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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第51話 津田宗及つだそうきゅう(生年不詳–1591年)

政争に巻き込まれた堺の豪商

 

千利休や今井宗久と共に、茶の湯の天下三宗匠と称えられた堺の豪商・津田宗及。天王寺屋の3代目として生まれる。生年月日は不明である。

天王寺屋は屋号から、大坂天王寺から初代の津田宗伯の時代に堺に移り住んだと思われる。琉球や九州との交易で財を成し、堺の会合衆(えごうしゅう)の代表的な存在であった。初代宗伯は公家・三条西実隆に連歌を学んでいたことが『実隆公記』に記録されている。祖父・宗伯も父の宗達も宗及も「宗」と道号に付くことから、大徳寺に帰依し号を授けられたと思われる。また、応仁の乱で被災した京都紫野の大徳寺に対し、多額の財政的援助を行ったとの記録が大徳寺所蔵文書に残っている。その3代目として家業を継いだ宗及は、同年代の今井宗久や千利休に比べ恵まれた環境の中で育った。南宗寺の禅僧・大林宗套に参禅し、茶禅一味(ちゃぜんいちみ)を学び「天信」の号を与えられる。阿波の三好氏との関係も深く、度々阿波を訪問するほどであった。

天王寺屋は代々石山本願寺の御用商人であり、石山本願寺の坊官下間氏との茶会の記録も数多く残されている。永禄11年(1568)、上洛した織田信長は堺に対して2万貫の矢銭を要求。即決で応じる新興の武器商人今井宗久に対し、堺の会合衆のリーダーでもあった宗及は三好勢に付くか、信長に付くか迷いに迷ったようすが茶会記に残る。堺の商人たちの茶の湯は単なる楽しみのためのものではなく、政治的な重要な打ち合わせの場でもあった。結局、信長に屈した堺の商人たちは、自治は守るが代官を受け入れることになり、後年、政争に巻き込まれていく。宗及、宗久、利休の3人は、信長の茶頭に取り立てられ信長の政商としての地位を確たるものにする。

武野紹鷗によって大成された茶の湯は、堺の商人たちの経済的繁栄とともに隆盛を極めていく反面、商人たちは巨額な金銭を投じ唐物などの名品を手に入れることに奔走し、侘び茶の真髄は見失われていく。鉄砲バブルに沸く堺の豪商たちの投機の対象は、唐物の茶道具の名品ぐらいしかなかったのかもしれない。日本文化史学者の熊倉功夫氏は『茶の湯の歴史 千利休まで』の中で、「茶道具はさまざまな品物の中で、最も換金性の高い物の一つであろう。その換金性こそが堺の町衆が一番大事にした道具の性格だった」と述べている。潤沢な財力を持つ宗及も唐物の茶器を150点ほど所蔵し、茶の湯のほか和歌、連歌、華道、香道も嗜む数寄者で、刀剣の鑑定にも長けていたといわれている。天正2年(1574)2月、宗及は信長の岐阜城に一人招かれ、秘蔵の紹鷗茄子(茶入)や松島茶壺などの名品を拝見し、三の膳まで御馳走になった。信長がいかに堺の豪商たちの財政支援に期待していたかを示す逸話である。

本能寺の変が起きた日、宗及は徳川家康と堺で茶会を開いていたといわれている。信長の没後、豊臣秀吉の時代にも茶頭として九州征伐に同行するが、茶頭の主役は利休に代わっていく。宗及は北野大茶会を最後に、秀吉の茶頭としての地位を解かれた。利休が死去した1年後、宗及は天正19年(1591)堺の屋敷で亡くなった。後を継いだ嫡男の宗凡には跡取りがなく、天王寺屋本家は断絶した。津田宗及と千利休、共に信長・秀吉の茶頭として仕え、茶の湯を先導してきた二人の茶人。利休は茶聖として名を残し、子孫は幕藩体制に組込まれ茶道の家元として世襲していった。片や、宗及の次男・江月宗玩は大徳寺の156世に出世し、娘の南窓栄薫は宮中医・半井云也(なからいうんや)に嫁ぎその子供・翠巌宗珉(すいがんそうみん)も大徳寺の195世に出世するなど津田宗及のDNAは京都で引き継がれていった。二人が参禅し茶の湯の修業をした南宗寺には、津田一族の墓碑と利休三千家の墓碑が並ぶようにある。


