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第47話 淀殿よどどの[(1567(1569年説もあり)–1615年)]

豊臣に忠誠を尽くし、城を枕に最期をとげたおんな城主

戦国時代の女性で、「茶々・淀殿」という名ほど知名度の高い女性はいないだろう。生まれながらの美貌は父浅井長政、母お市の方から受け継いだ。ただ、骨格が父親ゆずりとすれば、大柄で豊満な体格だったかもしれない。

茶々は、戦国動乱さなかの永禄10年(1567・永禄12年説もある)、浅井長政の居城である小谷の城で生まれた。とはいえ城の中までは戦乱の響きはとどかず、恐らく蝶よ花よと育てられたことだろう。しかし、それも長くは続かなかった。父長政は、伯父(母の兄)である織田信長との戦に敗れて自刃。お市の方は、茶々ら娘3人とともに木下藤吉郎(羽柴秀吉)の手で助け出されたが、元亀4年(1573)、長男の万福丸は信長の命により秀吉軍に捕らえられ処刑された。

その後、信長が本能寺で最期を遂げると、母お市の方は柴田勝家に嫁し、茶々ともども福井の北の庄に移り住む。しかし天正11年(1583)、勝家と秀吉の争いで北の庄の城が落城し、勝家が切腹するとお市の方も殉じた。7歳で生家の小谷城が落城し、兄万福丸が殺され、17歳のとき北の庄城も落城し、母を失った茶々の心は、数々の苛烈な経験で深く傷つけられたに違いない。かくして茶々たち娘は再び秀吉のもとに落ち延び、茶々が20歳を過ぎた頃、秀吉の手が伸びてくる。

秀吉の愛妾となった茶々はほどなく身ごもり、出産のため淀にある古い城が改修され、そこで天正17年(1589)5月に鶴松を出産。世継ぎの誕生に歓喜した秀吉は、茶々を正妻同様に扱い、茶々が「淀殿」と呼ばれるようになったのはこのためである。とはいえ淀城に住んだのは1年にも満たず、秀吉は「鶴松の城が要る」とばかりに、淀殿と鶴松は大坂城に移ることになった。

大坂城に移ってからの淀殿の地位については、太田牛一『大かうさまぐんきのうち』の「慶長3年(1598)3月15日の醍醐の花見の条」に、「一番まん所さま(寧々)、二番にしの丸さま(淀殿)、三番まつの丸さま(京極)、四番三の丸さま(織田)、五番かがさま(前田)、六番大なごん殿御内さま」と、奥の順序が記されている。

こうして大坂城に移った鶴松であったが、わずか3歳で急逝してしまう。翌年、秀吉の言動に妄想がまじり、唐入りなどの法外な行動をおこし、大名たちを戸惑わせた。一方、淀にとって幸いだったのは、第2子・拾(後の秀頼)を授かったことである。世継ぎの誕生を半ばあきらめていた秀吉は天にも昇る気持ちであったろう。こうして淀の地位は盤石となり、名実ともに大坂城のおんな城主となった。

文禄4年(1595)、淀殿の妹江(23歳)が徳川家康の嗣子秀忠(17歳)と再婚。慶長8年(1603)秀吉の遺言によって、二人の間に生まれた千姫(7歳)と淀殿の息子秀頼(11歳)は夫婦になる。秀吉の遠謀深慮によって両家の絆は深まるかに思えたが、政治的思惑のなりゆきで元に戻ることはなかった。


フィールドノート

「淀殿」の名の由来 〜 旧淀城趾

現在は河川改修や水路の変更でかつての面影はないが、京阪電車の「淀」駅の付近に、時をたがえて、「淀城」と呼ばれるものは三つあった。この一帯は、江戸時代以前には桂川、宇治川、木津川の三川が合流する淀の津で、戦略的に水陸の要衝の地であった。

