第97話
大坂から全国に名を馳せた陶芸家
江戸時代の大坂の“やきもの”には生産・作家活動ともに見るべきものがない中で、初代吉向治兵衛の存在は特筆に値する。その活動は大洲藩の御庭焼(大名などが自分の趣向に合わせて城内や邸内に窯を築き焼かせた陶磁器)を初め、全国6カ藩に窯を築くなど広範囲に及び、数多くの作品は、「東京国立博物館」、「大阪市立美術館」、「滴翠美術館」、信州須坂「田中本家博物館」「ボストン美術館」、「ミュンヘン民族博物館・シーボルトコレクション」、「モントリオール美術館・クレマンソーコレクション」等、内外に所蔵されている。現在は、八代吉向十三軒窯と九世吉向松月窯の2家に別れ、各々活発に作家活動を行い大阪の文化活動の一翼を担っている。
陶芸家初代吉向治兵衛は、通称亀次、元の名を戸田治兵衛という。号は十三軒、俳名は松月、法名は行阿(ぎょうあ)。伊予国大洲上灘村(現在の愛媛県大洲市)で生まれ、父戸田源兵衛の姉婿に砥部(とべ)焼の土器職人帯屋武兵衛がいた。陶芸家治兵衛の源流である砥部焼は、大洲藩9代藩主加藤泰候(やすとき)の肝いりで完成した白地に藍色の模様を施した磁器である。治兵衛は砥部焼の技法を身につけた後、享和年間(1801~1804)、修業の旅に出て京都へ入り、楽家9代了入の指導を受ける。現代の吉向窯にも楽の伝統が継がれており、さらに初代清水六兵衛、初代高橋道八、浅井周斎などの京焼の名手に指導を受ける。元大坂の豪商で南山焼の創始者浅井周斎からは、独立して窯を開く許可を受けた。
文化元年(1804)、治兵衛は人目に付きやすいところを求めて、祇園の元芸者であった妻さとの実家があり、当時交通の要衝であった大坂の十三の渡しの近くに窯場を設けた。20歳のときである。初めのうちは、旅人相手の土産品を売ったが、基盤ができると砥部から良質の土を取り寄せ、茶碗などの日用品から置物、飾り物と徐々に本格的な焼き物を製作する。これに自分の幼名「亀次」にちなんで、「亀甲焼」と命名したのが当たり、長寿の象徴で縁起が良いと往来する参勤交代の大名の目に留まるようになる。
十三村にて開窯していた時代(1817年、33歳頃)、愛顧を受けた代官岸本武太夫の紹介で、当時の寺社奉行水野忠邦(後の大坂城代)の依頼により、11代将軍家斉の慶事に当たり金魚鉢と鶴と亀の食籠(じきろう)(蓋物の菓子鉢)を製作、上納した。家斉はこれをいたく気に入り、面目をほどこした忠邦は治兵衛に対し、亀甲に因んで「吉向」の窯号と金印・銀印を与えた。吉向を紹介した岸本武大夫も面目をほどこし、祝意を表して当時著名な歌人で能書家の加茂季鷹に「吉向」の二大文字の揮毫を委嘱し贈っている。現在、その書は八代吉向十三軒により所蔵されている。よって、文政2年(1819)37歳頃から吉向姓を名乗るようになった。
陶名大いに上がった吉向治兵衛は、文政2年(1819)出身地の大洲藩主加藤泰済の御庭焼を興し、同10年(1827)大和小泉城主八世片桐貞信に招かれ、瓢形「十三軒」印を拝領した(瓢箪は初代石州流祖片桐貞昌の号浮瓢軒に由来する)。これより「吉向十三軒」を名乗った。また、天保10年(1839)、貞信の参勤交代に随行し、江戸屋敷で窯を築く。これに先立つ天保5年(1834)、石州流の流れをくむ岩国藩主吉川経禮に招聘され、藩窯の多田焼を再興した。
弘化2年(1845)信濃須坂藩主堀直格の招きで須坂に入り窯を築く。江戸で還暦を迎え行阿と号した。松代藩、津山藩(江戸屋敷)等の御庭焼も務める。
作品は、楽に始まり交趾(こうち)染付等があり、鶴・亀等の彫塑的な作品にも妙技を発揮した。鶴と亀の食籠は初代吉向治兵衛の代表作として残っている。その後治兵衛は江戸に定住する決意をし、「隅田川焼」と称する焼き物を始めるが間もなく文久元年(1861)に死亡した。墓所は本誓寺(東京都江東区)。没年は満77歳であるが、生年を天明3年(1783)とする説がありこれによると満78歳となる。
フィールドノート
再現された「吉向窯」︱ 神津神社(かみつじんじゃ)
大阪市淀川区にある神津神社の境内に、「吉向窯」が再現されている。昭和59年(1984)、第3回「十三文化祭」の記念事業の一つで、地元の要望により七世吉向松月氏が十三小学校の校庭に再現したものを移築したものである。
神津神社は、安土桃山時代の天正年間(1573~1591)に「正八幡宮」として現在地(摂津国西成郡小島村)に創建、明治42年(1909)に神津村の木川、野中、新在家、堀上の各村の氏神を小島村の八幡宮に合祀し、社名を神津神社と改め現在に至る。同社では、再現された吉向窯で神職自らが正月に土鈴を焼き、頒布している。
吉向十三窯