フィールドノート

消えた天王寺屋一族


天王寺屋は大小路〔おおしょうじ(紀州街道)〕南荘(みなみのしょう)の材木町に屋敷を構えていたと記録に残る。堺の町は元和元年(1615)の大坂夏の陣の戦火で徹底的に焼き尽くされ、天王寺屋の屋敷が何処にあったのか正確な場所は解らない。「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり、この町はヴェニス市の如く執政官に依りて治められる」と、宣教師ガスパル・ピレラは『耶蘇会士日本通信』で堺のようすを本国に書き送っている。当時の堺の町のようすを知るには宣教師たちの書簡が役に立つ。

堺の代表的な豪商・津田宗及の屋敷では、有力な町人の集まりや会合衆の集まりがしばしば行われたと記録に残る。永禄12年(1569)には信長の家臣・柴田勝家と佐久間信盛など百人余りが終日宴を張ったと伝えられるから大きな屋敷と思われる。堺市堺区熊野町東に宗及が父・宗達の供養のため建立した寺院『大通庵』の石碑があるということで訪ねてみた。阪堺電車の大小路駅から東に5分ほど歩くと、熊野町東5丁のバス停横に「大通庵跡」と刻まれた小さな石碑と案内板にたどり着く。案内板によると「大通庵は宗及が父・宗達の号「大通」と名付け、大徳寺の名僧・春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖として迎え開いた」とある。現在の堺市立熊野小学校が建つあたりと思われる。屋敷は南荘だから大小路を挟んで南側ということになる。

宗及のあとを継いだ嫡男で天王寺屋四代目・宗凡も茶人として活躍し、秀吉の御伽衆となった記録は残っている。宗凡には跡取りがなく天王寺屋本家は 慶長17年(1612)に断絶した。そして、茶道具の名品と宗達、宗及、宗凡の3代にわたる茶会の記録16巻は宗及の次男で大徳寺の龍光院の開祖・江月宗玩(こうげつそうがん)の元に渡った。大坂夏の陣の2年前のこと。かろうじて戦火を免れ遺品が残ったことは幸運だったといえる。宗及が遺した「耀変天目茶碗」は昭和26年(1951)に国宝指定され、茶会記は『天王寺屋会記』として出版され戦国期の歴史を物語る第一級の史料として私たちにメッセージを送り続ける。


天王寺屋茶会記に見る戦国武将との関係

400年前、大徳寺の江月宗玩に渡った茶会記は昭和64年(平成元年・1989)、『天王寺屋会記』として出版され甦った。この茶会記は大徳寺の塔頭・龍光院にあったものを小田原城主稲葉氏が譲り受け、明治になって旧肥前藩主の松浦家にわたり影印本〔現本を写真撮影して製本〕と解説本を加え全7巻とした全集として出版されたもの。高価な本であるが図書館で閲覧することはできる。天王寺屋の宗達から宗及、宗凡と3代にわたり書き継がれた茶会の記録である。茶会の日時、場所、席主、客名から使用した茶器や料理、茶会の雰囲気に至るまで丁寧に書かれている。茶会の記録としてばかりでなく信長から秀吉の時代の歴史的事実を探るうえでも貴重な資料となっている。天王寺屋の三代目宗及や堺の商人が、信長上洛直前の永禄11 年(1568)から政争の波に巻き込まれていく部分を抜粋してみよう。
(註:自会記…自邸での茶会記、他会記…他所での茶会記)

●永禄11年(1568)、三好政康、松永久秀など三好勢150人余りが宗及の茶会に出席(宗及『自会記』)。

●永禄12年(1569)、宗及、信長の家臣100人余りを歓待(宗及『自会記』)。

●元亀元年(1570)、石山合戦が始まったばかりの頃、宗及は本願寺の坊官下間頼宗の茶会に出席(宗及『他会記』)。

●同年12月には三好政康などが宗及の茶会に出席(宗及『自会記』)。

石山合戦が始まった元亀元年(1570)から天正元年(1573)の3年ほどの間、津田宗及は本願寺の坊官下間頼宗や三好政康と度々茶会を開き、信長対策を話し合ったと推測される。また、堺の会合衆の代表ともいえる立場の宗及は、信長と本願寺、三好勢との間で揺れ動いていたことを茶会記の記録は物語る。

●天正元年(1573)11月23日、妙覚寺の信長の茶会、宗及、塩屋宗悦、松江隆仙の3人の商人が招かれ、信長から手厚いもてなしを受ける(宗及『他会記』)。

●天正2年(1574)2月3日、信長岐阜城の茶会に宗及一人出席、大歓待を受ける(宗及『他会記』)。

●天正2年(1574)4月3日、信長の相國寺茶会、梅雪の手前のあと正倉院から切り取った蘭奢待(らんじゃたい)を扇子にのせて楽しみ、宗及と利休に分け与えた。これについて宗及は自慢げに書き遺している(宗及『他会記』)。

