第63話
庶民に慕われ続ける平安時代の天才政治家
菅原氏の祖先は、奈良時代までは土師(はじ)氏と呼ばれた。土師とは、字のごとく「埴輪をつくる」という意味があり、土師氏は貴族の葬祭を仕切っていたらしい。しかし父のとき(桓武天皇の時代)、居住地の「菅原」の名にしたいと改姓を申し出て許されたと伝わる。
道真が生まれたのは承和12年(845)。父是善(これよし)は文章博士(もんじょうはかせ:漢文や歴史などの教官)。出生地は、父の私塾があった京都市上京区烏丸下立売、京都御所西側の菅原院天満宮と伝えられる。しかし他にも下京区仏光寺通の菅大臣社や奈良市菅原町の菅原天満宮など諸説があり、奈良の地は道真の母が菅原氏の本拠であるこの地に帰り、道真を出産したとされている。
父、祖父とも文章博士という血を引く道真は、幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862)、18歳で文章生となり、5年後には成績優秀者である文章業生に昇進し、正六位下に叙せられた。元慶元年(877)には式部少輔となり、家の職である文章博士を兼任する。宮中に入ってからは昇進に次ぐ昇進を重ね、宇多天皇と対立していた藤原氏への牽制も兼ね、要職を歴任する。そして昌泰2年(899)、右大臣の位を得る。秀才というよりも古今まれにみる天才といってよく、政治家よりも学者肌といった道真に貴族たちの期待が寄せられていた。
道真は、上皇の制度と内覧(現在の首相のようなもの)制度という政治改革を成し遂げた。さらに、長年続いた遣唐使を「もう唐から学ぶべきものはない」として廃止。乱れきった荘園整理の大改革を実施し、財政再建を行った。こうした道真の辣腕ぶりに、宇多天皇は深く信頼を寄せ、敦仁親王(後の醍醐天皇)に譲位しても道真が補佐する限りは大丈夫と、自らは上皇となった。が、好事魔多しというように、道真の運命は突然暗転する。
昌泰4年〔延喜元年(901)〕1月、醍醐天皇は藤原時平・道真を左右大臣とし政務を任せるが、若い時平の讒言(ざんげん)を受け入れ、早くも同月25日、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷する。34年にわたる治世を行った醍醐天皇唯一の瑕(きず)とされる「昌泰の変」である。道真は藤原氏一派の術策に陥ったともいわれ、宇多上皇の取り成しも空しく九州大宰府へと下った。
これには藤原氏の権利を守ろうとした時平の陰謀に、儒学者の藤原菅根(すがね)と、道真左遷の後右大臣になった源光(みなもとのひかる)が加担していたと人々は見ていた。
延喜3年(903)、道真は都への復帰の願いも叶わぬまま、大宰府で亡くなり同地に葬られた。その後、都では異変が相次いで起こった。政敵時平が39歳で病死し、源光も狩猟中に落雷に遭い泥沼にはまって亡くなり、係累も次々に病死。道真の死後20年も後、朝議中の清涼殿が落雷で焼け、昌泰の変に関与したとされる要人が死傷する。道真を左遷した醍醐天皇もその後崩御された。これを、怨霊と化した道真の祟りだと畏れた朝廷は、道真の罪を赦し贈位を行い、正暦4年(993)贈正一位左大臣とし、名誉の回復を図っている。
フィールドノート
菅原道真はなぜ神様になったか
天満宮とか天神という神社が全国数々あるが、どこが本家(総本社)なのか。それは誰もが知っている京都の北野天満宮である。
不遇のうちに亡くなった道真の死後次々と起こる厄災、さらに、二十数年も後に起こった平安宮大極殿の落雷のショックで亡くなった醍醐天皇の死が、いっそう道真の祟りと雷の結び付きを決定的なものとした。その後、朝廷の右近衛の馬場があった北野の地に天神を祀れとの神託が下ると、道真と親交があった藤原忠平(藤原時平の弟。道真の妹の娘を妻にしている)が、道真の霊の鎮魂と雷神の怒りを鎮めるために建てた社が北野天満宮である。
しかし、一般庶民が教育の必要性に目覚めた江戸期に入ってから、菅原道真が当代きっての優秀な学者であったことから恐ろしい怨霊神が学問の神様になり、「天神さん」と広く親しまれるようになる。
いま、道真の博識にあやかろうと受験のシーズンともなれば、境内は願をかける受験生や、家族が殺到し熱気に溢れている。
天神祭の成立(大阪天満宮)
千年を経ても変わらぬ道真への思い
大阪に大阪天満宮ができたのは平安時代の天暦3年(949)のこと。それ以前はこの地の鎮守社として、星辰信仰や疫神信仰を基盤にする「大将軍社」があった。天の神「太白星(たいはくせい:金星)」を祀り、7月7日に星祭りが行われていた。いわゆる天神信仰である。
