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第39話 道鏡どうきょう(700?-772年)

奈良仏教の風雲児・道鏡

道鏡はいつ生まれ、両親は誰かなど、前半生はほとんど分からない。確かなのは『続日本紀』に「俗姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内の人なり」とあり、生地が現在の八尾市付近ということだけだ。道鏡が平城京に上ったのは聖武天皇(701-756)のころだ。鎮護国家により東大寺で盧舎那仏の造立が始まろうとしていた。東大寺の写経所には唐から帰国した玄昉(?-746)が持ち帰った5千余巻の経典がそろうなど仏教の最新情報があふれていた。

道鏡は仏門に入り、東大寺初代別当の良弁(689-773)や玄昉の師でもある義淵(?-728)に学んだ。また、義淵に倣って葛城山などで、如意輪法・求聞持法など密教的な修法の習得に励んだ。道鏡は梵語(サンスクリット)を理解し、呪術的な文献や経典、教学に通じ、病気を治したり、干害や洪水などの天変地異に対応する能力を身につけるようになったという。

天平宝字5年(761)のこと、史上6人目の女帝で上皇となっていた孝謙上皇(718-770)と運命的な出会いをする。孝謙はこの年、淳仁天皇(733-765)と行幸した保良宮(大津市が有力)で、体調を崩した。看病禅師として学識、呪験力で知られるようになった道鏡が呼ばれ、治療にあたった。元気になった孝謙が道鏡を寵幸するようになったため、孝謙と二人の関係を咎める淳仁が対立するようになる。

天平宝字6年(762)5月、孝謙は平城京に戻って出家した。淳仁天皇が藤原仲麻呂(706-764)の言いなりになっているとして「小事は今の帝が行い給へ。国家の大事賞罰二つの柄は朕行はむ」と宣命を発し、表舞台への復権を宣言する。天平宝字7年(763)9月には道鏡を内裏の仏事を取り仕切る少僧都に引き上げ、仲麻呂によって長年中央政界から追放されていた吉備真備を造東大寺司長官に任命、政治の中心となっていた仲麻呂から実権奪取をはかった。

こうした事態に仲麻呂は天平宝字8年(764)9月、孝謙排斥のクーデターを起こした。孝謙側は機先を制して淳仁天皇を捕らえ、逃げた仲麻呂を近江まで追討して誅殺した。反乱を鎮圧すると、孝謙は道鏡を「大臣禅師」に引き立て、淳仁天皇を廃し、自身は称徳天皇として重祚した。天平神護2年(766)10月には道鏡を「法王」に任命し、仏教を第一として日本の神々は仏教を守護する神とする神仏習合政治を進めた。

神護景雲3年(769)、称徳と道鏡の「共治体制」が頂点に達したころ、宇佐八幡神託事件が起きる。宇佐八幡から「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば天下太平ならむ」という神託が朝廷に伝わる。称徳は宇佐八幡宮に確認のために和気清麻呂を派遣した。ところが、清麻呂は「天の日嗣は必ず皇緒に続く」との託宣を持ち帰った。道鏡は激怒し、清麻呂を大隅国に配流したというものだ。この事件から10カ月余、称徳は宝亀元年(770)8月4日、53歳で亡くなった。称徳の後任に光仁天皇が決まると、道鏡は下野薬師寺別当に左遷され、1年8カ月後の宝亀3年(772)4月、下野国で没した。


怪僧、妖僧、悪僧・・・どこまで本当?

道鏡は戦前、平将門、足利尊氏とともに日本三悪人に数えられた。道鏡と称徳は平安朝からスキャンダルの的となった。道鏡の巨根説、称徳の広陰説、「道鏡は座るとひざが三つでき」という川柳まで残る。明治以降は小学校用教科書に和気清麻呂と頻繁に登場するようになり、「国体護持」「万世一系」の皇国史観から道鏡は天皇の座を狙った悪僧、清麻呂はそれを阻止した忠臣の代表となった。

宇佐八幡神託事件は、称徳主体説、道鏡主体説、道鏡・称徳共謀に整理できる。戦後、古代史家・北山茂夫は「女帝こそが一介の名もない看病禅師をひきたてて、ついには、法王の地位をあたえた」「スキャンダル視したのは、古代の宮廷人であり、また多くは、後世の儒教的な立場に立つ御用学者たちであった」(『女帝と道鏡』)と称徳主体説を唱えた。

これに対し、関西学院大学の中西康裕教授(古代日本史)は『続日本紀』に出てくる宣命と地の文の詳細な検証を進め、「称徳には道鏡を皇位に就けようという意思は毛頭なかった」(『続日本紀と奈良朝の政変』)とし、道鏡事件は『続日本紀』の編者の創出とする。皇統は天武(?-686)から8代7人、天武系が続いたが、称徳亡き後、天智天皇(626-671)の孫の光仁(709-782)、その子の桓武(737-806)と天智系に変わった。『続日本紀』は桓武治世下で編纂されており、道鏡事件を「『前王朝』の失態」として描いたと問題提起している。

