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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第21話 仁徳天皇にんとくてんのう (257? 〜 399年?)

          『日本書紀』では神功皇后摂政57年〜仁徳天皇87年

          『古事記』では83歳で崩御

民の竈(かまど)を心配した聖帝仁徳

仁徳天皇は、応神天皇の第4子として誕生した。母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、幼い頃から聡明かつ容姿端麗で、壮年になると心広く恵み深い人であったといわれている。諱(いみな:個人の正式名称)は、『日本書紀』では大顦鷯尊(おおさざきのみこと)、『古事記』では大雀尊(読み方同じ)とされている。

応神天皇の崩御後、弟の皇太子・菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)は、「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くなければならない。容姿も優れ、仁孝の徳もある兄を於いて自分は天皇になることはできない」と大顦鷯尊に位を譲ろうとした。大顦鷯尊は、菟道雅郎子皇太子の他に、皇位を狙うもう一人の兄王・大山守皇子(おおやまもりのみこ)との板挟みになるが、弟に加担し兄王を征伐する。弟はそれでも即位せず自害したため仁徳天皇として即位する。

即位後、高殿から国を見渡した仁徳天皇は、民家のかまどに煙が立っていないのを見て、「これは民が貧しいからである。今、宮に3年分の備蓄があるから、今後3年は徴税を禁じる」と命じた。そのため自身も衣服や履物は破れるまで使用し、屋根の茅が崩れても葺かなかった。3年後、再び高殿から見渡すと、人家の煙は盛んに上っていた。そこで「我は富んだ。素晴らしきこと」と喜ぶと、皇后が「私たちはこんなに惨めな生活をしているのに、どうしてですか?」と聞き返した。すると仁徳天皇は、「まつりごとの基本は民。民が富まねば天子である私も富んだことにはならぬ」と答えた。民に力が戻るとようやく税を解禁し、課役を命じたが、民は大挙して都に集まり、自主的に御殿の造営や納税に励んだ。この「民のかまど」の話は、仁徳天皇の仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡(し)号もこれに由来する。

その後、仁徳天皇は民の課役で河内平野の開発や広大な田地の開拓などのインフラ整備を推進し、国土経営でも善政を行った。また、朝鮮半島の亡命者を巧みに使い大陸の技術を取り入れ文物の交換を行うなど、内政、外交にも長けていた。皇居は難波高津宮(なにわたかつのみや:現在の大阪市中央区)、御陵は通称「仁徳天皇陵」、堺市の大仙町にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)とされている。

『日本書紀』には次の事績が記載されている。

  1. 仁徳天皇4年、民の窮乏を救うため3年間の課役を止める。仁徳天皇10年、ようやく課役を命じ、宮室を造る。
  2. 河内平野における水害を防ぎ、開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤〔まむた(まんだ)のつつみ:大阪府寝屋川市付近〕の築造を行った。
  3. 仁徳天皇12年、山背の栗隅県(くるくまのあがた:京都府城陽市西北〜久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
  4. 仁徳天皇13年、茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
  5. 仁徳天皇13年、和珥池(わにのいけ:奈良?) 横野堤(よこののつつみ:大阪市生野区)を築造した。
  6. 仁徳天皇14年、猪飼津に橋を渡した。そこを名付けて小橋(おばせ)といった。
  7. 仁徳天皇14年、灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ:大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
  8. 仁徳天皇41年、紀角宿禰(きのつぬのすくね)を百済に遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

フィールドノート


今も語りかける茨田堤

茨田堤が『日本書紀』に現れるのは仁徳天皇11年の頃である。天皇は群臣に「いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃は少ない。また、川の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上がり、村人は舟に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ」といわれた。こうして現在の淀川のように海への川筋に造成しようとした堤防が茨田堤である。

茨田堤は現在の寝屋川市太間町にある太間天満宮付近から、門真市宮野町にある堤根神社、さらに南の北島付近まであったとされる(添付地図の2本ある堤のA部分)。現在は淀川の川筋は大きく変わっているが、一説には守口市の高瀬までとあり(添付地図B部分)、そうだとすれば約14kmの長さになる。

