第15話
幕末勤皇志士の精神的支柱となった『日本外史』を著わす
頼山陽は安永9年(1780)、大坂江戸堀で広島竹原出身の儒家頼春水(しゅんすい)の長男として生まれた。幼名は久太郎。天明元年(1781)、春水の広島藩藩儒就任に伴い母静(しず)(号は梅颸(ばいし))とともに広島に移る。その後、春水の度重なる江戸勤番により、家族の別居生活は10年以上におよんだ。その間、山陽は梅颸や叔父頼杏坪(きょうへい)の教育をうけ詩文の才能を大いに発揮するが、病弱なうえに精神的にも不安定で何度も発作を起こした。
寛政9年(1797)、山陽は江戸昌平黌(しょうへいこう)(江戸幕府による幕臣や藩士らの子弟を教育するための学校)に学ぶが、1年で広島に戻る。2年後、儒医者御園道央(みそのどうおう)の娘淳と結婚するも翌年脱藩をはかり京都へ出奔する。頼家親族の懸命な捜索の末、叔父頼春風(しゅんぷう)によって広島に連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉される。3年の幽閉と引き続く謹慎の間、山陽は源平時代からはじまる武家興亡の歴史をテーマとした『日本外史』の初稿を完成させた。
謹慎が解けた後、山陽は広島神辺(かんなべ)の儒学者菅茶山(かんちゃざん)の私塾「廉塾(れんじゅく)」の塾頭を務めたものの、文化8年(1811)、「三都(京・大坂・江戸)に進出し天下に名を上げる」として廉塾を去り京都に向かった。
京都で私塾を開いた山陽は、文化11年(1814)、友人小石元瑞(げんずい)の養女梨影(りえ)と再婚、ようやく安定した日々を送ることとなる。『日本外史』の深耕に取り組む一方、後藤松陰をはじめ優秀な門人を育てた。さらに九州を周遊して多くの知己を得、彼の地に数多くの優れた詩文や書画を残した。
文政9年(1826)、20数年間推敲を重ねた『日本外史』がついに完成。翌年、元(もと)老中首座松平定信への『日本外史』全22巻の献上に成功した。
その後も京都三本木の「水西荘(すいせいそう)」の書斎「山紫水明處(さんしすいめいしょ)」で文人墨客と酒を酌み交わしながら、互いに持ち寄った詩・画を肴に談論風発の時間を無上の喜びとした山陽であった。しかし、結核が体を蝕み次第に悪化、天保3年(1832)9月53歳の波瀾の生涯を閉じた。
フィールドノート
幕末の大ベストセラー ― 『日本外史』
『日本外史』は、山陽が生涯をかけて取り組んだライフワークであった。松平定信に『日本外史』を献上したことで、山陽が天下の白河楽翁(しらかわらくおう)(定信の異称)のお墨付きを得たという評価につながり、江戸時代後期の大ベストセラーへの伏線ともなったといわれている。
「在野の視点から描かれながら、かつての老中松平定信さえも唸らせる修辞法を持ち、かつ日本の歴史全体を俯瞰する躍動的な内容を備え、日本人に歴史意識を目覚めさせる大きな役割をはたした」(『頼山陽』下巻・見延典子)とされる。
山陽没後、元加賀藩士中西忠蔵が江戸で『日本外史』を収めた『拙修斎叢書(せっしゅうさいそうしょ)』を出版、その後弘化元年(1844)、武蔵国川越藩が教材として藩校博喩堂(はくゆどう)版『校刻日本外史』を出版したところ各藩の藩校にも採用され、一般にも大いに売れその数は多い年で1万部にも及んだといわれる。嘉永元年(1848)には頼家も大坂の版元から頼氏正本として出版、これもたちまちベストセラーとなった。安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内、梅田雲浜(うんぴん)らも『日本外史』の愛読者だった。
