第91話
人形浄瑠璃文楽座の基礎をつくる
植村文楽軒は宝暦元年(1751)淡路島仮屋の生まれ。本名は嘉兵衛。仮屋の庄屋・正井順蔵は、村で淡路人形浄瑠璃の遣い手として頭角を現わした嘉兵衛を娘「てる」の婿に迎え、一座を組ませて中国地方を巡業させたといわれる。やがて嘉兵衛夫婦は大坂に移り、高津橋南詰(現在の大阪市中央区)に素人相手の浄瑠璃の稽古場を設けたが、そのうち太夫や人形遣いを集め本格的な操り芝居をはじめた。
嘉兵衛の上坂をさかのぼる60数年前、大坂の人形浄瑠璃は竹本座と豊竹座が人気を争った「竹豊時代」と称される全盛期にあり、歌舞伎を圧倒する勢いであった。しかし、その後新作に恵まれず明和年代(1764~1771)の初期から人形浄瑠璃の凋落がはじまる。明和2年(1765)豊竹座、同4年(1767)竹本座が相次いで維持不能となり、歌舞伎興行へと転じていった。
この時期、人形の芝居を観るには神社境内の小さな小屋に足を運ぶしかなかった。嘉兵衛は「植村文楽軒」と名乗り、人形浄瑠璃興行に専念する。高津橋から北堀江へ移って小屋を開いたといわれている。その後文楽軒は辛酸をなめたと伝えられるものの、その詳細は不明である。
文楽軒は文化7年(1810)に没したが、翌文化8年(1811)嗣子である二代目文楽軒が大坂博労町の稲荷神社(現在の難波神社・大阪市中央区)境内で人形浄瑠璃の小屋を建てる。その後一時移転したが、三代目文楽軒のとき安政3年(1856)に当地へ戻り、その頃から「文楽軒の芝居」と呼ばれるようになった(難波神社由緒書)。この小屋が明治5年(1872)遊郭のあった松島(現在の大阪市西区)に移り「文楽座」を名乗ったのである。同17年(1884)、市の中心部北船場(現在の大阪市中央区)の御霊(ごりょう)神社に再度移転し「御霊文楽座」と呼ばれた。
大正15年(1926)御霊文楽座が焼失、その後四ツ橋文楽座、道頓堀文楽座(後に朝日座と改称)と変わり、その間植村家から松竹への興行権引継ぎ、文楽協会設立などの数々の変遷を経て、昭和59年(1984)に開場した国立文楽劇場が「人形浄瑠璃文楽」の本拠地となり、文楽軒の「文楽」の名をとどめることとなった。
大阪市天王寺区の円成院に建つ初代文楽軒の墓は、妻てるの実家姓である「正井氏」と書かれた台上に置かれ、夫婦の戒名が並んで刻まれている。三代目を称える「文楽翁之碑」は3、4mはあろうかという偉容でその功績の大きさを物語っている。
フィールドノート
最初の稽古場を探してみる
淡路島から大坂に出てきた植村文楽軒が、最初に設けたという浄瑠璃の稽古場の場所「高津橋南詰浜側」は一体どこであったのか。
大阪くらしの今昔館が制作した「浪花の繁栄―大坂三郷の商工」という大判の地図によると、「高津橋」は、享保時代に道頓堀川の下大和橋(しもやまとばし)下流付近から日本橋御蔵通り付近まで開削された「高津入堀川」と呼ばれる運河に架かっていた橋であることが分かった。しかし、昭和43年(1968)川は埋め立てられ、件の「高津橋」は撤去された。
今は生活道路となった旧川筋にある飲食店のご主人に聞くと、店の側の交差点が南北に架かる高津橋のあったところだと教えてくれた。ここを基点に考えれば、橋の南詰浜側は現在の中央区日本橋1丁目の南端から2丁目の北端のゾーンあたりになろうか。文楽軒が大坂で人形浄瑠璃のスタートを切った場所が、ここから北へ徒歩5分ほどの国立文楽劇場とは目と鼻の先であったことに今さらながら驚かされる。
「高津入堀川」には上流の清津橋から始まって十を超える橋が架かっていたという。旧川筋の民家の軒下に「すえひろはし」と刻まれた石の橋柱が置かれていた。「末広橋」は高津橋の上流にあった橋。近代化の一方で消え去っていく郷土の歴史を少しでとどめようと熱い想いを寄せる人がこの街にもいたようである。
明治・大正期の文楽の隆盛