さて、堤防の建設にかかったが、当時の技能集団であった渡来系の人々の技術を駆使しても、2か所の切れ目がどうしてもつながらなかった。伝承によれば、天皇の夢に現れた神が、「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人を川の神に奉れば、きっとできるだろう」と告げる。天皇はさっそく二人を探し出し、強頸は泣く泣く人柱となり堤の1カ所はつながった。もう一人の衫子は丸いヒサゴ(ひょうたん)を2個持参してこう言った。「私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまい浮かぶことはないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神と思うから、無駄に我が身をほろぼすことはない」とヒサゴを流した。するとつむじ風が起こりヒサゴを沈めようとしたが、沈むことなく流れていった。衫子は死ぬことはなく、その堤も完成した。人々はつながった2カ所の切れ目を「強頸絶間(こわくびのたえま)」「衫子絶間(ころもこのたえま)」と呼んだ。

茨田堤の故事を伝えているのが、門真市宮野町の「堤根(つつみね)神社」と寝屋川市太間町野「太間(たいま)天満宮」である。堤根神社社殿の裏手には、建て込んだ住宅街の中を流れる細い川(旧淀川の支流古川)と並行する狭い道路沿いに、堤防状の盛り土がフェンスに囲まれて保存されている。これが往事の茨田堤の形を伝える遺産だが、今では大きな川があったとは想像もできない。この堤が造られるまでは、おそらく古川も大きな川筋で、前述のように一帯を水没させていたのだろう。「古代とも言える時代に、暴れ川であった淀川に堤を造り、川を手なずけようとしたことは、大阪の繁栄と発展の端緒になったのでしょう。私たち住民はこの遺跡を大切に守っていかなければなりません」と堤根神社宮司の濵徹さんは語る。

一方、寝屋川市の太間天満宮には衫子が祀られている。権力に動ぜず、迷信にもとらわれずに物事を合理的に判断し実証して見せた、その機智を讃える石標がある。石標には物語の現場はここから東へ400mのところだとあるが、市街化され川筋も変わった今となっては、当時を窺い知ることはできない。また、太間天満宮からほど近い淀川の堤防上に「茨田堤」と彫られた大きな石碑が建っている。その淀川の堤防の上で、堤根神社で見た堤防(茨田堤の盛り土)と現在の堤防を思い比べてみる。おそらくその差は数百倍はあろうか。それにしてもあの小さな堤防で自然の猛威に立ち向かった仁徳天皇の挑戦は、とてつもない冒険であったことがひしひしと感じられた。


地名に残る堀江と高津宮(たかつのみや)

難波宮跡の遺跡に隣接するNHK大阪放送会館や大阪歴史博物館の前の広場に、高床式倉庫が復元されている。これが16棟以上も建ち並んでいた「法円坂遺跡」で、古墳時代中期(5世紀)後半の遺構といわれる。この遺跡は、時代的にみても飛鳥時代半ばに造られた前期難波宮に重なる遺構でもあることから、ここが仁徳天皇の難波高津宮ではという説もあるが、大阪歴史博物館の学芸員は、それを証明する物は出土していないという。

見つかった倉庫跡などの遺構は歴史博物館の地下部分に完全な形で保存されていて、見学することができる。出土した倉庫群は何を語るのか。それらは仁徳天皇が活動を始めた時代とも重なることから、ひょっとすると難波宮跡、あるいは大阪城辺りに「高津宮」があってもおかしくはないと思われる。残念なことにその表層部分には前述の歴史的遺産があるため、発掘調査は難しい。

また、現在の地形からは想像しにくいが、上町台地の北端には淀川が流れ込み、東側は淡水湖になっていて洪水が頻発した。そこで天皇は、宮の北部を掘って東側の水を西の海(大阪湾)に流させた。その時できた水路を「堀江」という。現在の堀江とは位置が少し異なるが、その名は確実に残った。

この他にも、「高津宮」を示す石碑が大阪府立高津高校内にある。これは明治32年(1899)に大阪市が仁徳天皇1500年祭を行うにあたり、仮説的に高津宮跡としたものらしい。高津宮境内の絵馬殿には、天皇の国見のようすを描いた想像の絵が掲げられているが、この場所も推測の域を出ない。上町台地の各所で発掘調査はかなりの範囲で行われているが、『日本書紀』に克明に記されているにもかかわらず、分からないというのが現状という。