初代治兵衛が十三に窯を築いたのは妻の実家近くの廃寺跡で、当時の摂津国西成郡中津川村古堤大字小島新田であった。しかし、現在それは新淀川の底に沈んでいる。ちなみに、大阪から西へ向かう中国街道沿いに、治兵衛が最初に窯を設けた十三がある。上流から13番目の渡しであったことから「十三の渡し」と呼ばれた。川の北側の乗り場があったところは渡し舟を待つ人々で賑わい、往時には二十数軒の旅籠が軒を連ね、脇本陣を置いた西国大名もあった。淀川河畔に「十三渡し跡」の碑がある。
吉向窯の系譜
初代治兵衛には子供がなかったため、父の姉の夫帯屋武兵衛の子亀治(従弟)を養子にして二代を、さらに姉の子(甥)の與右衛門も養子にし三代を継がせ大坂の窯を任せた。江戸では旗本の次男吉向一郎を養子にし、江戸二代とした。四代治平は二代亀治の子で、治平には長男萬三郎と実蔵の2子あり、萬三郎が松月を、実蔵が十三軒を名乗り、以下に述べる今日の2窯につながる。
当代・吉向十三軒窯
吉向十三軒家では、江戸二代の吉向一郎を四代とし、先述の四代治平を五代と数える。かくて五代治平〔明治24年(1891)没〕の次男実蔵を六代吉向十三軒とする。七代治一郎は実蔵の三男で、当代は治一郎の四男了一氏で、八代吉向十三軒である。
現在、当代は東大阪市布市町に窯・会館(茶席)を構える。登り窯築窯のため伊賀市丸柱にも陶房を設立。茶室も整え、初代以下各代の作品を中心に資料館の設立準備に当たっている。作風は交趾、楽焼に加え、青磁、黄瀬戸、御本手(ごほんて)、焼〆等、様々な技法に挑戦し、今日庵(こんにちあん)出入方として毎年各地の有名百貨店で作品展を精力的に開催している。長男翔平氏も九代目を目指し修業中とのことである。
当代・吉向松月窯
二代(世)亀治の長男、四代(世)治平には2子あり、兄、萬三郎が五世吉向松月を継ぎ、弟、実蔵が六代吉向十三軒を継いだ。六世吉向松月〔萬三郎の長男・昭和25年(1950)没〕の養子福男が七世吉向松月〔号蕃斎・大正13年(1924)~平成30年(2018)没〕を継いだ。八世吉向松月〔秀治、号孮斎、七世の長男・昭和27年(1952)~〕および九世吉向松月〔孝造、七世の次男・昭和29年(1954)~〕の2氏はともに大阪工芸協会会員として活躍中で、九世の長男壮太氏が十世を目指して修業中である。五世萬三郎は高津神社の前に窯を開いていたが、市内での窯が禁止になり六世次蔵と協力して枚方に窯を移設している。作風は初代治兵衛が師事した九代楽了入の流れを受け、やわらかく温かみのある青や緑の釉薬を用いた「楽」風のやきものである。
吉向治平衛の作品が収蔵、展示された博物館、美術館
国立民族学博物館では、平成8年(1996)2月に「シーボルト生誕200年記念特別展」を開催した際、ミュンヘン国立民族学博物館所蔵の初代吉向治兵衛の作品が「食べる」のコーナーに4点展示された。東京国立博物館(巣籠鶴食籠)や大阪市立美術館(亀置物)、滴翠美術館(交趾釉・袱紗型皿)も初代の作品を所蔵している。また、館信州須坂・田中本家博物館(長野県須坂市)の館内常設展示場には吉向治兵衛のコーナーがあり、常時7~8点展示されている。須坂市立博物館では、平成27年(2015)7月~9月に須坂藩開藩400年吉向焼須坂開窯170年を記念して吉向焼展「ふるさとに息づく江戸期の雅陶~吉向行阿の置きみやげ~」が開催され、田中本家博物館からの出品および個人蔵を加え、80点に及ぶ吉向治兵衛の作品が展示された。
初代吉向治平衛の作品(吉向松月家所蔵)
2019年2月
江並一嘉
≪参考文献≫
・初代吉向治兵衛『陶工秘録』国立国会図書館蔵、和綴じ本(マイクロフィルム)〈治兵衛61歳、弘化2年(1845)の作〉
・『日本やきもの集成7 近畿Ⅱ』(平凡社)〈初代吉向治兵衛の作品3点〉
・今泉雄作、小森彦次共著『日本陶瓷史』(雄山閣)
・太田能壽『陶器百話』(學藝書院)
・『陶器大辞典 巻二』(五月書房)
・保田憲司『吉向焼』(淡交社)
・吉向蕃斎(七世松月)『やきものばなし お茶の心と茶盌の形』(彩弘会)
・吉向秀治(八世松月)『十三軒吉向松月』(大阪春秋84号)
・『角川日本陶磁大辞典』
・『原色陶器大辞典』(淡交社)
≪施設情報≫
○ 神津神社、吉向窯(再現)
大阪市淀川区十三東2–6–7
アクセス:阪急京都線「十三駅」より徒歩約3分
○ 十三渡し跡碑
大阪市淀川区新北野1 十三大橋北畔
アクセス:阪急京都線「十三駅」より徒歩約5分
○ 当代・吉向十三軒窯
大阪府東大阪市布市町1–9–10
アクセス:近鉄けいはんな線「新石切駅」より徒歩約15分
○ 当代・吉向松月窯
大阪府交野市私市8–25–6
アクセス:京阪交野線「私市駅」より徒歩約15分