山陽が心血を注いで著した『日本外史』は、幕末における勤王の志士の精神的支柱となった。そのため山陽は日本を動かした人物とされ、その名を歴史にとどめることになる。
大坂女・母梅颸と道中詩
山陽の母梅颸は、大坂の儒医者飯岡義斎(いいおかぎさい)の娘として立売堀(いたちぼり)で生まれた生粋の大坂女である。義斎の教育方針は、女であろうとも教養を身に着けさせることであった。手習い、『女大学(おんなだいがく)(女子のための教訓書)』、和歌、歌舞伎や能、芝居見物も楽しんでいたというから、まさに才女だったといえよう。しかし、梅颸の結婚生活は苦労の連続だった。その日々を、彼女は84歳で死ぬまで日記に書き続けた。この『梅颸日記』は、頼本家と山陽の生涯を妻と母の目から見た貴重な史料となっている。
山陽は両親の住む広島と京都間を陸路・海路を使って何度も往復した。その途次多くの詩を残している。史跡を訪れ故事を偲ぶ詩、四季の移ろいと自身の変化を重ねた詩などさまざまである。道中、摂津西宮から望む甲山(かぶとやま)と自分の心情を詠った『胄山歌(ちゅうざんか)』もその代表的な作品の一つといわれ、兵庫県立甲山森林公園に立派な詩碑が建立されている。
母梅颸を4回京都へ招いた山陽であったが、送迎には必ず母を駕篭に乗せ、自らはその傍に付き添い歩いた。京都では市内の神社仏閣巡り、花見、歌会への出席など、さまざまな趣向で興じさせた。驚くことに、京嶋原の揚屋で芸妓を交えて大酒盛りを繰り広げることもあったという。
3回目の上洛滞在中、山陽は母と叔父杏坪を大和吉野に案内した。満開の桜に感激した梅颸は、一目千本の茶屋で「命こそ嬉しかりけり老いてのちふたたびみつる三吉野の花」と詠みあげた。杏坪も後に芳野四絶とも称された七言絶句『遊芳野』を残している。吉野の花見は山陽をはじめ梅颸や杏坪にとって終生忘れ得ぬ旅となった。中千本の五郎平公園にはこの『遊芳野(よしのにあそぶ)』の詩碑があり、金峯山寺(きんぷせんじ)横の吉野ビジターセンターの庭には山陽の『芳山(ほうざん)』の詩碑がそれぞれ建っている。山陽の『芳山』は、梅颸を初めて京に招いた際に作詩したものである。
最後となった4回目の上洛から広島へ帰る際、山陽は老母と摂津箕面の滝(現在の大阪府箕面市)を訪れた。その折に詠んだ漢詩の石碑が滝のすぐそばに建立されている。説明板には、山陽母子の見送りの旅に同行したのは画家田能村竹伝(たのむらちくでん)、後藤松陰そして伊丹「剣菱」の酒造家坂上桐陰(さかがみとういん)であったと紹介している。
紅葉で有名であった箕面の滝はそれ以来「孝養の滝」とも言われ、親に孝養を尽くそうと多くの人々が後に続いたのである。細菌学者の野口英世もその一人で、博士の孝養を顕彰する銅像が山腹に建っている。
山陽と詩吟
詩吟(または吟詩)は、江戸時代後期豊後日田(現在の大分県日田市)の儒学者で私塾「咸宜園(かんぎえん)」の主宰者廣瀬淡窓(たんそう)がその祖で、「咸宜流」と称される漢詩朗詠法は5千人近くいた門人によって全国に広まったとされる。