さらに東京女子大学の勝浦令子教授(古代日本史)は評伝『孝謙・称徳天皇』で、称徳を革新的な女性天皇として描いた。称徳は歴史上ただ一人の女性皇太子。従来言われるような「中継ぎ」ではなかったとする。一部で奴婢を解放したり、位階、勲等は男女比6対4の比率で授与し、いまの知事にあたる国造にも女性を任命するなど画期的な施策を進めた。「『天』が授ける者であれば皇統以外でも可能とする」「歴史上でも類いまれな、万世一系を否定する王権像」を持っていたとする。そして道鏡事件は後世の為政者が「女性天皇をスキャンダルまみれに伝える」のが狙いで、「男女の関係におぼれた愚かな悪女という図式」を描いて女性天皇の出現阻止に使われたと書いている。

いずれにしても道鏡が皇位簒奪(さんだつ)を本当にはかったとすれば、称徳没後の道鏡への処分は奈良時代のほかの事件と比べて余りにも軽すぎるといえそうだ。



フィールドノート


1250年前の七重塔、八尾で衝撃の発見




平成28年(2016)9月15日、八尾市文化財調査研究会が東弓削遺跡から平城京の興福寺と同じ文様の屋根瓦が出土したと発表した。翌年2月に一辺約20mの基壇が見つかり、称徳天皇と道鏡が建立した由義寺の塔跡と分かった。高さ約60mの七重塔が建っていたとみられ、奈良時代では東大寺東塔、大安寺東塔に次ぐ規模。同年8月には塔跡の北東500mで、建物跡や人工的な河川跡が見つかった。

「西京」の由義宮は道鏡の故郷、河内国弓削(八尾市)にあったと『続日本紀』に記載されている。しかし、ほかに「西京」の記録は残っていないため、長年「幻の宮」とされ、その存在さえ疑う学者もいた。今回の遺跡の出現は「幻の宮」が1250年の眠りから覚めたと言え、古代史を塗り替える大発見となった。

現地説明会に毎回2千人ほどの古代史ファンが詰めかけた。八尾市立歴史民俗資料館が平成29年(2017)度に開いた歴史講座「奈良時代を学ぼう!なぜ由義寺が建てられたのか」には6回で727人が集まった。平成30年(2018)3月に八尾ライオンズクラブが開いた歴史イベントは先着350人がすぐに一杯になった。

『続日本紀』によると、称徳天皇は神護景雲3年(769)10月30日に造営を進めてきた由義宮を「西京」とする詔を発した。翌年の2月27日からは由義宮に1カ月余も滞在した。曲水の宴など華やかな宮廷行事が続き、3月28日には雅な歌垣(パーティー)が催された。

河内に本拠を持つ帰化人系の雄族6氏から男女230人が選ばれ、青摺細布衣(あおずりのたえのころも)を着て紅の長紐を垂れ、男女が互いに並んで列になって徐々に進んで歌う。

「少女(おとめ)らに 男立ち添ひ 踏み乎(な)らす 西の都は 万世(よろずよ)の宮」

「淵(ふち)も瀬も 清く莢(さや)けし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも」

称徳と道鏡は大官や僧侶が後ろに控える特別席で一緒に歌垣を楽しんだ。女帝は五位以上の官人、内舎人(うどねり)、女孺(めのわらわ)にも歌垣の列に入るように命じ、歓楽は頂点に達した。4月6日に二人は平城宮に戻ったが、称徳が体調を崩し、8月4日に崩御し、西京の造営は中止になった。


東大寺の大仏造立のきっかけ、河内の智識寺

柏原市太平寺地区に樹齢800年といわれるクスの大木に覆われた「石(いわ)神社」がある。境内に智識寺の刹柱礎石が残っている。智識寺の創建は7世紀中ごろから後半と見られ、伽藍配置は東西二つの塔を持つ薬師寺式、塔と塔の間は約50mもあった。礎石の柱穴は直径122cmもあり、京都・東寺の五重塔並みの約50mの塔が立ち、本殿には18mほどの金銅か塑像の大仏が安置されていたという。

聖武天皇は天平12年(740)に難波宮に行幸した際、智識寺の盧舎那仏を見て、東大寺の大仏建立を思い立ったといわれる。孝謙天皇も即位直後の天平勝宝元年(749)に柏原に滞在して智識寺に行幸するなど数度にわたり行幸や寄進をしている。