仁徳天皇陵は世界一

世界で一番大きな墓といえば、まず思い浮かべるのはエジプトのピラミッドや中国の始皇帝陵だろう。しかし、5世紀頃に築かれたといわれている仁徳天皇陵(大仙古墳、大山古墳、百舌鳥耳原中陵など)が陵域総面積47万8572㎡(阪神甲子園球場12個分)もある世界最大級の墓と聞けば、改めてその全容が知りたくなる。

JR阪和線「百舌鳥駅」を降りてすぐ近く、森のような丘陵が仁徳天皇陵の墳丘と濠である。周囲を歩くと大きな公園の中を歩いているようで、あまりにも広すぎて地上からではその全容は捉えられない。

この巨大古墳を仁徳天皇の墓とする証拠は未だにない。墳丘の長さ486m、周囲の三重の濠を含む全長は840m。これほどの巨大な墓を造ることができた人はおのずと限られ、『宋書』にでてくる「倭の五王」の一人かもしれないというのが大方の見方のようだ。いずれにしても、12基余りの倍塚〔ばいづか(ばいちょう):大きな古墳に従うように造られた小さな古墳)や消滅した古墳も含めると19基もの倍塚を持つ仁徳天皇陵と呼ばれる大仙古墳には、どのような人が埋葬されたのか。謎に満ちた古墳時代だけにロマンは広がる。

御陵南側にある堺市博物館の学芸課長、白神典之さんは「大仙陵古墳が仁徳天皇陵だと決定づけるものはないので学術的議論はできません。ロマンの世界です。ただ、具体的な例を挙げて天皇の存在を実証する人はいないかもしれませんが、市民の多くは御陵に対して誇りを持っています」と語る。ちなみに同博物館では、百舌鳥古墳群や仁徳天皇陵についてさまざまな資料が展示され、大スクリーンによる映像も見ることができる。

地元の人々は大仙陵古墳を「仁徳さん」「御陵さん」と親しみを込めて呼ぶ。御陵の前で手を合わせる人も多く、丁寧に祝詞(のりと)をあげる人も見かける。堺市民、ことに周辺に住む人たちの古墳に対する思いは強い。周辺の自治会や地域団体などで構成する「仁徳陵をまもり隊」をはじめ、学校や各種団体の幅広い年齢の人々がボランティアで清掃活動を行い、古墳を美しく保ち、守る活動を積極的に行っている。その人数は年々増え、輪が広がっているという。

さらに現在、大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市が一体となって、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録の早期実現を目指した取り組みを進めている。民のかまどを心配された仁徳さん。その治政や人徳への親しみ、尊敬は悠久の時を経ても人々の心の中に息づいている。

2016年5月
(2019年4月改訂)

中田紀子

≪参考文献≫
 ・宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳』講談社
 ・寝屋川市文化スポーツ課『寝屋川市の歴史』
 ・大阪歴史博物館『復元前期難波宮』
 ・大阪歴史博物館『古代難波の序章』
 ・難波高津宮『難波高津宮案内記』
 ・大阪観光情報 大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)
 ・堺市文化観光局博物館学芸課『仁徳天皇陵古墳百科』



≪施設情報≫
○ 堤根神社 茨田堤跡と碑
   大阪府門真市宮野町8–34
   アクセス:京阪本線「大和田駅」より北へ徒歩約3分

○ 太間天満宮 茨田堤碑
   大阪府寝屋川市太間町10
   アクセス:京阪本線「香里園駅」より西へ約1200m

○ 高津宮
   大阪市中央区高津1–1–29
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町九丁目駅」2番出口より徒歩約5分

○ 高津宮址碑(大阪府立高津高等学校内)
   大阪市天王寺区餌差町10番47号
   アクセス:大阪メトロ千日前線・JR大阪環状線・近鉄難波線「鶴橋駅」より北西へ約800〜900m

○ 仁徳天皇陵(大仙古墳)
   大阪府堺市堺区大仙町
   アクセス:JR阪和線「百舌鳥駅」より西へ約500m

○ 大仙公園事務所
   大阪府堺市百舌鳥夕雲町2丁204
   アクセス:JR阪和線「百舌鳥駅」より徒歩約5分

○ 大阪歴史博物館
   大阪市中央区大手前4丁目1–32
   アクセス:大阪メトロ谷町線、中央線「谷町四丁目駅」・2号、9号出口

○ 堺市博物館
   大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁204
   アクセス:JR阪和線「百舌鳥駅」より約500m

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