現在詩吟の愛好者は全国で約50万人。関西には「公益社団法人関西吟詩文化協会」があり、詩吟の普及推進に取り組んでいる。同協会の地藏(ちくら)会長と安藤副会長に、山陽と詩吟について話を伺った。
詩吟の成り立ちは前述のとおりであるが、鎌倉時代には五山の僧も漢詩を覚えるのに節をつけていたようで、どうも記憶術の一つであったのかもしれない。日田には咸宜園から響き渡る漢詩朗詠の大音量で近所の牛が驚いて暴れたという逸話も残っているそうである。
同協会の教本には約300の漢詩があり、そのうち山陽作品は19で作家の中で最も多い。山陽の漢詩が支持される理由を尋ねたところ、お二人は「それは親孝行ですね」と即答。『川中島』『本能寺』など、山陽の戦記物漢詩には鋭い歴史観が窺われ、さすがと思わせるものがある。一方、母を題材とした詩には「母親を敬愛する気持ちが素直に吐露されていて、詠う者聴く者それぞれの心に強く響く」ものがあるという。ちなみにお二人の一番好きな山陽作品は『送母路上短歌』(母を送る路上の短歌)と『侍輿歌』(侍輿の歌=駕籠(かご)の側にお仕えする歌)であった。いずれも山陽の母への孝心が溢れる名詩である。
山陽と大坂ゆかりの人びと
山陽生誕の地である大坂江戸堀界隈は、江戸時代後期に多くの学者・文化人が生まれ、寄寓し、開塾した土地でもある。それを示す石碑が所縁の場所に建立され往時の江戸堀の空気を伝えている。
山陽がいよいよ京都へ上る途次、大坂で最も世話になったのは篠崎三島(しのざきさんとう)とその養子篠崎小竹(しょうちく)である。三島は大坂生まれで私塾「梅花社(ばいかしゃ)」を創設。春水とは漢詩サロン「混沌社(こんとんしゃ)」で交流し互いにその才を認め合った仲である。
小竹は豊後出身の医者の子で、9歳のとき「梅花社」に入塾、4年後三島の養子となった。山陽は三島の紹介で京都の医者小石元瑞(げんずい)を訪ねることとなったが、その案内役を小竹が請け負った。この出会いから以後、小竹と元瑞は山陽の生涯の友であり協力者となった。
小竹の娘婿が後藤松陰である。松陰は美濃の出身であるが、文化12年(1815)山陽の最初の門人となり、九州遊歴にも随行した。文政3年(1820)大坂で開塾。「文は松陰、詩は廣瀬旭荘(きょくそう)」(旭荘は淡窓の実弟)と並び称され、山陽の著作の校訂や序や跋文(ばつぶん)(あとがき)を担当した高弟である。三島、小竹そして松陰の墓は天徳寺(大阪市北区)の墓所に並んでいる。
摂津高槻藩藩士藤井竹外(ちくがい)は鉄砲の名手であったが、自ら「酔士」と号し酒と詩文を愛した。詩は山陽から学びとくに七言絶句に優れ「絶句竹外」と称された。後醍醐天皇陵を詠んだ作品『芳野懐古』は「芳野三絶」の一つとして後世にその名をとどめている。旧宅跡には「藤井竹外邸跡碑」と並んで代表作の一つ『花朝下澱河』の詩碑が建てられている。
河内国国分(こくぶ)村(現在の大阪府柏原市)出身の医者の子弟であった柘植葛城(つげかつじょう)は山陽のもとで学んだ後帰郷、私塾「立教館」を開設した。その遺構が柏原市の関西福祉科学大学構内に移築保存されている。
田能村竹田は豊後日田の出身。画家で詩文も得意とした遊歴の人。山陽との最初の出会いは大坂生玉(現在の大阪市天王寺区)持明院という寺であった。二人は初対面ながら、互いの境遇に相通じるものを感じた。その後、九州周遊時には山陽が日田に竹田を訪ね、竹田が京・大坂に入れば京坂の仲間とともに竹田を囲んで作詩・作画に没頭したという。その竹田は天保6年(1835)に摂津吹田村(現在の大阪府吹田市)で客死した。