生駒山地南麓の斜面には智識寺のほか、三宅寺、大里寺、山下寺、家原寺、鳥坂寺の六大寺が甍(いらか)を連ね、奈良への入り口として繁栄していた。道鏡が生まれ育った弓削と智識寺は3.5㎞ほど、歩いても1時間もかからない。道鏡は東の山麓に輝く仏教寺院を仰ぎ見ながら育った。


30年、八尾と栃木で道鏡復権に奮闘

八尾では、地元のエッセイスト・故山野としえさんが昭和50年(1975)に郷土誌『河内どんこう』で道鏡を取り上げ、昭和56年(1981)4月から10回にわたり道鏡を主人公にした小説『真実不虚(しんじつふこ)』を発表した。「道鏡は悪僧ではなかった」という山野さんを中心に「道鏡を知る会」(幾島一恵会長)が生まれた。

同会は昭和61年(1986)4月に八尾市内で「道鏡展」を開催、平成5年(1993)9月には栃木県下野市の「道鏡を守る会」(日野原正会長)と東京で「弓削道鏡資料展」を開いた。「道鏡を知る会」の例会は道鏡ゆかりの地を訪ね歩くなど100回を超えている。また、平成28年(2016)3月に称徳天皇と道鏡が建立した西大寺で道鏡の位牌をつくり、「1245年遠忌御位牌開眼永代法要」を開いた。幾島さんは「位牌を作った年に幻と言われた由義宮の遺物が出てきた。願いが通じたのか、ほんとうにうれしい」と話す。

一方、「道鏡を守る会」は昭和60年(1985)から「道鏡塚」のある龍興寺を中心に活動を展開し、道鏡の命日の4月7日には毎年「道鏡禅師供養祭」を開いている。発起人の本田義幾さんは「道鏡が本当に悪人かどうか、全国の弓削を回った。調べれば調べるほど貶められてきたことが分かる」と話している。

平成30年(2018)2月、「由義寺跡」が国史跡に指定された。大脇潔元近畿大学教授(考古学)は「道鏡の世評はあんまり芳しくないが、並みいる僧侶の中では傑出した才能を持っていた。出身地に残した記念碑ともいうべき塔跡が見つかったのを機に冷静に彼の業績を再評価し、名誉回復をはかることが必要だ」と話した。


2016年10月
(2019年4月改訂)

宇澤俊記



≪参考文献≫
 ・北山茂夫『女帝と道鏡-天平末葉の政治と文化』(講談社学術文庫 2008.5)
 ・横田健一『日本歴史学会人物叢書 道鏡』(吉川弘文館 1988.12)
 ・勝浦令子『孝謙・称徳天皇-出家しても政を行ふに豈障らず』(ミネルヴァ書房 2014.10)
 ・中西康裕『続日本紀と奈良朝の政変』(吉川弘文館 2002.7)
 ・滝浪貞子『道鏡-成しえなかった仏教第一主義の思想』
           (歴史読本編集部編「敗者で読み解く古代史の謎」 2014.12)
 ・根本誠二『天平期の僧侶と天皇-僧道鏡試論』(岩田書院 2003.10)
 ・坂上康俊『平城京の時代』(岩波新書 2011.5)
 ・柏原市立歴史資料館編「河内六寺の輝き」(柏原市立歴史資料館 2007.7)
 ・河内どんこう26号「特集 弓削道鏡の人物像をさぐる」(やお文化協会 1988.5)



≪施設情報≫
○ 史跡由義寺跡(東弓削遺跡)
   大阪府八尾市東弓削3丁目
   アクセス:JR大和路線「志紀駅」より東へ徒歩約10分

○ 弓削神社(弓削)
   大阪府八尾市弓削町1丁目36
   アクセス:JR大和路線「志紀駅」より西へ徒歩約4分

○ 弓削神社(東弓削)
   大阪府八尾市東弓削1丁目166
   アクセス:JR大和路線「志紀駅」より北東へ徒歩約5分

○ 由義神社
   大阪府八尾市八尾木北5丁目174
   アクセス:近鉄大阪線「高安駅」より徒歩約20分、近鉄バス「八尾木」より徒歩約5分

○ 石(いわ)神社
   大阪府柏原市太平寺2丁目19–13
   アクセス:近鉄大阪線「安堂駅」より東へ徒歩約7分
   ※ 大阪府指定天然記念物「クス」(高さ約26m、幹の周り約6.5m、樹齢約800年)
   ※ 大阪府指定文化財「知識寺東塔刹柱礎石」(近くの民家から出土。花崗岩製で柱穴は直径122cm、礎石から塔の高さは48.8mの五重塔と推定される)

○ 智識寺址
   大阪府柏原市太平寺2丁目9
   アクセス:近鉄大阪線「安堂駅」より北東へ徒歩約8分 カタシモワインフード前

○ 称徳天皇陵(高野陵)
   奈良市山陵町御陵前
   アクセス:近鉄奈良線「大和西大寺駅」より北東へ徒歩約10分

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