明治17年(1884)、文楽座の元座員が難波神社で「彦六座」を開場、三代目文楽軒はこれに対抗するため松島から市中心部の北船場にあった御霊神社に文楽座を移転した。両座の面子を懸けた競合は半面双方の座員の技術向上に寄与し、結果的に明治の人形浄瑠璃は黄金期を迎えることとなった。「文楽座」を構え、人形浄瑠璃の隆盛に貢献したことから三代目文楽軒は、「文楽翁」と称された。
文楽翁が没して後の六代目の時代、新しい芝居や映画の勃興など大衆芸能の近代化の波に押し込まれ、明治42年(1909)御霊文楽座の経営は植村家から松竹の手に渡った。
大正期の御霊文楽座の様子が有吉佐和子の小説『一の糸』に描かれている。「当時の文楽座では朝の五時半から開場していて、まだ修業中の若い太夫や三味線弾き、それにまだまだ主遣(おもづか)いになるのは十年先という人形遣いが客の一人もいない小屋の中で、一心不乱に演じていたのである」―往時の御霊文楽座の空気を伝える一コマである。
御霊神社と御霊文楽座
御霊神社は平安時代(800年代後半)に創建された大阪有数の神社であり、現宮司の園文夫氏で37代を数える。園宮司に、御霊神社が劇場を設け文楽座を受け入れた前後の歴史を伺った。
明治の神仏分離令により、御霊神社の神宮寺であった寳城寺(ほうじょうじ)が廃寺となった。園宮司の曽祖父であり、熱心な浄瑠璃愛好者でもあった当時の宮司園八尋(やひろ)(1834~1900)は、道頓堀発祥の人形浄瑠璃が、仮設の粗末な小屋でしかも転々と場所を変えて興行している状況をみて、伝統文化の存続に危惧を抱いた。そこで神宮寺跡地の有効活用もかね、娯楽機能に乏しいこの地域に人形浄瑠璃劇場を建設しようと一念発起し、氏子でもある地元の商人たちに寄進を呼びかけ、集まった浄財をもとに、明治17年(1884)、境内に日本初の常設専門劇場を完成させ、「御霊文楽座」を受け入れた。
新劇場は500人を優に超える収容規模をもち、連日満員の盛況であったという。文楽の上演は朝の7時から夜9時頃まで行われた。神社の方も、劇場に合わせて参拝・祈祷の受付を朝7時から夜9時ごろまで休みなしの態勢を組んだ。そのため神職は1日2交代勤務、人数は現在の2倍近くいたそうである。また曽祖父八尋は文楽座から地代も家賃もとらなかったようだ。「参拝人の増加で神社もうるおったからでしょう」と宮司は推察する。
境内の賑わいは、御霊文楽座焼失後、昭和に入っても変わらなかった。北船場の神社周辺は商人が多く、店の掃除が始まる朝の時間帯には、掃除の邪魔になる番頭クラスがウオーキングもかねて商売繁盛のお参りをする。夜は夜で仕事を終えた丁稚クラスがお参りにかこつけ境内に並ぶ夜店を目当てに大勢やって来る。宮司は、「神社が早朝から賑わいをみせる様子に、京都の静かな環境から嫁いできた母が驚いたという話をよく聞かされました」と振り返る。
御霊文楽座は、北船場の街の活性化に大きく貢献した。文楽座の観客増は来街者増となり、北船場の賑わいと消費需要の増加につながった。また新しいサービスも提供された。中でも「すし萬」や「吉野鯗(よしのずし)」のすし、「現長(げんちょう)」や「柴藤(しばとう)」の鰻弁当など有名料亭の弁当の出前はとくに好評で、その結果料亭や料理屋が周辺に相次いで出店、それがまた評判を生むといった好循環がもたらされた。曽祖父が思い描いた「娯楽と浄瑠璃文化の存続」という狙いは十二分に達成できたのではないか、と園宮司は語る。
大正15年(1926)千秋楽の日、御霊文楽座が座員の不注意による失火で全焼、本殿の一部も類焼した。園宮司の父克己(1909~1977)は、当時旧制北野中学の学生であったが授業中担任の教師から「園、御霊神社で火事や、すぐ帰れ!」と言われ、慌てて帰宅したそうだ。その日、大阪の街には文楽座の火事を伝える号外も出たという。当時の宮司で祖父の千秋(ちあき)(1871~1931)は、本殿の一部とはいえ被災させたことを悔やみ続け、火元となった劇場の再建には二度と首を縦に振らなかった。その後、焼け跡には神社の参集所(現在は儀式殿)を建てることとした。その結果、明治・大正期の人形浄瑠璃最盛期の中心であった御霊文楽座は40年近い歴史の幕を閉じたのである。