では、天満宮となって、現在の天神祭がいつから7月25日に行われるようになったのか。道真が亡くなった日が2月25日、大宰府へ左遷された日が1月25日、生まれた日が6月25日であることから、いつしか毎月25日が天神さんの縁日になり、さらに、明治時代になって新暦の7月25日を天神祭の日に定めたからだといわれている。
当初、平安中期の天神信仰は「学業成就」の神ではなく、畏怖すべき祟りをもたらす反面、その祟りを免れ安穏を与えてくれる「怨霊神」であり、時には激しい雷雨や長雨により凶作をもたらす反面、旱魃に慈雨を降らせる「雷神」でもあった。さらには、疫病を流行させる反面、その平癒を約束する「疫神」であった。天神信仰は数多くの神格を備えている。それが、いつしか道真にまつわる様々な怨霊を鎮めることだけにとどまらず、「天満大自在天神」の称号とあいまって「学業の神」として、人々は信仰するようになった。
道真は、あらゆる面で優れていた人であっただけに、晩年の理不尽な処遇に同情する人々の思いは深い。
天神祭では道真のお出ましをお祝いし、できるかぎり華麗に、そして陽気に振る舞い共に遊ぶ。裏を返せば、判官びいきの強い大阪人ならではの祭典といえる。
天神祭は道真を慰める大阪の祭り
天神祭でいう「渡御」とは、普段は本殿の奥深くにおられる神様(道真)が年に一度だけ、ご自分の氏地内の無事平安を見て回るために神輿で巡幸されることをいう。大阪天満宮の場合はその氏地が西に遠く伸びていたため、近隣を乗り物で巡幸した後、渡御船に乗り換え大川の御旅所に向かう。前半を陸渡御、後半を船渡御と呼ぶ。
当初は、天満宮がこの地に鎮座した翌々年の天歴5年(951)6月1日に社頭の浜から神鉾を流し、その流れ着いた浜辺が御旅所となり、同月25日に神霊をお遷(うつし)し、万民の罪や穢れを祓ったのが祭の始まりという。が、川は生きもの、船の運航に支障が出たりして何度も中断があり、現在の形になるには紆余曲折があった。
さて、現在の天神祭は、24日朝から天満宮本宮において宵宮祭が斎行される。本宮での式典の後、旧若松町の浜の斎場に一同が移動し、水無月祓(夏越の祓)の神事に移る。続く鉾流しの神事は、宮司から鉾を受け取った神童が斎船で川の中ほどまで漕ぎ出し、船上から神鉾を川に流す。現在行われているこれらの行事は、かつて行われた天神祭の流れを踏襲し、今に伝える意味合いがある。
翌25日は陸渡御である。まずは本殿で渡御の無事安全と人々の無病息災を祈願し、続いて、御鳳輦に御霊を移す「神霊移御祭」が行われ、渡御準備が整う。御鳳輦は行列の主格である。
明治9年(1876)に御鳳輦が登場するまでは、道真の御霊は鳳神輿に乗っておられたといい、鳳神輿とペアとなる重要な玉神輿には、平安時代の仏教界の頂点にいた天台座主法性房尊意が乗っている。尊意は道真が師と仰いだ僧侶で、能では道真が荒ぶる神となったとき、尊意が法力で調伏する場面がある。道真が荒ぶる神になったときに備え、尊意は絶えずお傍にいるという設定である。
そして夕暮れが刻々と近づき、いよいよ船渡御となる。船は総数100余り。御神霊を乗せた御鳳輦船などの奉安船を船列の中心に据えて川を巡行する。川面を埋めつくさんばかりの船団はそれぞれ意味を持つ。神霊をお迎えする「御迎人形船」には浄瑠璃や歌舞伎の登場人物の人形が乗っている。人形が必ず赤(緋)色を身につけているは「疫病(疱瘡)祓い」の意味があるという。隊列から自由に漕ぎまわる「どんどこ船」は船列の間を自由に漕ぎまわり、祭りの雰囲気を盛り上げる。
町の人々と道真の霊が、終日睦まじく鉦や太鼓で騒ぎ、夜は花火に興じることで、一年の幸を願うのが大阪の天神祭である。
道真ゆかりの場所
道真にとって昌泰4年〔延喜元年(901)〕正月の出来事は、まさに藤原氏の術中に陥ったものであった。道真の進める政治改革に一部の貴族が反発、これを察知した三善清行は道真に引退を勧告したが、実直な道真は聞き入れなかった。その結果、正月7日に従二位に叙せられたのは良いとして、早くも同月25日大宰府に左遷され、2月1日に京を出立するというあわただしさ。鳥が飛び立つような余裕のない中で、船待ち以外に立ち寄った可能性のある社寺は少ない。
京都から大阪へと淀川沿いには長岡天満宮、高槻上宮天満宮社などあるが、実の所これらはすべて後年の創建であって、道真が自ら訪れたのは叔母の住寺である道明寺(土師寺)や太融寺くらいであった。道明寺では「啼けばこそ 別れもうけれ 鶏の音の 鳴からむ里の 暁もかな」の一首を残した。
