第1話
古代大和王権のキングメーカー
大伴金村は古代の有力豪族で、5世紀後半から6世紀前半にかけて最高の官職である大連(おおむらじ)として歴代天皇に仕え、大伴氏の一時代を築いた権力者である。継体天皇の最後の居宮・磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)のある磯城・磐余地方(現在の奈良県桜井市)を本拠地とし、その勢力は河内、摂津、山城などにも及んだとされる。
金村は、天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖神とする大伴室屋(むろや)の孫で、大伴談(かたり)の子といわれている。武烈天皇の即位に貢献し、祖父と同じ大連の称号を得て以降、継体、安閑(あんかん)、宣化(せんか)の各王権成立を画策、大いなる権勢を振るった。
金村が力を最も発揮したのが、継体天皇の擁立である。武烈天皇9年(507)、武烈天皇の崩御で王統が絶えようとした時、金村は応神天皇から5代目の子孫にあたるとして越前国にいた男大迹王(おほどのおおきみ)を推挙。河内国樟葉宮(くずはのみや)で第26代継体天皇として即位させた。
継体天皇6年(512)には、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済から任那4県の割譲要求があり、金村は五経博士の受け入れを条件にこれを承諾した。しかし、これが後に金村失脚の原因となる。
継体天皇21年(527)に筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の乱が起こり、金村は継体天皇の命を受け物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し鎮圧させるなど功績を上げた。しかし、欽明天皇期に新羅が任那地方を併合する事件が起きた際、先の任那割譲の際に金村が百済から賄賂を受け取ったと物部氏らから嫌疑をかけられ失脚。武烈以降4代の天皇を即位させた金村は、ついに最高権力者の座を降りることになる。晩年は摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区帝塚山)に住み、波瀾の生涯を終えた。当地にある帝塚山古墳は、金村とその子の墳墓と伝えられている。
金村亡き後は、蘇我氏と物部氏との対立の時代に入る。大伴氏は歴史の表舞台から消え、後世の安麻呂や、その子である旅人(たびと)、孫で万葉集編纂に携わった家持(やかもち)など少数が大伴の名を残すのみとなった。
フィールドノート
金村神社 ― 葛城山麓にひっそりと佇む小社
近鉄御所線「新庄駅」から西へ歩くこと25分、葛城山麓一帯に広がる屋敷山公園近くに「金村神社」がある。公民館の窓口で、金村神社の場所を尋ねたが、3人の職員は互いに顔を見合わせ、「そんな神社あったかな」といった表情を浮かべた。インターネットで調べてもらったところ、「そう言えば駐車場の下にある、あの社や!」ということになり、ようやく場所が判明。それは知る人のみぞ知るといった感じの小社であった。
傾いた石造りの鳥居をくぐると、崩れかけた石燈籠の根元部分に微かに「金村社」の彫り込みを見つけた。さらに石段の奥には小さな祠。かつては式内社(延喜式の神名帳に記載されている神社)であり、明治4年(1871)には4反歩の境内旧地を持つ大社だったというものの、今やその面影は微塵もない。社伝によれば、安閑天皇2年に大伴金村の霊を勧請したとされる。しかし安閑天皇期にはまだ存命中であり、大伴金村を祀る神社がなぜこの場所に創建されたのかは知る術もない。
継体天皇擁立の影の功労者・河内馬飼首荒籠(かわちうまかいのおびとあらこ)
大伴金村がキングメーカーとして、大いなる手腕を振るったのが継体天皇の擁立であった。その際、金村の指示を受けて奔走したのが河内馬飼首荒籠で、日本書紀にもその活躍が記されている。荒籠は、6世紀初頭に楠葉地方(現在の大阪府四條畷市)に住む馬飼を生業とする部族の首長であった。
