第96話
日本舞踊「山村流」創始者として一世を風靡
江戸中期の大坂の歌舞伎振付師であり、日本舞踊山村流の創始者である。天明元年(1781)に大坂の浜芝居(道頓堀の浜側の小劇場)での芝居の大立者、歌舞伎役者初代藤川岩松の子として生まれた。父岩松は「忠臣蔵」では由良之助を演じ「引窓」では婆にも扮した芸域の広い役者であった。
友五郎が数え年8歳の頃、二代目岩松の名で人形を真似た首ふりだけで台詞の無い「チンコの首振り」といわれていた子供芝居に出演した。彼は女形になれば老け役にもなる、滑稽な「チャリ」もできる器用な子役だったそうである。その後彼は「立ち廻りの名手」として重用され、22歳の時、亡き父の同僚山村儀右衛門の門弟となった。そして山村友五郎を名乗った。
その2年後江戸の名優三代目坂東彦三郎の景事『福哉色弓取(さいわいなるかないろのゆみとり)』に出演、狂言師字門の役で鞨鼓(かっこ)(雅楽で使われる鼓の一種)を打ちながら踊った。これを契機に彼は役者を廃業し、舞の師匠に専念することとなった。
その後、友五郎は中村歌右衛門(三世)に見いだされ、振付師に転向した。実は、この歌右衛門も「チンコの首振り」で彼と初舞台を踏んでおり彼とは幼馴染だったのである。これをきっかけに歌右衛門の舞踊の振付はほとんど彼がすることになったが、この振付が大評判となり上方随一の振付師として一世を風靡したのである。
文化3年(1806)初演の「加賀橋本」(歌舞伎の台本)の一つ、大切景事「覚(さめ)てあふ羽翼衾(つばさのふすま)」は友五郎の振付デビュー作である。斬新な演出で、人気若手花形の役者たちが「三段返し」や「五段返し」の早替りで踊り抜くグランド・レビュー形式の作品であった。この大成功により彼の名は世間の注目を浴びるようになった。
また友五郎は義太夫狂言も演出した。中でも『義経腰越状(よしつねこしごえじょう)』(五斗三番叟)と『福在原系図(さいわいありわらけいず)』(蘭平物狂)は彼の代表作とされている。
こうして上方舞踊界の第一人者として活躍した友五郎であったが、51歳のときに剃髪し、山村吾斗と名乗った。歌右衛門も48歳の若さで引退したことと軌を一にしたのであろう。
さらに3年後に彼は舞扇斎吾斗(ぶせんざいごと)と名乗った。そのとき彼は肩書の「振付」を改めて「振付師」と称した。彼の自分自身に対する矜持が「師」の一文字に表れているのではないだろうか。ちなみにこの頃、四代目中村歌右衛門(芝翫)を筆頭に、舞の弟子たちも成長して大坂の芝居を支える大立者として舞の師匠として君臨していた。
吾斗(友五郎)は梅玉(三代目歌右衛門)追悼の句「その秋を思えば月の朧かな」を詠んだ。一方の歌右衛門は吾斗に「搗たての餅に跡ある莚かな」の句を捧げている。剃髪して姿形は変わっても、心は子供のときのままだという思いが表現されている。
吾斗には実子がなく、新町(註2)の稽古場は養子の二代目友五郎に託した。
二代目友五郎は前名を友三郎といい、大阪の新町に住んだことから「新町山村(新町の山村)」と呼ばれ宗家格であった。彼は、在原検校(ありはらけんぎょう)と組んで多くの作品を作り、山村舞を大成している。
また養女れんは、「九山村(九郎右衛門町の山村)(註3)」と称し、京坂の劇場の振付師としても活躍した。しかし、明治14年(1881)に彼女が亡くなり「九山村」は後継者がおらず衰退した。
もう一方の養女登久は「島山村(島の内の山村)(註4)」と称され、その孫若子が後を継ぎ、今日の女性本位の座敷舞としての地唄舞を完成させた。島山村の若子は、初代友五郎の養子・養女の内、唯一遺された血筋の師匠として、昭和17年(1942)3月には三世宗家を継ぎ、二代目山村舞扇斎吾斗を襲名している。このとき、その孫山村菊が二代目若子を襲名し、昭和23年(1948)4月に四世宗家を継ぎ、若と改称した。
その後、今日の六世まで名跡と芸は連綿と血脈で受け継がれている。
ちなみに山村家の系図(註5)を示すと以下の通りである。
