第99話
近代日本の逸材を慈愛で支えた陰の功労者
娘として
八重は文政5年(1822)、名塩紙で有名な摂州名塩(現西宮市)の億川家に父百記、母志宇(しう)の長女として生まれた。百記は、名塩紙でつくった藩札用紙、壁紙、薬袋用などを大坂で売りさばくかたわら、医師を志し中天游(なかてんゆう)の思々斎塾に通って蘭医学を修め、天保初年(1830)ごろには名塩で北摂地方最初の蘭医として開業した。
幼いころから素直で利発な八重は、4人姉妹の長女として調薬、患者の扱いを覚え、和歌にも長じ、号を「花香(はなか)」とつけた。年頃になる娘に良い婿を探し求めていた百記は、思々斎塾で同門の足守藩出身の緒方洪庵と出会い真摯篤実な人柄と学問に取り組む厳しさに惚れ込み、師天游にも力添えを頼み娘に合わせる。洪庵も将来の結婚に同意する。百記は婚約を非常に喜び、天保7年(1836)、長崎に遊学する洪庵のために資金を調達している
妻として
天保9年(1838)、長崎遊学から帰った洪庵は、大坂瓦町で医師として開業した。同年7月、洪庵29歳、八重17歳(年齢は数え年)で結婚し、同所で所帯をもった。結婚当初は開業早々のこととて患者も少なく家計も苦しかったが、八重はよく洪庵を助けて生活を守り抜いた。家事の暇を見て、懇切丁寧に患者の応接にもあたった。しゅうと、しゅうとめ、姪たちにも心配りし、佐伯(洪庵の実家)、億川両家の間も親密に保った。洪庵が病に伏したとき、八重は自分の帯を売って風呂桶を買い求め、戸板で囲い洪庵に湯を使わせたというエピソードがある。
塾生の慈母として
洪庵は、学識手腕に加えて八重の内助の功もあって、開業8年目には「大坂医師相撲番付」で関脇の位置に紹介された。その名声を慕って、畿内はもちろん北陸や南九州などから入門を希望する者が後を絶たなかった。数十人に及ぶ住込みの弟子たちの3度の「仕出し」(賄い)も八重が仕切った。
弘化2年(1845)、屋敷が手狭になり、過書町にあった天王寺屋忠次郎(忠兵衛)の別宅を購入、移転した。現存する「適塾」である。適塾の入塾者は延べ1千人に達し通塾者を合わせると3千人に及んだ。
適塾の日常は、適塾の塾長を務め、生涯八重をおっかさんのように慕った福澤諭吉の「福翁自伝」に活写されている。洪庵は若さと血気にあふれた弟子たちを誠実・真摯・寛容の態度でよく指導訓育したが、これを助ける八重の苦労と努力は並大抵ではない。八重は、厳格な洪庵が破門した弟子を庇ったり、弟子が近隣に迷惑をかけた相手と内々示談で済ませたりしている。そればかりか、使用人や奉公人などにも温情親切、相手の人格を認めて過失を責めることはなかった。
また、洪庵と八重は、適塾入門の翌年に腸チフスに罹って堂島の中津藩倉屋敷に寝込んでいた諭吉を看病するため、1週間以上毎日通い、実の子のように面倒を見た。そうしたこともあって、諭吉は生涯、緒方夫妻を実の親のように仕えることになる。
親として
八重は結婚2年後の19歳から37歳に至る18年間に7男6女をもうけた。うち4人が夭折し、9人を実家の母に助けられながら成人させた。
文久2年(1862)、洪庵は奧医師となり江戸へ赴き、翌年3月には八重も6人の子供を連れて江戸に移った。ところが3カ月後の6月に夫洪庵が急逝。6年後に大坂に帰るまで、慣れぬ土地で江戸屋敷新造(洪庵の死後2週間後竣工)のための借財がかさみ、経済的にも最大のピンチを経験した。また当時、外国は未知の世界で、誰もが渡航や留学を逡巡する空気が強かったなか、八重は夫を亡くしているにもかかわらず、慶応元年(1865)三男四郎をロシアに、同2年、甥の一郎をイギリスへ、同3年(大政奉還の年)に次男洪哉(惟準、明治5年改名)をオランダに、五男十郎をフランスに留学させている。
晩年
八重の晩年は幸福そのものだった。明治元年(1868)47歳のとき、大坂に帰り、養子拙斎が開業していた元の適塾の家にいったん落ち着いた。同8年(1875)から真南の除痘館跡地に隠宅を構え、自分の愛児や適塾出身者たちが大きく世に出て活躍する姿を眺めながら余生を送り、同19(1886)2月7日65歳で永眠した。墓は大阪の龍海寺にあり、墓碑銘は夫人の遺言により日本赤十字社の創立者佐野常民が書いた。
フィールドノート
展覧会「蘭学をめぐる女性たち」
―洪庵夫人・緒方八重没後100年を記念して―
昭和61年(1986)、適塾記念会は八重の遺徳を偲び、適塾において大阪大学と共催で特別展を開催した。来場者は1730人にのぼった。五姓田義松画伯の油絵肖像画が特別展示された。同展では八重に加えて詩人・画家として才媛の誉れ高かった江馬細香(蘭学者江馬蘭斎の娘)、日本初の女性の蘭方産科医楠本イネ(シーボルトの娘)も取り上げられた。ちなみに、イネは適塾の塾頭を務めた大村益次郎の想い人だった(司馬遼太郎『花神』より)。