昭和20年(1945)3月14日の大阪大空襲で、御霊神社は神輿庫を残して全ての建物が被災、資料蔵も焼け落ち貴重な所蔵資料がすべて焼失した。
昭和32年(1957)、御霊文楽座の火事、戦災による社殿や資料藏の焼失を経験した父克己は、火災に耐えうることを最優先し、社殿を木造ではなく鉄筋コンクリート造りで再建した。
御霊文楽座跡に建つ儀式殿の小ホール(200人収容)では、文楽・落語・日舞などミニ公演が行われている。「ささやかながら地域の文化活動推進の一助にさせてもらっている」と宮司は話した。
国立文楽劇場とユネスコ無形文化遺産
大阪万博の余韻も冷めて高度成長に陰りが見え文楽の観客動員も減り始めた頃、文楽協会が「大阪に文楽専用の国立劇場を」と誘致を開始したのを契機に、地元政財官界がこぞって強力な運動を展開する。とくに文楽協会の理事長でもあった近畿日本鉄道社長佐伯勇(1903~1989)は、「人形浄瑠璃は大阪で育った大阪弁や。絶対大阪で国立劇場を造り、後世に伝えていきたい」という熱い思いから当時の三木武夫首相に直訴し、その三木から大平正芳蔵相に話が通された結果、設立準備の調査費が計上された。佐伯の秘書を長年務めた近鉄の前会長山口昌紀(1936~2017)は自著『奈良に育まれ電車に乗って青山をみる』のなかで、当時の経緯を懐かしく振り返っている。そして10年後の昭和59年(1984)3月、日本橋の旧高津小学校跡地に「国立文楽劇場」が完成した。
人形浄瑠璃発祥の地・大阪に待望の常設劇場と技芸員の技能研鑽の拠点をもったことは、日本の伝統芸能の継承に大きく寄与すると期待された。さらに、平成15年(2003)11月、ユネスコは人形浄瑠璃文楽を「無形文化遺産」と宣言、後世に伝える貴重な伝統芸能の一つに選んだ。能楽に次いで文楽は日本が世界に誇る「人類共通の宝」として認められたのである。
豊竹咲太夫さんが語る人形浄瑠璃文楽への思い
八世竹本綱太夫(1904~1969)を父にもち、豊竹山城少掾(1878~1967)を師とした初代豊竹咲太夫さんは、ただ一人切場語り(クライマックスの場面を語ること)を担う、現在の文楽界を代表する太夫である。平成30年(2018)11月の文楽公演が始まる二日前、国立文楽劇場で稽古を終えた咲太夫さんに、文楽軒や人形浄瑠璃文楽への思いを伺った。
「文楽軒は淡路島から出てきて当時の大坂の数々の小さい小屋を一つにまとめ、文楽の興行を行ったと聞いています。文楽座と名のつく芝居小屋が地方に残っていますが、それらは地域の祭りのときだけの興行で、常設で興行を行う大阪の国立文楽劇場が文楽の総本山です」
そのような文楽の魅力はどこにあるのか、ストレートに聞いてみた。
「三業(太夫、三味線、人形遣い)が一つになってプログラムを上演するという世界に例を見ない演劇、それが文楽です。とりわけ西洋のマリオネットとは違い、人形を3人で遣う(操る)のは日本だけ。息を合わせ、三位一体となっての演技が観客に大きな感動を与えるのです。そこがユネスコ無形文化遺産となった一番の理由でもあるのです」
「三業の関係を野球にたとえると、太夫は投手、三味線は捕手そして人形遣いは内・外野手になり、それぞれが連携してプレーすることでチームの勝利につながります」と、咲太夫さんはわかりやすく説明した。
もう一つの魅力は、「なにわ大坂の土壌があってこその文楽」にあると咲太夫さんは強調し、その理由(わけ)を三味線の音色で説明する。