大坂の舞踊界において大きな功績を遺した初代友五郎であったが、大坂で天保13年(1842)に死亡(註1)した。彼の墓は大阪阿倍野の通称阿倍野霊園「大阪市設南霊園」にある。
『細雪』にも描かれた上方舞
上方舞(かみがたまい)とは、江戸時代中期(1800年頃)から末期にかけて上方(京都や大阪をはじめとする畿内)で発生した日本舞踊の一種である。伴奏に土地の流行唄という意味であった「地唄(地歌)」が用いられる「地唄舞」が有名である。舞台中心に発展した関東の「踊り」に対して、「座敷」においても舞われることが多く、これらは「座敷舞」と呼ばれる。
上方舞には山村流・井上流・楳茂都(うめもと)流・吉村流の4流派が主流とされ、それぞれ発展形態は異にしているが、御殿舞を源流にする流派、能を基本とする流派いずれも静的な舞に、人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加味されたといわれており、歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きが特色である。その中でも、山村友五郎に礎を持つ山村流が最古の流儀である。山村流は歌舞伎の振付師であった友五郎が、能楽の型を取り入れて山村流の舞を確立したといわれている。
さらに山村流からは、神崎流、川口流、坂本流などが分化している。
山村流は、能から出た舞の上品さから商家の子女の行儀見習い・教養として隆盛を極め、山村流の名取札が嫁入り道具に欠かせぬものと言われるまでになった。
谷崎潤一郎の名作『細雪(ささめゆき)』には、大阪・船場の蒔岡家の四女・妙子が山村流の舞を習う場面が描写されている。舞うのは地唄舞「ゆき」である。「ゆき」は、三代目山村友五郎氏が襲名披露の際に舞った演目であり、山村流が大切にしている名曲である。
上方の伝統文化を愛した谷崎潤一郎が上方舞にも深い理解をしており、また愛していたことがわかる。まさに、大阪の文化の底力を如実に示すものであろう。
119年ぶりに復活
三代目山村友五郎氏は、四世宗家山村若や母である五世宗家山村糸のもと幼少より修行を重ね、三世宗家舞扇斎五斗以来受け継がれてきた山村流の宗家(六世宗家山村若)を平成4年(1992)に継承し、平成26年(2014)に三代目山村友五郎を名乗った。
流祖の名跡の119年ぶりの復活であった。平成4年(1992)に六世宗家を継承する当時は、「地唄舞」で知られ女性らしい舞とされていた山村流を継ぐことに悩みはあったようである。しかし、流祖友五郎の存在や功績を知り、男性宗家として山村流の源流である歌舞伎舞踊の復元や流祖にならい能より取材した演目を新たに振り付けるなど、現在は宗家として確固たる地位を築いている。
三代目友五郎氏は流儀内に留まらず、日本舞踊をはじめ、宝塚歌劇団の振付も担当する等、様々な芸能の世界で活躍。その功績に対して、芸術選奨文部科学大臣賞をはじめ、日本伝統文化振興財団賞等、伝統芸能の成果に対する様々な受賞をした。平成20年(2008)には、日本舞踊協会が若手の日本舞踊家の最高賞として制定している花柳壽應賞新人賞を受賞している。また、平成26年(2014)度の大阪文化祭賞最優秀賞を受賞、さらに同年、襲名の成果として日本芸術院賞も受賞している。
三代目友五郎氏はこうして現在も歩みを止めることなく活動しており、今後の一層の活躍が期待される。
(註1)初代山村友五郎の没年は1844年が通説であったが、現在では1842年と考えられている。
(註2)現在新町のどの地であるかは不明。(古井戸秀夫氏『流祖友五郎』)
(註3・4)現在の大阪市中央区。
フィールドノート
初代山村友五郎の墓(大阪市設南霊園)
初代友五郎の墓は、大阪市阿倍野区にある広大な「大阪市設南霊園」の一角にある。残念ながら、彼の所縁の地はこの墓以外には知られていないようである。
江戸時代の歌舞伎資料を所蔵(阪急文化財団・池田文庫)