忘れてはならない大坂の人物がもう一人いる。大塩平八郎である。山陽は小竹を通じて大塩を紹介されたが、大塩自身はすでに『日本外史』の写本を読み、山陽の歴史観に感銘を受けた一人であった。朱子学を講じる山陽と陽明学の「知行合一」を行動の中心に据える大塩とはスタンスの違いがあるとはいえ、治世の権威のあり方について共通の感情を抱いていた。
与力を退いた大塩は、尾張にある先祖の墓参の途次、京都の水西荘を訪れた。その際、山陽は『送大塩子起適尾張序』の一文を書き大塩に贈る。大坂の与力として、市井にはびこる腐敗と巨悪を法の力で敢然として排除した勇気と功績を讃えたものであった。
大塩は乱を起こす1年前の天保8年(1837)、『洗心洞箚記(せんしんどうさつき)』の跋文に、この一文の3分の1を〇(伏字)で埋めて掲載・出版した。山陽の激しい幕府批判に、当の大塩さえ一歩も二歩も腰を引いたのである。しかし、山陽は序の中で大塩があまりにもまともすぎることも諫めてもおり、この先身を誤らせることにならないよう気遣っていた。しかし、山陽の心配をよそに大塩は蜂起し、乱は僅か1日で終わった。山陽は乱勃発の5年前に他界しており、大塩を引き留めることは叶わなかった。
山陽と丹醸
京都の私塾の収入が乏しかったころ、山陽は詩文を書いては篤志家や商人に売りその金(潤筆料)で糊口を凌いでいた。得意先には摂津国伊丹郷町(現在の兵庫県伊丹市)の酒造家が多くいた。この町でつくられる清酒は「丹醸」あるいは「伊丹諸白」ともてはやされ、代表格は「剣菱」「泉川」「男山」「白雪」であった。山陽はこれらを愛飲しかつ推奨した。
伊丹市内を走る産業道路脇の歩道に山陽の詩碑が建っている。箕面の紅葉を楽しんだ折の詩で、「将(まさ)に佳酒を携えて佳山を看んとす」とあり、丹醸を離さなかった様子をうかがわせる。
坂上桐陰の「剣菱」はその後坂上家から他の経営者の手に移るが、「剣菱」ブランドはそのまま引き継がれた。昭和4年(1929)に伊丹から灘へ移っても灘の銘酒「剣菱」であった。「剣菱」の包装箱に印刷された山陽の『戯作摂州歌』の「兵可用酒可飲」(兵用ゆべし 酒飲むべし)は、今なお健在で明快かつ単刀直入、まさに秀逸のキャッチコピーといえよう。
一方、伊丹市の小西酒造「長寿蔵ミュージアム」には、山陽の筆になる「白雪」の看板が展示されている。往時、店の正面を飾ったものといわれ、樹齢800年の檜の巨大な一枚板で山陽の筆致とあわせ迫力満点である。
また伊丹市内の杜若寺(とじゃくじ)には銘酒「泉川」の醸造元大塚鳩斎(きゅうさい)の墓碑があり、山陽晩年の作ともなる撰弁書が刻まれている。そこには丹醸を評して「清淡峻洌」の表現があり、ここにも伊丹の酒に対する山陽の思い入れが伝わってくるようであった。
長楽寺 ― 頼山陽墓所
京都東山山麓にある長楽寺(ちょうらくじ)は、古い時代から紅葉の名所であり、安徳天皇の生母建礼門院が剃髪した寺としても有名。境内の一番奥まったところには、幕末京都に駐留した水戸藩士の広大な墓地「尊攘苑(そんじょうえん)」がある。祇園に近いこともあり京都で山陽一番のお気に入りの場所で、山陽は死後ここに埋葬するよう遺言を残していた。