大坂の三味線は文楽の太棹で「デンデン」、これが大坂を代表する音である。江戸はどうか。江戸の三味線は清元に代表される「カーン」という音。「デンデン」は低い音でしかも濁音。それに反して江戸の「カーン」は高い音で清音。
「桂春団治や藤山寛美のように関西の名人や名優には悪声の人が多かった。しかし、低く濁った地声を優れた演技力でさりげなくカバーしてましたね」という咲太夫さんの話はなるほどと納得させられた。
文楽も大坂に密着し、しかも話題をさらった事件を取り上げ、世話物として上演されてきた。「話は大坂の言葉、出てくる地名や名所を聞いて『ああ、あそこや』とすぐにイメージが浮かびます」。この身近さを感じさせるところがまさに大坂の土壌なるが故なのだろう。
かつての大坂を振り返ってみれば、商家の経営者層は伝統芸能の力強いサポーターであった。また道頓堀五座や花柳界は芸の実践場・交流の場所でもあった。さらに忘れてはならないのは、義太夫、三味線をはじめとする芸能が、庶民の嗜みとして日常生活の中に溶け込んでいたことだ。
咲太夫さんは、「大坂の土壌で育った芸能文化」が現在環境の変化に直面している様子を、「時代の移り変わりですな」と表現する。
日本のブロードウェイになる可能性を秘めていた道頓堀から劇場が消え、夜に始まる芸能の上演が昼の時間帯に移ってしまった。昔の商家にかわる大企業本社の相次ぐ東京移転、伝統芸能の受け皿でもあった花柳界の衰退などが時代の移り変わりの端的な例である。また、庶民感覚にも時代の変化が表れている。咲太夫さんはその例をあげてくれた。「文楽はあくまで娯楽。それなのに文楽を観に行くことがなにか博物館でも行くかのように肩に力が入って構えてしまう人が多くなった」と見ている。芸能文化を生み育ててきた「大坂の土壌」の変質が一段と進んでいるのであろうか。大いに気になるところである。
地方に行くと、出身文化人の銅像や記念館が郷土の誇りとして堂々と建っている。詩人の金子みすゞ(銅像と記念館・山口県長門市)や作曲家の滝廉太郎(記念館・大分県竹田市)など、あげればきりがない。「それにしても」と咲太夫さんは言う。「人形浄瑠璃文楽発祥の地大阪に、竹本義太夫・竹田出雲・植村文楽軒の記念館どころか銅像すらありません」と。全く同感である。「大坂の土壌で育った芸能文化」に行政をはじめ市民もさらなる関心の目を向ける必要を痛切に感じる。
現在、国も私たち国民も、「ユネスコ無形文化遺産」である人形浄瑠璃文楽を伝統文化として継承していく責任を負っているといってよい。
ユネスコ無形文化遺産「人形浄瑠璃文楽」は僅か80数名の三業の技芸員によって維持されている。伝統を継承していくには後継者の育成を欠くことができない。咲太夫さんは「太夫はスターでないと役に就けなかった。当然、競争も激しかった」と昔を振り返る。今の限られた陣容では、無理して引き上げなければ文楽の公演が成り立たないというのが実態なのだそうだ。しかし、咲太夫さんはきっぱりと「なんとしてもお金のとれる技芸員(太夫)に育てたい」。厳しい環境の中で文楽に取り組み技能を磨いてくれているお弟子さんたちへの配慮がにじみ出る言葉であった。若い技芸員が育たなければ文楽の伝統は保つことができない。これは咲太夫さんも劇場もまったく同じ思いだという。
ところで、咲太夫さんはこれまでの活躍に対し30を超える数多くの賞を受賞している。「賞はなにをもらってもうれしいもの」というが、とくに印象に残っているものをあげてもらった。昭和59年(1984)2月の第1回咲くやこの花賞(大阪市)。授賞式で、小説家の藤沢桓夫(ふじさわたけお)(1904~1989)から「この咲くやこの花の名が入った賞は、咲太夫さんあんたのために作ったみたいなもんや。おめでとう」と声をかけられた。とても嬉しかったという。もう一つは平成11年(1999)3月の「芸術選奨文部大臣賞」。このときは『仮名手本忠臣蔵』九段目。1時間40分の演目を、1年かけて稽古を積み重ねてきた結果の受賞だった。努力が報われたと率直に喜んだ。「太夫という仕事は20歳代が仕込みの時期で、その成果はずっと後になって出てくるものです」。数々の受賞は、若い頃の稽古の積み重ねは嘘をつかないという証なのだ。