阪急学園の池田文庫(大阪府池田市栄本町)には、初代山村友五郎の資料が多く保存されている。池田文庫所蔵の歌舞伎の台本には、友五郎自身のことは勿論、彼の影響を受けた役者たちが切りひらいたさまざまな新しい演出も知ることができる。このことからも、池田文庫に伝わる台本の数々が、江戸時代の歌舞伎を知る資料としていかに貴重であるかがわかる。世界に誇れる大切な財産であろう。
三代目山村友五郎
現在、三代目友五郎氏は、舞だけではなく山村流に所縁ある上方絵や歌舞伎番付を収集したり、学識者との交流を深めて流儀の歴史を学んだりもしている。また、宝塚歌劇団やOSK日本歌劇団での日本舞踊の指導や公演の振付も担当している。
平成21年(2009)には、同世代の日本舞踊家である西川箕乃助氏(西川流)、花柳寿楽氏(花柳流)、花柳基氏(花柳流)、藤間蘭黄氏(藤間流)と、流派を超えた日本舞踊ユニット「五耀會(ごようかい)」を結成。東京、大阪での公演をはじめ、平成31年(2019)3月には沖縄公演を成功させるなど、日本舞踊の面白さを多くの人に知ってもらう活動に取り組んでいる。さらに、平成28年(2016)12月には国際交流基金の招きでインド・ニューデリーを訪れ、インドの伝統舞踊の舞踊家たちと五耀會メンバーが共演するなど、日本舞踊を海外に紹介する活動にも取り組んでいる。
初代友五郎が「覚めてあう羽翼衾」を初演した文化3年(1806)から200年を経た平成18年(2006)、三代目友五郎氏は創流200年の記念公演を行い、大阪の地でかくも長きにわたって山村流日本舞踊が継承されてきたことをあらためて印象づけた。それはとりもなおさず、大阪で山村流の舞踊が愛され続け、多くの人がその習得に精を出してきたことを物語っている。
かつて大阪で日本舞踊といえば「山村流」を指していた。「山村へいてきます」といえば、「舞の稽古に行ってきます」という意味であった。友五郎氏は、「山村流といえば、かつては谷崎潤一郎の小説『細雪』に登場するようなお嬢さんたちや、花街の芸者衆の舞、道頓堀・芝居町の歌舞伎役者の踊りでした。これは大阪ならではの芸事であり、大阪で生活をしているからこそできること。祖母(四世宗家・二代目若)は「東京で稽古場を」との誘いがあっても、大阪の土になるといってずっと断ってきました。私にもその血が流れているので、大阪で生まれ育った山村流の舞を大阪から発信していきたいという思いがあります」という。
平成31年(2019)現在、友五郎氏の稽古場には、5歳から80歳以上の幅広い年齢層の人たちが稽古に通う。大人になってから始める人もいれば、子育てが一段落して再び習い始めたという主婦も多い。また、友五郎氏はカルチャーセンターでの指導も行っており、最近の特徴は、海外生活を経験した人が増えてきたことだという。「外国人から日本の伝統芸能や文化について聞かれ、何も答えられなくて恥ずかしい思いをされたのでしょうか。海外生活をして初めて日本の伝統文化をいかに知らないかに気づくのですね。若い人にとっては、自分で着物を着ることができるようになるのも日舞ならではの収穫です」
大阪で生まれ育った日本舞踊「山村流」を広めるために、さまざまな活動に取り組む三代目山村友五郎氏の今後の活躍を期待したい。
2019年2月
和田誠一郎
≪参考文献≫
・渡辺保『日本の舞踊』
・『三代目山村友五郎 四代目山村若 襲名披露舞扇会』プログラム
≪施設情報≫
○ 初代山村友五郎の墓所(大阪市設南霊園〔通称阿倍野霊園〕)
大阪市阿倍野区阿倍野筋4–19–115
アクセス:大阪メトロ谷町線「阿倍野駅」より徒歩約7分
○ 公益財団法人阪急文化財団・池田文庫
大阪府池田市栄本町12–1
アクセス:阪急宝塚線「池田駅」より徒歩約10分
○ 三代目山村友五郎氏の稽古場
大阪市中央区東平2–1–16
アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町九丁目駅」より徒歩約5分