第81話
元禄・上方歌舞伎の人気者
たおやかで繊細な伎芸を特徴とする「和事」の達人にして、「やつし事」の天才。遊女とその客との色恋沙汰を演じる「傾城(けいせい)事」の草分け。江戸の市川團十郎と比される元禄歌舞伎の名優。彼の名跡を彩る評判は枚挙にいとまがない。
藤十郎は、京の座元である坂田市左衛門の息子として生を受ける。20代の頃には花車形(かしゃがた)(老女に扮する役者)の大家・杉九兵衛や能の小鼓の名人・骨屋庄右衛門(ほねやしょうえもん)に師事し、その後長きにわたり空白の修業期間を経る。
正式な舞台記録にその名が現れるのは、延宝4年(1676)、当時の評判記『可盃(べくさかずき)』にて「藤十郎か一つかみにしたる芸、兄さまめいたるおとこぶり」と記されている。藤十郎、30歳のときである。
延宝6年(1678)、大坂新町の名妓・夕霧太夫の追悼興行として行われた『夕霧名残の正月』の伊左衛門役を演じた。この舞台は夕霧の死後1カ月を待たずに、大坂にて上演された。以後、回忌の度に上演は繰り返された。大坂・堀江の芝居小屋での夕霧狂言は恒例行事として確立され、それと同時に、藤十郎人気にも拍車がかかった。夕霧狂言は藤十郎のライフワークとなり、「夕ぎりに芸立ちのぼる坂田かな」と謳われたほどである。毎回新作が上演され、同じ芝居が繰り返されることは稀であった当時、藤十郎は生涯のうちで18回伊左衛門を演じたとされる。
浄瑠璃芝居の作家だった近松門左衛門は、元禄8年(1695)『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』を皮切りに24編の舞台台本を藤十郎のために書いた。いずれも盛況で、藤十郎は京大坂を中心に名実ともに確固たる地位を得た。元禄期の役者評判記によれば「上々吉の札千九十三枚」に対し、「下手と有り札」はわずかに2枚。当時のスターぶりがうかがえる。
芸に対する真摯な態度
藤十郎は芝居における写実性を重んじた。巧みな台詞回しで魅了する芝居(居狂言)を得意とする反面、舞や所作事は不得手だった。また、アドリブが多く、しばしば共演者を困らせたという。英雄豪傑の武士文化で肉体的な躍動感が好まれる江戸とは対照的に、風流を重んじる公家文化や合理主義的で話好きな商人文化が色濃い上方は、まさに藤十郎にうってつけの舞台であったといえる。
藤十郎は歌舞伎関係者からの評価も高い。上方歌舞伎の名優として藤十郎と併称されることも多い同時代の女形・芳沢あやめ(1673~1729)は、藤十郎との共演を「ゆつたりとして大船に乗たるやうなり」と評している。
藤十郎が芸に対して真摯であったことを示す文献は多い。「役者はいつでも乞食袋を持ち歩き、貪欲に知識を吸収して芸に反映させよ」という彼の言葉からは現代人も学ぶところは多い。
大坂での芝居の際には、京から樽に入った水を取り寄せ、米も選りすぐりのものを口にした。米に混入した異物で歯が欠けたり、水が変わって腹を痛めることで、芝居に支障をきたすことを恐れていたからである。
また、藤十郎の芸を忠実に真似て成功を収めた後輩の役者に対しても、安易に褒めることはせず、「私を真似ては私より劣る。自分の工夫をしなさい」との助言を与えた。このように、藤十郎が芸の創意工夫を凝らした背景には、当時の歌舞伎の「型」の見本となった江戸歌舞伎に対し、上方歌舞伎の独自性を打ち出そうとする狙いがあったのかもしれない。
晩年の藤十郎
元禄9年(1696)以降、藤十郎は京の都万太夫で、座の興行責任者である座元としても活躍した。浄瑠璃作家の近松門左衛門と組み、次々と人気芝居を上演していく。しかし、次第に藤十郎が病気がちになり、舞台に上がることが少なくなるにつれて、二人の関係は疎遠になっていく。