1代目の最初の旧淀城は、永正元年(1504)、摂津国の守護代であった薬師寺元一(別名:与一)が旧主であった管領(かんれい)細川氏に抵抗して立て籠もった城で、その後、明智光秀のものとなるが、山崎の合戦後豊臣秀吉が治めた。天正17年(1589)、茶々の懐妊を機に1代目の城を改修し、指月伏見城から移り住み鶴松を出産したのが2代目の城である。茶々が淀殿と呼ばれるのもこの城の名が由来だ。

現在淀駅南西にある3代目の淀城跡は、江戸時代初期の元和9年(1623)に、德川2代将軍秀忠の命によって建てられたもので、当時の掘や石垣がほとんどそのまま残り、公園として市民の憩いの場になっている。残念ながら先の二つの旧城は取り壊され、住宅地に変わり、妙教寺に旧淀城跡の碑があるのみで、その姿を示すものは殆ど残っていない。


 信心深い淀殿が思い入れ 〜 東光院萩の寺

「実は、今日こちらに来る前、地下鉄中津駅西方向のコンビニエンスストアの前にある『元 萩之橋』という標石柱を見てきたのです。あそこが、城から外に出ることの少なかった淀殿が萩の花を愛でるのを唯一の楽しみにしていた東光院萩の寺のあった所だったのですね」

筆者の問いかけで、村山博雅副住職との会話が始まった。「そうなんです、このお寺は摂津の国西成郡豊崎村下三番にあったのです。今は都会のビル街ですが、昔は淀川の浜でした」。阪急電鉄の豊中開発に合わせ、ともに協力した住職は、現在の豊中市の曽根駅近くにあった別院に寺を移転させた。多くの信者も新しい住宅地を求め、転居してきたという。前の場所も「萩の寺」として知られていたように、現在も境内に多くの萩が群生している。

奈良時代、東大寺の大仏を造った僧行基が各地を行脚して民衆に布教していた頃、この辺りには支流がたくさんあり、きれいな浜がいくつもあった。当時は庶民が亡くなると、弔いの場所として指定された浜の墓に置かれたような状態だった。たまたま、きれいな川の景色を見ようと浜にやって来た行基は、「これはえらいことだ。死骸が横たわっている浜の下流で、洗濯も、水浴びもしているではないか」と驚いたという。当時は火葬など考えられない時代で、仏になった人に手を合わせる習慣もなかった。そうしたなか行基は何百何千という単位で火葬を行い、読経をし、花を手向け手を会わせることを民衆に教えた。秋には萩が群れるように咲いていて、行基は自ら彫った薬師如来を祀った。人々は初めて見た仏像に萩の花を供え供養したのが萩の寺薬師堂のはじまりだったという。

「信心深かった淀殿は、こういった話を聴き、自ら法華経を全巻写経していたので、萩の花への思い入れは深く、秋には枯れるその枝を筆にしたといいます。公用以外に大坂城から外へ出ることのなかった淀殿は、大坂城から小舟を連ねて堀と水路を通り、南浜の美しい萩の花を愛でることが唯一の楽しみだったのでしょうね」。

東光院萩の寺で授与品として製作されている「萩の筆」は、淀殿が思いついたことに始まるという。「萩の花は朝採っても、昼にはダメになります。水を吸わないので切り花には向かず、枝を筆の軸にしたのでしょう」、毎年11月下旬、冬越しのため境内の萩を刈り、真っすぐな茎の部分のみ筆にするという。

阪神・淡路大震災(1995年)後、境内の地下水が枯れ萩の株が減ったそうだが、現在は2千株余りに増え、秋になると紅や白の萩の花で境内を埋め尽くす。


 夏の陣で秀頼とともに自刃 〜 大坂城

秀吉が造った難攻不落といわれた大坂城は、元和元年(1615)の夏の陣でその姿を消し、おんな城主ともいわれた淀殿とその子秀頼も城と運命を共にした。

関ヶ原の戦いの後、德川将軍家の世となり、秀吉亡き後の豊臣家の運命(再興)は淀殿の双肩にかかっていた。徳川からの相次ぐ難題も、交渉にあたって淀殿は秀頼のために最強の防衛機能が備わっている城を残すことに主眼を置いていた。