長楽寺の本堂を過ぎたところに、山陽の親友で画家の浦上春琴(うらがみしゅんきん)の顕彰碑がある。碑文は篠崎小竹の書によるもの。これも山陽の友人で菅茶山に私淑した書家武元登々庵(たけもととうあん)の書の碑。いずれも山陽とこの長楽寺で紅葉狩を楽しみ、山紫水明處で酒を酌み交わした仲である。
山陽の墓所は山の頂近辺にあった。「山陽頼先生之墓」は高さ2m近くあり、その横に妻梨影、三男頼三樹三郎(みきさぶろう)の墓が並ぶ。門人で山陽の意を受け三樹三郎を指導した児玉旗山(きざん)、少し離れて「竹外酔士」と刻まれた藤井竹外など、多くの墓碑や報恩碑などが山陽を囲んで佇む姿は、山陽への深い敬愛の思いが偲ばれる。山陽は、京都東山で樹々を通して伝わる祇園界隈のさざめきに、今なお墓の下で心躍らせているのではないだろうか。
日本人の心に響く詩
先の各章で取り上げた山陽および叔父杏坪、門下生竹外の作品はいずれ劣らず名作である。日本人を惹きつけてやまない詩にこめられた情感を是非味わっていただきたい。
頼山陽 作
頼杏坪 作
藤井竹外 作
2016年4月
(2019年4月改訂)
長谷川俊彦
≪参考文献≫
・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
・中村真一郎『頼山陽とその時代』中公文庫上・下巻
・頼山陽『日本外史』岩波文庫上・中・下巻
・見延典子『頼山陽』上・下巻(徳間書店)
・見延典子「頼山陽の母・梅颸八十四才の生涯―すっぽらぽんのぽん」(南々社)
・池田明子『山紫水明 頼山陽の詩郷』(渓水社)
・図録『頼山陽と酒』頼山陽歴史資料館
≪施設情報≫
○ 頼山陽生誕の地碑
大阪市西区江戸堀1
アクセス:大阪メトロ四つ橋線「肥後橋駅」より徒歩約3分
○ 先賢景仰碑
大阪市西区江戸堀1–21–28 西船場小学校内
アクセス:大阪メトロ四つ橋線「肥後橋駅」より徒歩約10分
○ 梅花社跡
大阪市西区土佐堀1–1–12
アクセス:大阪メトロ四つ橋線「肥後橋駅」より徒歩約5分
○ 頼山陽詩碑
兵庫県伊丹市中央6 産業道路沿い
アクセス:阪急伊丹線「伊丹駅」より徒歩約10分
○ 小西酒造「長寿蔵」
兵庫県伊丹市中央3–4–15
アクセス:阪急伊丹線「伊丹駅」より徒歩約5分
○ 頼山陽詩碑・野口英世像
兵庫県箕面市箕面公園
アクセス:阪急箕面線「箕面駅」より箕面滝道徒歩約15~30分
○ 立教館遺構
大阪府柏原市旭ケ丘3–11–1 関西福祉科学大学内
アクセス:近鉄大阪線「河内国分駅」より徒歩約15分
○ 頼山陽『芳山』詩碑
奈良県吉野郡吉野町吉野山2430
アクセス:近鉄吉野線「吉野神宮駅」より徒歩約30分
○ 頼杏坪『遊芳野』詩碑
奈良県吉野郡吉野町吉野山 五郎平園地
アクセス:近鉄吉野線「吉野神宮駅」より徒歩約40分
○ 藤井竹外邸跡碑・詩碑
大阪府高槻市野見町2–33
アクセス:阪急京都線「高槻市駅」より徒歩約10分
○ 天徳寺・篠崎三島、篠崎小竹、後藤松陰墓
大阪市北区与力町2–1
アクセス:大阪メトロ谷町線「南森町駅」より徒歩約5分
○ 杜若寺・大塚鳩斎墓所
兵庫県伊丹市東有岡5–127
アクセス:阪急伊丹線「新伊丹駅」より徒歩約10分
○ 長楽寺・頼山陽墓所
京都市東山区八坂鳥居前東入ル円山町626
アクセス:阪急京都線「四条河原町駅」より徒歩約20分
○ 山紫水明處
京都市上京区東三本木通丸太町上ル南町
アクセス:京阪京都本線「神宮丸太町」より徒歩約5分