天正12年(1584)8月15日、本能寺の変のあと宗及と堺の商人たちは信長の喪に服し、連歌と茶会を開いた。宗及は明智光秀と相通ずるものがあり、坂本城での茶会に度々招かれており、複雑な想いであったと思われる。この席で宗及は「われなりと まんずる月の こよいかな」と上の句を詠んでいる。光秀の死に対しての宗及の心境、そして、信長の後継者と自負している秀吉に対する複雑な思いが見て取れる。この発句に対してどのような連句が続いたか・・。宗及はそれでも内心を押し隠して秀吉に接近していった。打算で動く商人たちの茶室での葛藤と静かな戦いが繰り広げられた模様が目に浮かぶ。


日本で一番見ることが難しい国宝

世界で最も美しいといわれる陶磁器「耀変天目茶碗」は世界に3点現存する。いずれも日本にあり、国宝に指定されている。その一椀、大徳寺の塔頭・龍光院の「耀変天目茶碗」は、日本で最も見ることが難しいと言われている国宝である。この龍光院秘蔵の「耀変天目茶碗」は津田宗及所蔵の茶道具の名品の一つで、慶長17年(1612)、堺の天王寺屋が断絶したため宗及の次男で龍光院の開祖・江月宗玩に渡ったものである。以来400年の眠りについた。

この龍光院は福岡藩主黒田長政が父・黒田如水(官兵衛)の菩提を弔うため江月宗玩を開祖に迎え建立した塔頭で、現在は拝観謝絶。国宝の書院や茶室「密庵」と共に閉ざされたままである。ところが、龍光院の「耀変天目茶碗」は平成29年(2017)10月3日から11月26日まで開催された京都国立博物館開館120年記念特別展覧会「国宝」に展示された。平成12年(2000)東京国立博物館での展示から17年ぶりのお目見えで、わずか13日間の展示であったが連日、大勢の人がその美しさに魅せられていた。残りの「耀変天目茶碗」は東京の静嘉堂文庫美術館と大阪の藤田美術館に所蔵されている。2点とも徳川家に伝わったもので徳川家に伝わる以前の経緯は不明である。何れも堺の豪商から権力者を経由して伝えられたと思われるが謎は多い。信長も足利義政から譲り受け愛用していたと伝えられるが、本能寺で炎に消えた。静嘉堂文庫美術館の「耀変天目茶碗」は2018年4月の特別展に出品される予定。大阪の藤田美術館所蔵の「耀変天目茶碗」は毎年春と秋の特別展で公開されてきたが、現在は美術館建て替えのため休館中で、2020年の開館まで観ることはできない。この春、しばらくの間見納めと大阪市都島区の藤田美術館特別展に出かけた。この日は土曜日という事もあってかなりの人で賑わっていた。中央のガラスケースの中の「耀変天目茶碗」が何とも言葉がない美しさである。「耀変天目茶碗」は800年ほど前、中国の福建省の建窯で焼かれたもので、形や大きさが同じことから日本にある3点は同一人物の作ではないかといわれている。中国には全く残されていない。平成23年(2011)、淅江省抗州市で破片が出土し話題となった謎の陶器である。

「耀変」とは陶器を焼くとき窯の中で予期しない色に変わるので窯変と呼ばれていた。下地に大小の瑠璃色や虹色の光の班紋が現れることから星が輝くという意味の「耀」という文字が用いられるようになった。日本には鎌倉時代に交易品として伝えられ、足利将軍はこの世にこれほど美しい物はないと最高の評価を与えたと伝えられる。古美術の関係者は、世界の美術品の中で最も価値が高くオークションに出ることがあれば、印象派のルノアールやセザンヌなどの絵画を上まわる値段が付くのではと話していた。



2017年6月

(2017年11月改訂)

橋山英二



≪参考文献≫
 ・中村修也『戦国茶の湯倶楽部』大修館書店
 ・永島福太郎編『天王寺屋会記』影印本 淡交社



≪施設情報≫
○ 南宗寺
   堺市堺区南旅篭町東3-1-2
   電  話:072-232-1654
   アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約5分

○ 大通庵跡
   堺市堺区熊野町東5
   アクセス:阪堺電車「大小路駅」より徒歩約5分

○ 大徳寺龍光院
   京都市北区紫野大徳寺町14・大徳寺内
   アクセス:京都市バス「大徳寺前」より徒歩約5分
   電  話:075-491-0019

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