文楽の総本山「国立文楽劇場」の中で、現役最高峰の初代豊竹咲太夫さんの肩には、義太夫以来300年余のエンターテイメントとしての深耕と座や小屋の離合集散の歴史を乗り越えてきた人形浄瑠璃文楽の重みがズシリと加わっているように見える。
取材の最終盤、咲太夫さんはとっておきの話を披露してくれた。昭和41年(1966)9月、竹本綱子太夫から豊竹咲太夫改名時に起こったまさにアンビリーバブルな出来事である。関係先への配り物や自分の衣装に入れる紋を初代竹本咲太夫の紋に合わすべく八方手を尽くして探してみたが見つからず、手配の日も迫り初代の紋を諦め開き直って生田家(咲太夫さんの本名)の「丸に十字」の紋で発注した。ところが、である。知り合いがついに見つけたと息せき切って家へ駆け込んできた。持参した墓石図をひろげると、初代咲太夫の墓に刻まれていたのはまさしく「丸に十字」の紋。これには関係者一同思わず息をのんだ。歓声が上がったのはしばらくしてからだった。しかも紋が見つかったその日はなんと九世咲太夫の命日だったのだ。家紋の数1万前後(諸説あり)ともいわれている。これと命日を掛け合わせるとこの日の出来事はなんと360万分の1の確率になる。豊竹咲太夫の名は、必ずや良縁につながり奇跡を呼ぶ名跡となるのではないか。そんな予感がしてならない。なんとも興味深い話であった。当初、師の豊竹山城少掾から「竹本咲太夫」を与えられたものの姓名判断で字画が吉数の「豊竹咲太夫」に落着した、という咲太夫さんの話も付け加えておこう。
平成30年(2018)、国立文楽劇場11月文楽公演幕開けの日、『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』を鑑賞した。「帯屋の段」は咲太夫さんが切り場を勤め、三味線は鶴澤燕三(えんざ)さん。前後の段は中堅・若手の太夫が初日の出番を熱演していたが、筆者は咲太夫さんの語りにどっぷりと浸った。娯楽に行くのにまだ「博物館へ行く感じ」がついてまわってはいたが、これをきっかけに国立文楽劇場に足を運ぶことにしたい。拙稿をお読みくださった皆さんに、「大坂の土壌で育った文楽」をぜひともお楽しみいただきたいと願う次第である。
2019年2月
長谷川俊彦
≪参考文献≫
・倉田喜弘『文楽の歴史』(岩波現代文庫)
・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂出版)
・有吉佐和子『一の糸』(新潮文庫)
≪施設情報≫
○ 高津橋跡
大阪市中央区日本橋1
アクセス:近鉄奈良線「近鉄日本橋駅」、大阪メトロ堺筋線・千日前線「日本橋駅」より徒歩約5分
○ 難波神社・稲荷社文楽座跡碑
大阪市中央区博労町4–1–3
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「心斎橋駅」より徒歩約7分
○ 御霊神社・御霊文楽座跡碑・文楽座之跡碑
大阪市中央区淡路町4–4–3
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分
○ 国立文楽劇場
大阪市中央区日本橋1–12–10
アクセス:近鉄奈良線「近鉄日本橋駅」、大阪メトロ堺筋線・千日前線「日本橋駅」より徒歩約5分
○ 円成院・植村文楽軒墓所
大阪市天王寺区下寺町2–2–30
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽丘駅」より徒歩約10分