日本の馬の生産は、古墳時代、渡来人が朝鮮半島から連れてきた馬を当地で飼育し、繁殖させたのが始まりである。四條畷市は多くの河川が流入する古代河内湖の東岸に位置し、湖岸や川べりの草が馬の飼料となり、さらに海水を含んだ水からは飼育に欠かせない塩分も摂取できるなど、馬の飼育には最適な環境だった。同市にある古墳時代の遺跡からは、多数の馬の骨が発掘されている。国産馬といえば木曽馬や宮崎県都井岬の御崎馬などが思い浮かぶが、はるか古代、ここ河内が馬の繁殖・飼育地だったことになる。
荒籠は「馬飼の里」と呼ばれたこの地で馬を繁殖させ、育てた馬を越前や畿内各地の有力豪族に軍馬として提供した。そうして金村や男大迹王とも強い関係を築き、同時に時の権力者のさまざまな情報を入手することができた。そのため一種の諜報機関的な役割も果たしていたといわれ、継体王権の成立にも尽力することになったのである。男大迹王も信頼する荒籠の仲立ちであればこそと決断し、荒籠の本拠地に近い樟葉宮に即位したと日本書紀には記されている。それを考えれば、荒籠という人物を天皇擁立にも利用した金村の慧眼はさすがといえよう。
四條畷市立歴史民俗資料館には、この地がかつて馬飼の里であったことを証明するように、市内の遺跡から発掘された馬の頭部の骨が展示されている。これらは馬飼の里での祭祀の際に神への供物として切り落とされた馬の首か、もしくは病気の馬を生け贄にしたものだといわれている。馬の土偶も展示されているが、これは馬の形をした土偶が祭祀の際に使われていたとされる。
古墳時代に国産化を果たした馬は、以後、軍馬や人荷の輸送手段として、戦国時代はもとより太平洋戦争終了まで重要な役割を担ってきた。酷使されながらもこれほど人間に忠実に貢献してきた家畜はないであろう。馬といえば背が高く痩身のサラブレッドをイメージするが、資料館に展示されている馬や仔馬の埴輪は、背が低く、ずんぐりとした胴体が印象的である。それを見ると、古代の血筋を引き継ぐ日本在来種にもっと温かい眼差しを注いでやりたい気持ちにもなってくるから不思議である。
金村と難波屯倉(なにわのみやけ)
金村は武烈、継体、安閑そして宣化の4代にわたり天皇を即位させた実力者である。歴代天皇は金村を頼りその意見に耳を傾けた。日本書紀によれば、安閑天皇には4人の皇后と妃がいたが嗣子に恵まれずそのため自分の名が絶えてしまうことを案じてどうすればよいかを大連の金村に問うた。それに対して金村は「何か記念になるものを残し、それによって後世に名を留めることがよろしゅうございます。皇后や妃に屯倉の地を拓いて後世に残されてはいかがかでしょうか」と答えたという。
「屯倉」とは、朝廷の直轄地でもともと稲などの収穫物を貯蔵する倉庫をさす言葉であったが、官倉を中心に田や耕作民や灌漑施設を含めて呼ぶようになった。継体期を境に前・後期と区分されるが、畿内の摂津・河内をまたいで設けられた前期屯倉の一つ「依網(よさみ)屯倉」の伝承地が大阪にある。
大阪市住吉区庭井、阪南高校と隣り合わせの「大依羅(おおよさみ)神社」。参道前に「依網池跡」碑が建っている。日本書紀崇神天皇期に依網池を造ったとありこの人工の溜め池を中心に屯倉の領域は大和川を越えて「屯倉神社」がある松原市の北西部あたりまであったとされる。依網屯倉の経営にはこの地に居住した依羅(よさみ)氏一族があたり、大依羅神社の奉斎も担っていたという。依網池は10万坪の大池であったが大和川の付替えで3分の2が新川となりその後も市街地化により徐々に縮小、現在は跡形もなくなっている。
依網屯倉の一部とされる松原市三宅は古代河内国丹比郡(たじひのこおり)依羅郷に属し地名は屯倉を管理する役所や稲の倉庫があったからだといわれている。この跡地に因み社名を付したのが屯倉神社で、土師氏を祖先にもつ菅原道真公を祀り梅の名所でもある。
さて金村の話に戻る。金村は天皇に「宅媛(やかひめ)には難波の屯倉を賜わりますように」と奏上する。5世紀半ばに成立した難波屯倉は、難波津に近い立地からも農作という土地用益のほかに海外に開かれた港の管理機能も有していた特別な屯倉であり、法円坂倉庫群はその主要な倉庫でもあったとされる。この難波屯倉を残すことで安閑天皇の名が後世に残るであろうという金村の献策は的中する。7世紀、難波屯倉と重なる地に「難波長柄豊碕宮」が造営され、孝徳天皇を中心とする律令国家へのスタートが切られたのである。
金村の最期の地 ― 帝塚山古墳