宝永4年(1707)、藤十郎は京の早雲長太夫座(はやくもちょうだゆうざ)にて『石山寺誓の湖』を上演した。その舞台上で、藤十郎は大和山甚左衛門に「紙子譲り」を行った。紙子とは、高貴な身分の者が落ちぶれた姿を示すために用いられる粗末な衣装であり、藤十郎の得意とした「やつし芸」を象徴する道具である。それを舞台上で手渡すことは藤十郎が「やつし芸の後継者」として大和山甚左衛門を認めたことを意味する。その舞台から2年後の宝永6年(1709)、藤十郎は63歳で亡くなった。
フィールドノート
藤十郎の墓の所在地
実のところ、藤十郎の本墓は見つかっていない。当時の歌舞伎役者は「河原乞食」と呼ばれ、社会的地位は低かったため、本墓があるのかも定かではない。
藤十郎の供養塔は大阪の四天王寺の墓所にある。大正8年(1919)、初代・中村鴈治郎による『藤十郎の恋』の成功を祝して、松竹の創業者・白井松次郎らにより建てられたものである。五輪塔には藤十郎の定紋である星梅鉢が彫られている。隣には大正期の演劇研究家・木谷蓬吟(きたにほうぎん)が「伝統の藝型を打破し、写実的藝風を創唱した」として、藤十郎の功績を称えた顕彰碑がある。
ところで、初代坂田藤十郎の名を現代に広く知らしめたのは、おそらく菊池寛の戯曲『藤十郎の恋』であろう。間男の役を演じるにあたって行き詰まりを感じていた藤十郎は、現実の人妻・お梶を誑(たぶら)かすことで芸の肥やしにするが、偽りの恋だと知ったお梶は藤十郎の舞台を前に自ら命を絶ってしまう。この戯曲の基となった逸話は、藤十郎の芸談を数多く記した『耳塵集(にじんしゅう)』にみられる。しかし、藤十郎が人妻と関係をもち、相手を死に追いやった事実はなく、あくまで菊池寛の創作である。女の恋心を弄ぶ非情な役者としての藤十郎の印象は、菊池寛の戯曲が先行した誤ったイメージである。
現存する唯一の自筆
大阪箕面山にある瀧安寺。そこに初代坂田藤十郎の現存する唯一の自筆資料である大般若経が所蔵されている。縦横一切の歪みのない繊細かつ丁寧な筆跡からは、藤十郎の几帳面な気質が見てとれる。この経は藤十郎の戒名を知る手がかりともなることから、その歴史的価値が認められて、平成15年(2003)に市の有形文化財に指定されている。
奉納時期は元禄5年(1692)、藤十郎が『堺大寺開帳』の上演で大坂にいた頃である。藤十郎以外にも、近松門左衛門をはじめ、京の都万太夫座にゆかりのある人物の写経も数多く収められている。
藤十郎の経が瀧安寺に奉納された理由について、箕面市の調査報告は、箕面山の役行者(えんのぎょうじゃ)千年忌に向けての勧進事業であったのではないか、と推測している。瀧安寺において役行者千年忌の法要が行われる前年に、藤十郎は京の都万太夫座で『けいせい江戸桜』を上演している。この狂言は箕面山の役行者を題材としており、役行者の千年忌を当て込んだ出し物であった。また、瀧安寺は弁財天信仰の寺である。弁財天(弁才天)は当時から芸能の神として知られており、歌舞伎役者とは深いつながりがあったとされる。元禄11年(1698)の出来事を示した『金子一高日記』では、芝居の前後に寺へ出向く藤十郎の姿が記されている。
四條河原の今昔
京都南座がある四条河原町周辺は、歌舞伎発祥の地とされている。元禄時代、鴨川東側の四条通り沿いには、七つの芝居小屋が存在していた。なかでも、都万太夫座は藤十郎が座元を務め、自身も数多くの舞台を踏んだ場所である。当時の資料から、都万太夫座の広さは約千平方メートル、収容人数は千人ほどだと推測されている。
元禄時点で都万太夫座が存在したのは現在の南座の向かい、四条通りを挟んだ北側にあった二つの芝居小屋のいずれかであるとされている。現在その場所には「井筒八ッ橋本舗」井筒ビルがあり、ビルの前には跡地を示す石碑と案内板が設置されている。元禄以後、度重なる大火により芝居小屋は焼失し、北側に残された一軒も明治26年(1893)に、四条通りの拡幅により消滅した。