大阪には道真が紅梅を愛でるため船の艫綱(ともづな)をたぐり寄せて即席の座敷をつくったことが社名の由来となった「網敷天神社(大阪市北区)」がある。そのほか、持病の脚気を癒したと言い伝えられることから健脚御守りの藁草履で知られる「服部天神宮(大阪府豊中市)」、太融寺に参詣の道すがら「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」と詠んだことが社名の由来となった「露天神社(大阪市北区)」などがあり、道真がいかに長く庶民から慕われ続けているかが分かる。
死後、道真の名と神秘性は「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」の歌とともに大宰府から全国に広がり、北野天満宮を筆頭に各地に数千を越える天満宮、天神社が建てられた。
撫でるとご利益
天満宮や天神社に「撫で牛」といわれるうずくまった牛の像がある。大きさは大小さまざまで表情も違う。
なぜ牛なのか。
道真は承和12年(845)の丑年生まれとされている。そのためか、後世、牛と結びつける様々な逸話が伝承されている。
例えば、神社の由来を絵物語にした国宝「北野天神縁起絵巻」の随所に牛が登場する。
大宰府で道真は延喜3年(903)59歳で不遇の死を遂げている。その亡骸を祀ろうと牛車が予定していた墓所にむかっていたが、あるところに来ると牛がうずくまって動かなくなってしまった。道真の意志が牛に伝わり、動かなくなったのだと考え、その所を道真の墓所とし、後に大宰府天満宮が建てられた、と伝わる。
恐ろしい怨霊神から「天神さん」と広く親しまれる学問の神様へ。道真の神霊に対する信仰が「天神信仰」として広まり、侍従していた牛が後世には「神の使い」として、天神さまと私たちをとり結ぶ役割を担うようになる。
牛の信仰は「撫で牛信仰」として広がり、牛の像が数多く寄進されるようになったようだ。古くから「丑の日」の参拝も盛んで、牛を撫でると願いが叶うと信じられ、賢くなりたければ牛の頭を、腰が痛いと腰をさすり手を合わせる。うずくまる牛には諸病平癒の力があると信じられ、今も、牛たちが老若男女の参拝者に囲まれている。
2018年2月
(2019年4月改訂)
中田紀子
≪参考文献≫
・北野天満宮ホームページ
・大阪天満宮文化研究所編『天神祭 火と水の都市祭礼』
・大阪天満宮社務所『天神祭 平成27年版』
・大阪観光協会・協力大阪天満宮『天神祭』
・坂本太郎『菅原道真』(人物往来社)
・山田雄司『怨霊とはなにか』(中公新書)
・高槻上宮天満宮『てんじんさん風土記』
・大阪天満宮ホームページ『大阪天満宮』
・大阪観光協会『OSAKA天神祭 2001年版』
・上宮天満宮(高槻)『てんじんさん<冊子、リーフレット>』
・服部天神宮社務所『服部天神宮』
・服部天神具社務所『足の神様・服部天神宮 由緒』
≪施設情報≫
○ 北野天満宮
京都市上京区馬喰町
電 話:075-461-0005
アクセス:京都市バス「北野天満宮前」下車すぐ
○ 綱敷天神社
大阪市北区神山町9-11
電 話:06-6361-2887
アクセス:大阪メトロ堺筋線「扇町駅」より徒歩約13分
○ 露天神社(お初天神社)
大阪市北区曽根崎2丁目5番4号
電 話:06-6311-0895
アクセス:大阪メトロ谷町線「東梅田駅」より徒歩約5分
○ 大阪天満宮
大阪市北区天神橋筋2丁目1-8
電 話:06-6353-0025
アクセス:大阪メトロ谷町線・堺筋線「南森町駅」から徒歩約5分
○ 道明寺
大阪府藤井寺市道明寺1丁目14-31
電 話:075-955-0133
アクセス:近鉄南大阪線「道明寺駅」より徒歩約3分
○ 道明寺天満宮
大阪府藤井寺市道明寺1丁目16-40
電 話:072-953-2525
アクセス:近鉄南大阪線「道明寺駅」より徒歩約3分
○ 上宮天満宮
大阪府高槻市天神1丁目15-5
電 話:072-682-0025
アクセス:JR京都線「高槻駅」より徒歩約2分
○ 服部天神宮
大阪府豊中市服部元町1丁目2-17
電 話:06-6862-5022
アクセス:阪急宝塚線「服部天神駅」より徒歩約1分
○ 菅原天満宮
奈良県奈良市菅原東町518番地
電 話:0742-45-3576
アクセス:近鉄奈良線「大和西大寺駅」より南へ約800m