京都方広寺の釣鐘の銘文に端を発した弁明で、徳川へ交渉におもむいた片桐且元が徳川からの強い追及にあって苦しまぎれに口にした言葉について、報告を受けた淀殿は強い怒りをぶつけている。それは、「秀頼の臣従。人質として淀を江戸へ。国替え」という絶対に受け入れられないものであった。淀殿の脳裏には、自分が近江の戦国大名・浅井長政の長女であり、織田信長の姪「茶々」であるという姿が焼き付いていたのだろう。生まれながらの「姫」であり、「戦士」としての資質がそうさせたのか。この件については德川からの要求であったという見方もある。

2度の落城という悲運も体験しているだけに、その後も德川からの難題を柔軟に潜り抜け、避けることのできなかった冬の陣では大軍を擁する徳川方の肝をつぶさんばかりに戦った。戦後の講和会談で徳川方が再び提示したのは、淀殿が人質として江戸へゆくか、大坂城の堀を埋め城郭を壊すという城割だった。

交渉の結果、本丸を残して二ノ丸・惣構えを破壊すること。織田有楽斎と大野治長が息子を人質に出し、秀頼の境遇は現状のままという条件であった。その後、淀殿の妹お初が二ノ丸の破壊は豊臣にまかせて欲しいと直訴すると、家康はあっさりと承知した。が、工事が始まると徳川方も参加し、惣構え堀の埋め立ては3日ほどで完了。二ノ丸堀の工事には1ヶ月を要した。

この話については、外堀と石垣の一部を壊すだけの講和条件だったはずが、いざ工事が始まると天守以外のすべての破壊が始まり、驚いた淀殿の抗議に家康がのらりくらりと返事を延ばしている間にすべての工事が終ってしまい、その原因は現場の奉行の指示ミスとされたというのが従来の見方である。現在は前述の双方の合意のもとに行われたという説が主流のようだ。

いずれにしても淀殿の判断の甘さから裸城にされた大坂城は夏の陣でわずか数日で落城。

淀殿は大坂城北側の山里丸の食糧倉庫で秀頼とともに自刃。遺骸は猛火で焼き尽くされ何一つ見つかっていない。享年47であった。秀吉亡き後の18年間、巨城・大坂城の経営にあたり最後まで明け渡さなかった戦国時代最大のおんな城主であった。

現在の天守閣の北側にある山里丸に「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の石碑がひっそりと建つ。


 今もお参りする人が絶えない 〜 太融寺

淀殿の遺骸は完全に灰になってしまったというが、一説では遺骨は大坂城外の鴫野郷弁天島の淀姫神社に石塔を建て祀られたといわれている。明治10年(1877)、神社の石塔は城東練兵場の造成にあたって太融寺に移祀された。淀殿をお祀りした六輪(元は九輪)の石塔は、境内の北西の塀際に隠れるようにある。しかし、ここに疑問が残る。遺骨も見つかっていないというのになぜ墓があるのか。

「ここに淀殿のお骨があるかないかは問題ではありません。こうしてお墓があり、今もお参りしている人がいるということが大切なのです」。麻生弘道住職はさらに話を続ける。「ここでお墓というのは供養塔なのです。あのときは大勢の人が亡くなっているので誰が誰か分かりません。が、人々は石塔を建てて淀殿をお祀りしてきたのです。移設にあたっては、四天王寺にするか、太融寺にするかの意見があったそうですが、四天王寺は夏の陣での激戦地だった茶臼山の近くなので、淀殿は嫌がるのではないかということで、太融寺になったそうです。太平洋戦争のとき多くの兵士が亡くなっていますが、遺族のもとに帰ってきた骨壺にはお骨は入っていません、紙切れが入っているだけです。それでも、遺族は骨壺をお墓に納め拝んでいます。宗教者にとって、骨があるかないかで、この墓が本物とか偽物とかいうのは別の問題なのです。」と念を押された。