芝居小屋から東に歩くと、八坂神社に行き当たる。正面の西楼門から入って左には入母屋造の絵馬堂があり、奉納された絵馬が飾られている。その中に比較的新しい絵馬がある。平成17年(2005)、四代目坂田藤十郎の襲名披露の際に記念奉納されたものである。
四代目坂田藤十郎の襲名
『曽根崎心中』(1953)のお初役を演じて以降、「扇雀はん」の愛称で活躍したのち、三代目鴈治郎を継いだ中村鴈治郎氏が一念発起、永らく途絶えて久しい大名跡坂田藤十郎を襲名することになった。平成17年(2005)のことである。これは三代目坂田藤十郎の襲名より231年ぶりのことになる。
上方歌舞伎の慶事に京・大阪はこぞってこれを歓迎し、同年9月16日、リーガロイヤルホテル大阪で盛大な祝う会が催された。財界人、文化人ら約400人を前に四代目坂田藤十郎氏は、「若いころからいつか坂田藤十郎の名を再興したいと思っていた。〝一生青春〟の心で頑張りたい」と歌舞伎への熱い思いを語った。
1年間の襲名披露公演を無事に終えたことを祝った絵馬は、大阪市中央区にある高津宮にも奉納されている。
印象記
平成29年(2017)12月、京の師走を彩る恒例行事『吉例顔見世興行』は、休館中の京都南座から所を移し、岡崎・京都ロームシアターにて賑々しく開催された。八代目中村芝翫はじめ、中村家親子4人の襲名披露と併せて行われたこの絢爛たる催しには、歌舞伎界を牽引する名優たちが東西問わずに一堂に会する。錚々たる顔ぶれのなかに、かつての大名跡は今なお息づいている。
そのとき出演された四代目坂田藤十郎氏と面会の機会をいただいた私は、舞台直前の楽屋で氏と対面した。御年86歳となる現代歌舞伎の大立者(おおだてもの)は、穏やかな物腰が印象的だった。この度、初代坂田藤十郎についての記事を書かせていただく旨を伝えると、氏は「楽しみにしております」と柔和な笑顔を浮かべた。
しかし、いざ舞台に立つと、氏の印象は一変した。演目は『良弁杉由来 二月堂』。生き別れた息子を探して各地を放浪する母が息子と再会を果たすという母子再会の物語である。息子を探す母・渚の方を演じる氏が舞台に立つと、客席の視線は一点に小さな老婆に注がれた。静粛な劇場に老婆の声が響いた。震えがちだが、よく通る声だ。わずかな照明に照らされながら、老婆はとぼとぼと舞台中央に歩み寄る。貧弱でみずぼらしいが、すっと伸びた背筋だけがかつて彼女が高貴な者であったことをうかがわせる。老婆に身をやつし、その凋落と気品とを同時に演じきる氏の姿には、長年の経験に裏打ちされた気迫が感じられた。貴と賤を同時に魅せることは、初代の得意とした「やつし」そのものである。上方歌舞伎の「紙子」は確かに現代へと受け継がれているのだ。
2019年2月
葭谷隼人
≪参考文献≫
・守随憲治『役者論語』
・歌舞伎評判記研究会編『歌舞伎評判記集成』
・鳥越文蔵『元禄歌舞伎攷』
・園田学園女子大学近松研究所『坂田藤十郎展』資料
・毎日新聞『南座ものがたり』
・菊池寛『藤十郎の恋』
・田口章子編『元禄上方歌舞伎復元・初代坂田藤十郎幻の舞台・初代坂田藤十郎没後三〇〇年記念出版』
・箕面市役所『瀧安寺所蔵大般若経調査報告書』
・今尾哲也『歌舞伎の根元』
・斎藤利彦『近世上方歌舞伎と堺』
・廣瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』
≪施設情報≫
○ 四天王寺
大阪市天王寺区四天王寺1–11–18
(大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より徒歩約5分)
○ 箕面山瀧安寺
大阪府箕面市箕面公園2–23
(阪急箕面線「箕面駅」より北へ徒歩約15分)
○ 京都四條南座
京都市東山区四条通大和大路西入る中之町198
(京阪本線「祇園四条駅」より徒歩約2分)
○ 北座跡
京都市東山区川端通四条上ル北座
(京阪本線「祇園四条駅」より徒歩約2分)
○ 八坂神社
京都市東山区祇園町北側625
(京阪本線「祇園四条駅」より徒歩約5分)