第49話
千利休が師と仰ぐわび茶の祖
千利休の茶の湯の師匠で「わび茶」の中興の祖とされる武野紹鷗は、文亀2年(1502)堺の豪商・武田信久の長男として生まれる。通称「新五郎」という。父・信久は諸国を流浪したのち堺に移り住み、武具甲冑の製作販売の「皮屋」を興し、阿波から進出してきた三好軍の政商として軍事物資の調達で財を成して、琉球交易にも進出。堺の会合衆(えごうしゅう)の代表的存在となる。信久は、24歳になった新五郎に「皮屋」の跡取りとしての最高の教養を身に付けさせるため、京に遊学させる。京に上った新五郎は和歌の第一人者の公家・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に師事し、和歌の古典を学び藤原定家の「詠歌大概之序」を伝授され、官位「従五位下因幡守」も授かった。当時、京の公家たちは荘園からの年貢も滞り経済的に困窮し、裕福な商人に和歌や連歌などを教えるなどして糊口(ここう)を凌いでいたという。新五郎の父・信久も、今でいう多額の授業料を献上していたと記録に残る。新五郎はこの後、悟ることがあり村田珠光の高弟・藤田宗理に師事して茶の湯で生きる決意をし、官位を捨て大徳寺で剃髪。「種まきて 同じ武田の末なれど 荒れてぞ今は 野となりにける」と詠んで、武野紹鷗と改名した。京の四条戎堂近くに屋敷「大黒庵」を構え茶の湯一途の生活をおくる。
「実隆公記」によれば、紹鷗が享禄4年(1531)に山科本願寺の戦いに従軍した記録や、天文2年(1533)に本願寺の命で越後に行った記録があるが、これは武具商「皮屋」の跡取りとして武具の売り込みに行ったのではと思われる。紹鷗の京での行動は不明なところも多いが、和歌と茶の湯を融合させ「枯れかじけ寒かれ」という理念で独特の「わび茶」の世界を創りだした。また、紹鷗は父から譲られた財力で唐物の天目茶碗の名品や、雪舟、一休の墨書を買い集め、目利きとしての鑑識力と茶の湯の宗匠としての地位を確かなものとした。
天文8年(1539)、紹鷗は父・信久が病没したため堺に戻り、南庄舳松(みなみのしょうへのまつ:現在の東駕籠屋町から大仙公園にかけて)に大徳寺の禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)を招き、小さな坊院・南宗庵を開き茶の湯に禅の精神を取り入れた「茶禅一味」のわび茶を深めていく。紹鷗は4畳半の茶室に白木の釣瓶を水指に見立てたり、竹を削って自ら茶杓を作ったり清楚な美しさを茶の湯に取り入れ、茶の湯の形を大きく変えていった。こうしたことが千利休に伝えられ、茶の湯は大成されることとなる。弟子には利休をはじめ娘婿の今井宗久、津田宗及などの堺の豪商や、荒木村重、細川幽斎、松永久秀などの戦国武将たちも数多い。天文18年〔1549〕、紹鷗49歳のときに待望の長男為久(後の宗瓦:そうが)が誕生。歓喜した紹鷗は、その後、「勝間霊水」と呼ばれる良質の水が湧き出る住吉大社の北勝間新家に茶室(紹鷗杜茶室)を設けて移り住むが、弘治元年(1555)に53歳で急死した。墓は臨江寺に、供養塔は南宗寺にある。
フィールドノート
堺の茶の湯を発展させた商人たち
阪堺電車・御陵前駅から環濠沿いの道を5分ほど歩いた南旅籠町東の一角に、南宗寺がある。ここには堺観光ボランティアガイドの人が常駐し、境内を親切に案内してくれる。武野紹鷗や千利休、津田宗及などの茶人たちの供養塔や国指定の古田織部好みの「枯山水の庭」、それに茶室「実相庵」、紹鷗遺愛の「六地蔵石灯籠」などがあり、当時の堺が文化の中心だったことを偲ばせる寺院だ。
天文8年(1539)、堺に戻った紹鷗は、京で学んだ和歌と禅と茶の湯が融合した「わび茶」を深めていく。紹鷗はこの頃、『紹鴎門弟への法度』や『紹鴎茶湯百首』を書き残した。現在、これらについては多くの研究書が出版されている。
南宗寺から10分ほど東に歩くと、大仙公園内の堺市博物館に到着。正門前の茶室「黄梅庵」前には、武野紹鷗の座像が周囲を見下ろすようにある。そして通路を挟んで左側に、千利休の座像が向き合うように建っている。師匠と弟子だ。利休も師匠の前では畏まって見える。若年の利休にとって、紹鷗は雲の上の人だったかもしれない。このあと、平成27年(2015)にオープンした「さかい利昌の杜」に隣接した千利休屋敷跡に立ち寄り、地図を片手に東へ5分ほど歩くと、堺市堺区中之町東2丁目の駐車場の片隅に武野紹鷗の屋敷跡の石碑がある。
紹鷗が亡くなったとき、長男の為久は6歳と幼少であっため、紹鷗の財産は義兄の今井宗久が管理することになる。天王寺屋の津田宗及など、紹鷗の弟子たちが為久の成長を大事に見守っていることが資料で窺える。