八重の父・億川百記
八重の祖父母(億川百記の両親)が誰であるかは分かっていない。億川家は名塩の紙漉職であったが、直接紙は漉かず、出荷販売を担当する紙売子であった。八重の父・百記は、医業に加えて薬の製造、販売元にもなり成功した。和歌にも長じ、愛児八重は勿論、洪庵にも和歌を指導したようである。
八重と適塾
平成26年(2014)、重要文化財「適塾」の耐震改修工事が完了した。その軒先に「史跡緒方洪庵舊宅及塾」の碑がある。八重は、文久3年(1863)に江戸の洪庵の元へ行くまでの20年間と晩年の7年間をここで暮らした。敷地142坪、建坪90坪の2階建で、修復前の図面によると、1階に書斎6畳と4畳半の家族部屋2室に4畳半の納戸があり私的な居住区となっている。他には教室兼診察室、応接間、客座敷、台所、食堂、蔵がある。2階は塾生大部屋、女中部屋、ヅーフ辞書(オランダ商館長ヅーフが著した蘭和辞書)閲覧室、教室である。
大坂除痘館(後八重夫人の隠居所・現緒方ビル)
嘉永2年(1849)、薬種商・大和屋喜兵衛他の協力のもとに古手町(現道修町4丁目)に除痘館を開設し、同年11月に「伝苗式(8人の子供に牛痘を接種)」を行った。万延元年(1860)、尼崎町1丁目(現今橋3丁目)に移転拡張した。八重は、この跡地に約11年間、明治19年(1986)に亡くなるまで過ごした。後年、同敷地は産科婦人科「緒方病院」となり、さらに、今日の緒方ビル・クリニックセンターとなった。)
八重生誕地、旧億川家屋敷跡(兵庫六甲農協名塩支店)
現状は農協のコンクリートのビルであるが、郷土資料展示室に元の億川家屋敷の写真と平面図が展示されている。和室が8室あり合計45畳ある、また土蔵が2か所、納屋を含む豪邸である。
八重が縁を取り持った伊藤愼蔵
名塩で蘭学塾を開いた伊藤愼蔵は、長門(山口県)萩の生まれで、適塾の塾頭を務めた秀才である。村田蔵六(大村益次郎)とは無二の親友であった。
愼蔵と名塩のつながりは、八重が、愼蔵に妻(鹿子・名塩生まれ)を世話したことに始まる。愼蔵は病弱な妻の療養のため夫婦で名塩へ移り住んだのを機に、村人たちの強い要請を受けて「伊藤塾」を開いた(1862~1869)。授業は億川家の一室で行われ、近在はもとより遠くは豊後や美濃出身の塾生もいた。幕末の時期、一寒村に過ぎなかった名塩に、開明的な私塾が存在し、官僚や実業家、医師、宗教家などの逸材を輩出したたことは特筆に値する。
名塩蘭学塾
「名塩蘭学塾」は伊藤慎蔵が文久2年(1862)に「伊藤塾」として開設したものである。始まりは八重の生家である億川家の一室からであったが、塾の名声を聞いて近在から多くの若者が集まり、一室では収容しきれないほどの盛況ぶりであったという。塾(億川家)のあった場所には現在「JA兵庫六甲名塩支店」の建物が建ち、玄関の左側に八重夫人の胸像が置かれ、その歴史を今に伝えている。
こうした史実をもとに、阪急バス「名塩東口」から「名塩」に至る約600mほどの旧道が「蘭学通り」と名付けられた。
2019年2月
江並一嘉
≪参考文献≫
・図録『蘭学をめぐる女性たち―洪庵夫人緒方八重没後100年を記念して―』
・長濃丈夫『緒方洪庵・福澤諭吉と名塩の地―緒方八重夫人を通じて』西宮市名塩自治会
・財団法人名塩会編著『名塩史』
・西岡まさ子『緒方洪庵の妻』河出書房新社「緒方家の人々とその周辺 緒方惟準伝」中山沃(思文閣出版)
・西岡まさ子『大阪の女たち』(松籟社)
・梅渓昇『緒方八重―幕末維新の激動期を生きた―女性―』(女性史総合研究会年報)
・小西義麿『緒方洪庵夫人・八重の生涯と大坂の除痘館 ―特に八重の終焉の地をめぐって―』
・小西義麿『適塾29』(1996)
・福澤諭吉『福翁自伝』(岩波文庫)
≪施設情報≫
○ 八重生誕地、億川家屋敷跡(兵庫六甲農協名塩支店)
兵庫県西宮市名塩1–25–10
アクセス:JR宝塚線「西宮名塩駅」より阪急バス「名塩バス停」前
○ 名塩蘭学通り
(前記・兵庫六甲農協名塩支店周辺)
○ 適塾
大阪市中央区北浜3–3–8
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分
○ 緒方ビル・クリニックセンター
大阪市中央区今橋3–2–17
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分