帝塚山古墳は、南海高野線「帝塚山駅」から西へ約100m、閑静な住宅街を入り込んだ先にある。全長約120m・高さ8〜10mの前方後円墳で、出土した埴輪片の特徴などから4世紀末~5世紀初頭の築造とされている。大阪市内には帝塚山古墳を含め、茶臼山古墳(天王寺区)、御勝山古墳(生野区)、聖天山古墳(阿倍野区)の四つの古墳があるが、前方後円墳の原型をとどめているのは帝塚山古墳だけ。そのため国の史跡に指定されている。門扉で閉ざされ中には入れないが、門柱に説明板が掲げられており、墳丘には明治天皇が明治31年(1898)にここから陸軍特別大演習を統監されたという記念碑が顔をのぞかせている。
当地には、明治頃まで大小二つの古墳があり、「大帝塚山」「小帝塚山」と呼ばれていた。現在、大帝塚山は住吉中学校の敷地となっており、小帝塚山だけが残っている。帝塚山古墳の外表施設は前方部に埴輪列が巡り、茸石も敷かれていたといわれている。しかし、石室や石棺などの内部構造は不明。そのため埋葬者も不明であるが、当地に住居があった大伴金村の墳墓と伝えられている。また、摂津名所図会には、履中天皇の義兄で住吉に住んでいた鷲住王(わしすみのおおきみ)の墓という説や、万葉集第9巻1740番に「水江の浦島の子」が載っていることから、地元では浦島太郎の墓とも言い伝えられてきた。古墳内には、フキやワラビ、ゼンマイなどのほか、珍しいカンサイタンポポが群生している。
大伴氏のその後の系譜 ― 家持の功績
5世紀から6世紀にかけて最大勢力を誇った金村は欽明天皇元年に失脚、住吉の地に引退したがその後の大伴氏の系譜はどうであったか。
大伴氏一族はそれなりの地位を保ち公卿として生き延びたものの奈良時代から平安時代にかけ頻発する政争になぜか巻き込まれ次第に力を失っていく。
このような流れの中で大伴家持は官僚として中納言に昇りつめ、また、歌人として万葉集編纂に関わったとされ優れた精神文化遺産を残した。とくにこの万葉集は天皇・貴族から下級官吏や防人まで幅広い層の歌をとり上げ、その数4千500首余に及び、世界的にも第一級の歴史史料とされている。
平成20年(2008)10月、大阪府交野市の星田妙見宮の鳥居前に万葉歌碑が建立された。市内には天野川が流れ、当宮本殿横に織女(おりめ)石と呼ばれる巨大な石が祀られるなど七夕伝説ゆかりの場所に天平10年(738)家持21才のとき詠んだ歌「織女(たなばた)し 船(ふな)乗りすらし まそ鏡 清き月つく夜よに 雲立ち渡る」(万葉集巻17・3900)が刻まれている。
昭和一桁生まれの人の耳に今も残る『海ゆかば』の曲は家持の長歌(万葉集巻18)の一部を歌詞としている。実はこの歌詞の前には「大伴の遠つ神祖のその名をば大久米主と負ひ持ちて仕へし官」があって「海行かば…」へとつながる。大伴一族の伝統を受け継いで朝廷をお守りする覚悟であると詠じているのである。歌中にある神祖大久米主の名は記紀にはないが、名門大伴を自覚し官人としてまた歌人として朝廷に仕えた家持の心境の一端が垣間見れる。
2015年12月
(2019年4月改訂)
長谷川俊彦
≪参考文献≫
・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
・鷺森浩幸『難波と大和政権 難波屯倉・難波長柄豊碕宮』(續日本紀研究会)
・佐竹昭広他『新日本古典文学大系 萬葉集 四』(岩波書店)
≪施設情報≫
○ 金村神社
奈良県葛城市新庄町大屋213
アクセス:近鉄御所線「新庄駅」より徒歩約25分
○ 四條畷市立歴史民俗資料館
大阪府四條畷市塚脇町3–7
アクセス:JR学研都市線「四條畷駅」より徒歩約10分
○ 屯倉神社
大阪府松原市三宅中4–1–8
アクセス:近鉄南大阪線「河内天美駅」より徒歩約20分
○ 大依羅神社・依網池跡碑
大阪市住吉区庭井2–18–16
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「我孫子駅」より徒歩約15分
○ 難波宮跡
大阪市中央区法円坂
アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町四丁目駅」より徒歩約5分
○ 帝塚山古墳
大阪市住吉区帝塚山西2–8
アクセス:南海高野線「帝塚山駅」より徒歩約3分
○ 星田妙見宮・大伴家持歌碑
大阪府交野市星田9–60–1
アクセス:JR学研都市線「星田駅」より徒歩約30分