永禄9年(1566)、宗瓦がまだ17歳の時、津田宗及が朝の茶会に宗瓦一人を招いた記録が『宗及自会記』に残っている。しかし成人した宗瓦は、父紹鷗が遺した茶器の名品を巡って今井宗久と争う事になる。信長の裁定は厳しく、紹鷗が遺した名品は没収され茶の湯の世界から追放となった。これについては、宗瓦が石山本願寺の坊官・冨島重英の娘と結婚したことを信長に疎まれたからだという説がある。その後、豊臣秀吉にも仕えるが、うまくやっていくことができず家康のとりなしで秀頼のお伽衆として仕えたが、天正16年(1588)に再び追放され、不遇な人生を送ることになる。慶長19年(1614)65歳で寂しい生涯を終えた。
わび茶の始祖・武野紹鷗
阪堺電車・宿院駅から、紹鷗が晩年隠棲した天神の森へ向かう。大小路、大和川、住吉鳥居前、東粉浜と続く線路は昔の紀州街道、住吉街道を通る歴史街道だ。今船とか東粉浜とか海岸沿いの街道を思わせる駅名が続く。我孫子道駅で乗換えて30分で天神ノ森駅に着く。駅の踏み切りを渡ると、樹齢600年を超える楠木の鎮守の森に囲まれた「天神森天満宮」だ。正面の鳥居の横に「紹鷗森 天満宮」の大きな石碑が建っている。
紹鷗が当地への隠棲を決意した天文18年(1549)頃は、戦乱の影が堺の町にも押し寄せていた。三好長慶の江口の戦い、尾張の信長の家臣佐久間信盛からの茶会の誘いなど、会合衆の代表としての紹鷗の周囲は慌しさが増していく。紹鷗は全ての雑事から離れたいと考えたのであろう。住吉大社の権禰宜・小出英詞さんは、「若い頃、京に上り三条西実隆に和歌を学んだ紹鷗にとって、和歌の神様・住吉大社は心のよりどころ。京への行き帰りには、住吉大社に参拝をしていたでしょう。堺の喧騒から離れてこの地に隠棲し、静かにわび茶を極め、古今和歌集の『我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ』と、海に落ちる夕日を眺めていたのでは・・・」という。私財をなげうって道路の整備を行うなど、紹鷗は村人たちの尊敬を集め、いつしかここが「紹鷗の森天満宮」と呼ばれるようになったという。
また、境内の「子安石」は古くから安産の神として人々に信仰され、「子安天満宮」と呼ばれ親しまれている。秀吉は淀殿が懐妊した時、ここに寄り道して安産を祈願、無事秀頼を出産したため社領を与え、淀殿もお礼参りをしたという言伝えが残る。天下を取った秀吉は堺に行く途中に森の西側の茶屋で休息し、利休がこの地の霊水で茶を点てたので「天下茶屋天満宮」と呼ばれるようにもなった。小出さんは、「天下一の茶の宗匠に出世した利休は、この地に隠棲しわび茶を極めた師匠・紹鷗に想いをはせ、お点前をしたのでは」という。
紹鷗の最後の茶会の記録が『今井宗久茶湯日記抜書』に残っている。天文24年(1555)10月2日、客は今井宗久、山上宗二の二人。床には名物を置かず、月を描いた定家の色紙を掛け、小霰釜(しょうあられかま)を細鎖でつるし、紫銅無紋の槌の花入れを四方盆に置きこれに水仙を生けた。志野茶碗でお茶をいただき、茶入れは円座肩衝、水指は和物の芋頭、同じく備前の水翻(めんつう)を使用とある。おそらく、紹鷗の森の茶室と思われる。
4畳半考
私たち日本人にとって4畳半は部屋の広さの基本である。最初に与えられた子供部屋は4畳半だった。学生時代の下宿も4畳半だった。テレビもパソコンもない時代、快適な空間であった。4畳半が初めて現れるのは室町時代といわれる。銀閣寺にある東求堂同仁斎の書斎が4畳半草庵風茶屋の源流とされている。紹鷗の師匠・村田珠光は18畳の部屋を4分して4畳半の茶屋を造ったと伝えられる。紹鷗は4畳半の茶室に簡素で清楚にしてさびの美を確立した。
堺の茶人は市中の山居といい、忙しく生活を営む中に静かに落ち着いて交友できる環境を茶室に求めた。茶の湯では4畳半以上を寂敷と言い、4畳半未満の小間を侘敷と言う。紹鷗が考えた4畳半の広さは、窮屈でもなく豪華に飾りたてる必要もなく丁度いい広さ。この微妙な広さが日本人の心をつかんだ。「一座建立」の思想、人と人の距離感、声の届き具合、床の掛け軸や生け花、棚の茶道具の名品などを観賞するには、最適の広さであった。
2017年6月
(2017年11月改訂)
橋山英二
≪参考文献≫
・武野宗延『利休の師武野紹鷗』武野紹鷗研究所
・戸田勝久『武野紹鷗研究』中央公論美術出版
・中村修也『戦国茶の湯倶楽部』大修館書店
≪施設情報≫
○ 堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁(大仙公園内)
アクセス:JR阪和線「百舌鳥駅」より徒歩約3分
○ 南宗寺
堺市堺区南旅篭町東3-1-2
アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約5分
○ 臨江寺
堺市堺区南半町2-1-3
アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約2分
○ 武野紹鷗屋敷跡
堺市堺区中之町東2丁
アクセス:阪堺電車「宿院駅」より徒歩約2分
○ 天神ノ森天満宮〔紹鷗の森天満宮〕
大阪市西成区岸里東2-3-19
アクセス:阪堺電車「天神ノ森駅」より徒歩約1分
○ 京都武野紹鷗屋敷跡〔大黒庵跡〕
京都市中京区室町通四条上る東側
アクセス:地下鉄「烏丸駅」より徒歩約10分