以前は、淀殿を世間一般は「淀君」と呼んでいたが、「君」とは、「辻君」や「江口の君」と同様に遊女を指す。本来は「淀の方」や「淀殿」と呼ぶべきで、太融寺の看板も淀殿に変えたという。「江戸方の秀吉憎し、さらば淀も憎しとし、不美人で悪女のようにいわれていた淀殿はそうじゃありません。母お市と父長政の血を引いているのだから美人に決まっています。それに、苦労人で、才覚も、人望も、度胸も備わっていたのです。だからこそ、あそこまでできたのです」麻生住職のお話には熱がこもっていた。毎年淀殿の命日である5月8日に法要を行っている。淀殿のふる里長浜からバス数台仕立てて、お参りに来るという。

ちなみに淀殿の墓の横には2基の石碑があり、一つは秀吉時代の大坂城を造っていた石垣の石で、もう一つは、淀殿が生まれ育った小谷城の石だという。



2017年8月
(2017年11月改訂)

中田紀子



≪参考文献≫
 ・桑田忠親 人物叢書『淀君』
 ・福田千鶴 『淀殿』
 ・長浜みーな協会 みーなvol.97『特集浅井家をめぐる女性たち』
 ・小和田哲男 『北政所と淀殿』
 ・井上靖 『淀どの日記』
 ・村山廣甫 『萩の寺』
 ・長浜市長浜城歴史博物館 『戦国大名浅井氏と北近江─浅井三代から三姉妹へ─』



≪施設情報≫
○ 小谷城跡
   滋賀県長浜市湖北町伊部
   アクセス:JR北陸本線「河毛駅」からバス9分「小谷城址口」下車

○ 小谷城戦国歴史資料館
   滋賀県長浜市小谷郡上町139 
   電  話:0749-78-2320
   アクセス:JR北陸線「河毛駅」から小谷山線コミュニティバスで
       「歴史資料館前」下車徒歩約5分

○ お市の里 浅井歴史民俗資料館
   滋賀県長浜市大依町528
   電  話:0749-74-0101
   アクセス:JR「長浜駅」よりバスで30分

○ 方広寺・豊国神社
   京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
   電  話:075-561-1720
   アクセス:京阪電車「七条駅」より徒歩約8分

○ 養源院
   京都市東山三十三間堂廻町656
   電  話:075-561-3887
   アクセス:京阪電車「七条駅」より徒歩約7分

○ 太融寺
   大阪市北区太融寺町3-7
   アクセス:JR「大阪駅」より東へ300m

○ 旧淀城跡
   京都府京都市伏見区納所地区
   アクセス:京阪電車「淀駅」より徒歩約10分

○ 妙教寺
   京都市伏見区納所北所北城堀49
   電  話:075-631-2584
   アクセス:京阪電車「淀駅」より徒歩約10分

○ 東光院萩の寺
   大阪府豊中市南桜塚1丁目12番7号
   電  話:06-6852-3002
   アクセス:阪急宝塚線「曽根駅」より徒歩約10分

○ 大阪城
   大阪市中央区大阪城1番1号
   電  話:06-6941-3044
   アクセス:地下鉄「谷町四丁目駅」

○ 玉造稲荷神社(秀頼公胞衣塚大明神)秀頼公銅像
   大阪市中央区玉造2-3-8
   電  話:06-6941-3821
   アクセス:JR大阪環状線「森ノ宮駅」「玉造駅」より徒歩約5分

○ 鴫野神社(祭神淀君姫)生國魂神社境内
   大阪市天王寺区生玉町13-9
   電  話:06-6771-0002
   アクセス:地下鉄「谷町九丁目駅」より徒歩約5分

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