挺の鉄砲を保有していたといわれる。ところが徳川家康は鉄砲、火薬製造の規制をした。綱吉の時代には鉄砲所持禁止令を出すなど、鉄砲を捨てるといった世界的にも稀な軍縮政策を進めた。徳川時代の軍縮は世界史上類例がなく、核競争の続く現代において、その叡智に学ぶべきだ」と述べている。

また、川勝平太静岡県知事(平成27年現在)は、『徳川家康公と駿府(静岡商工会議所刊・2012年)』のなかで、「家康の対外政策の基軸は経済と文化交流であり平和的でした。鉄砲はほとんど使用されない社会となり、現代の学者は“バクス・トクガワーナ”(徳川の平和)と呼んでいます。平和な時代を謳歌した日本は、同時代のイギリスなどが富国強兵を国策として覇権主義に走ったのと対照的です。江戸時代の武士は刀よりも筆をとって学問をし、徳を磨いた知識人です」と述べている。


消えた希代の豪商の足跡

今井宗久の生涯を伝えるものは、極めて少ない。堺市中之町東に「今井宗久屋敷跡」と刻まれた石碑と菩提寺・臨江寺の墓碑が残るのみである。

大仙公園に宗久ゆかりの茶室「黄梅庵(おうばいあん)」があると聞いて訪ねてみた。大和国今井町(現在の奈良県橿原市)の豊田家にあったものを晩年の宗久が使用していたといわれるが、建築された年代などは明らかではないため、宗久との関わりは確かではない。後年、電力王で茶道の四天王と称せられた松永安左衛門が買い取って小田原に移築。昭和53年(1978)、堺市市制90年記念事業の折に堺市に寄贈されたものである。簡素な茶室だが、外観は銅板葺きの屋根を重ね合わせた変化に富んだ構成で、内部は八畳敷の広間と小間と勝手水屋などからなり、天井は化粧屋根裏とした軽快な数寄屋造である。

宗久の茶会記『宗久茶湯書抜』によると、弘治元年(1555)から天正17年(1589)までの間に83回もの茶会を主宰したと記されている。宗久は茶の湯を通して戦国武将との人脈を広め、茶室で鉄砲や火薬などの商談を行ったと思われる。義父の武野紹鷗が考案した四畳半の茶室は、茶人と武将が対等に接し、内密に商談するには最適な空間だったのである。また、信長の『総見記』には、天正6年(1578)に信長が石山合戦の際に軍艦で堺に寄港した際、宗久の屋敷で茶会を開いたと記されている。小説『覇商の門』の作者・火坂雅志(1956〜2015)は、「茶の湯を芸術と考えていた千利休と違い、今井宗久はあくまで茶の湯をビジネスの手段と見なしていたのではないか。無一文から成り上がった宗久にとって、茶の湯は有力者に接近するための、またとない道具であったと言える」と、小説のあとがきに書いている。

かつて宗久が住んでいた今井町は、16世紀中期の一向宗本願寺の寺内町で、外敵の侵入を防ぐために周囲に環濠を巡らした城塞都市だった。現在も江戸時代の町並みが残り、伝統的建造物群保存地区に選定され、大勢の観光客が訪れる。毎年5月になれば、今井宗久とお茶をテーマにした「町並み散歩」というイベントが行われているが、宗久と今井町の関係はいまだによく分かっていない。大阪から観光で訪れた三人連れの女性は、「史実はともかく宗久がここで大志を抱き堺で大出世してここに戻り余生を過ごしたと想像するだけでロマンを感じます。お土産に地酒の[今井の酒・出世男]を買って帰ります」と話した。

2015年12月
(2017年11月改訂)

橋山英二



≪参考文献≫
 ・三善貞司『なにわ人物伝』
 ・火坂雅志『覇商の門』
 ・ノエル・ペリン・川勝平太訳『鉄砲を捨てた日本人』
 ・静岡商工会議所開所120年記念『徳川家康公と駿府』
    (川勝平太「世界史上最初の軍縮革命を実現した徳川家康」)
 ・武光誠『海外貿易から読む戦国時代』
 ・平尾良光・飯沼賢司 別府大学教授
  『大航海時代における東アジア世界と日本の鉛流通の意義』



≪施設情報≫
○ 鉄砲鍛冶屋敷 ※内部非公開
   大阪府堺市北旅籠町西1-3-22
   アクセス:阪堺線「高須神社駅」より徒歩約10分

○ 茶室 黄梅庵(大仙公園内)
   大阪府堺市百舌鳥夕雲町2-142-1
   電:072-247-1447
   アクセス:JR阪和線「百舌鳥駅」より徒歩約5分

○ 臨江寺
   大阪府堺市南半町東2-1-3
   電:072-232-6047
   アクセス:阪堺線「御陵前駅」より徒歩約3分

○ 今井宗久屋敷跡
   大阪府堺市中之町東1丁目
   アクセス:阪堺線「宿院駅」より徒歩約5分

○ 橿原市今井町伝統建造物群保存地区
   奈良県橿原市今井町
   アクセス:近鉄「橿原線八木駅」より徒歩約10分

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