第82話
近世大坂が生んだ夭逝の天才学者
富永仲基は江戸中期、大坂尼ヶ崎町(中央区今橋3丁目)の醤油醸造業で、道明寺屋吉左衛門(富永芳春(ほうしゅん))の三男として生まれた。仏教、儒教、神道に関する著書、『出定後語(しゅつじょうごご)』などを著し、32歳の若さで亡くなった。その後、本居宣長(1730~1801)や平田篤胤(ひらたあつたね)(1776~1843)が『出定後語』に着目したが、長く「忘れられた思想家」だった。明治中期、東洋史家・内藤湖南(ないとうこなん)(1866~1934)が「日本で第一流の天才」と高く評価し、江戸期を通じて最も独創的な思想家の一人とされている。
仲基の父・芳春は商売同様学問にも熱心で、儒学者・五井持軒(1641~1721)、三宅石庵(1665~1730)に学んだ。亨保9年(1724)に仲間4人と学問所・懐徳堂を創設し、隠居所を講舎に提供した。学主に大坂大火「妙知焼」のあと平野・含翠堂に逃れていた石庵を招く。大坂の商家は江戸中期、元禄バブルと人口増などで規模が拡大してきたが、亨保になって幕府の緊縮財政が始まり、商家経営が曲がり角に来ていた。社会的自覚や商人倫理の確立が求められるようになっていた。
仲基はさっそく懐徳堂で石庵から習字、漢文を学び、別に雅楽管絃も習った。16歳のころに儒教を批判した『説蔽(せつへい)』を著す。この著書は現在、伝わっていないが、他の著書から推察すると、儒学思想を分析批評し、神聖視されていた孔子や子思、孟子を歴史的に相対化するという衝撃的な内容だった。懐徳堂は亨保11年(1726)に幕府の許可を受けた大坂学問所となっており、この本は大きな波紋を起こした。仲基は石庵から破門されたとも、仲基自ら懐徳堂から離れたとも言われている。
仲基はその後、京へ移り、さらに弟・荒木蘭皐(あらきらんこう)(1717~1767)の縁で、池田に来ていた儒学者で漢詩人の田中桐江(たなかとうこう)(1668~1742)と親交を深める。仲基は弟とともに桐江の始めた漢詩文の結社「呉江社」に参加、漢詩文などを学んだ。仲基は10年余に及ぶ仏教研究を経て延享2年(1745)、『出定後語』を大坂で出版した。
『出定後語』は仏教思想発達史で、科学的ともいえる論理的な分析手法を駆使して釈迦以前からの仏教の歴史を示した。第一に「加上(かじょう)」という概念を提示し、数多くの経典を引用しながら「新しい教説を立てようとする者はすでにある教説よりも、より古い時代に自らの根拠を求め、それによって前説をしのごうとする」ことを示した。
第二に「三物五類」という説を打ち出す。三物とは「言有人」「言有世」「言有類」で、「言に人あり」は、同じ言葉を使っても人によって意味するところは違うという。「言に世あり」は、仏教の翻訳を見ても時代によって翻訳者が違うと同じ言葉でも意味が違ってくるという。「言に類あり」は、言葉を「張」「偏」「泛(はん)」「磯(き)」「反」の五つに分類し、「張」は誇張された比喩的な意味、「偏」は原義である狭い意味、「泛」は広い意味、「磯」は原義から引用された新しい意味、「反」は悪い意味に用いられていた言葉が良い意味に使われることと定義した。仲基は、教義や言葉が時代や状況によって変化するのでこの五類を知らなければ、研究は出来ないとし、時代を超えた言語学的研究方法を提起した。
第三は「くせ」と表現して思想に国民性があると説いた。インドの仏教は手品のような「幻術」、中国の儒教は文言の誇張を意味する「文辞」、日本の神道は「神秘・秘伝・伝授」を上げた。仲基は若いころ、伊藤仁斎(1627~1705)の古義学に出会い、その後仁斎を批判した荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)の古文辞学にふれ、反徂徠の立場を明確にしていく。最後の著書となった『翁(おきな)の文(ふみ)』で「仏は天竺の道、儒は漢の道、国ことなれば、日本の道にあらず。神は日本の道なれども、時ことなれば、今の世の道にあらず」と述べ「誠の道」を説いた。仲基は晩年、池田で出会った歴史学者で学僧の日初(1701~1770)と日本の通史『日本春秋』執筆に意欲を燃やしたが、肺炎のため世を去った。
京都産業大学の宮川康子教授(近世日本思想史)は大阪大学大学院在学中、同大学附属属図書館で仲基の学友・井狩雪渓の『論語徴駁』を読んでいて仲基による徂徠批判の膨大な書き込みを見つけた。著書『富永仲基と懐徳堂』に「仲基の肉声を聞いたと思った」と書いている。「仲基は、伊藤仁斎の人間中心主義を突き進め、徂徠を批判し、人間理性に立脚した合理主義を唱えた」と話す。
「忘れられた思想家」と内藤湖南が発掘
『関西文運論』という評論が明治29年(1896)4月から11月まで大阪朝日新聞に34回連載された。筆者は内藤湖南。この中で、内藤は「徳川三百年間、毛すじほども他人に頼らずに、断々乎たる独創的新見解の説を作り上げたのは」富永仲基、三浦梅園、山片蟠桃の3人と紹介した。さらに内藤は『翁の文』が大正13年(1924)に古書店で見つかると、さっそく自費で複製して仲基の業績を顕彰した。
内藤は慶応2年(1866)、旧南部藩士の儒者・内藤調一の次男として十和田湖の南の秋田県鹿角市で生まれた。秋田師範学校高等科卒業後、雑誌記者を経て明治27年(1894)9月、朝日新聞社に入った。『関西文運論』は伊藤東涯、萩生徂徠、賀茂真淵、荷田春満、村田春海などの業績を分かりやすく紹介しており、のちに『近世文学史論』と改題して出版され、内藤の名声が一気に高まった。
明治29年(1896)11月、松方内閣書記官長秘書に転出したが、4年後に朝日新聞社に復帰し、明治39年(1906)7月に退社するまでの6年間に269編にのぼる論説を執筆した。翌年に京都帝国大学文科大学の東洋史学講師に就任、明治42年(1909)に教授となって大正15年(1926)に退官するまで京都大学シナ学の伝統を築いた。
内藤には仲基の人と学問を紹介した論文が明治26年(1893)の雑誌『日本人』をはじめ5編もある。大正14年(1925)に開かれた大阪毎日新聞15000号記念講演会の講演録「大阪の町人学者富永仲基」が「先哲の学問」(1946年)に収録されている。「ずいぶん若いときから私は崇拝しておりまして・・・『出定後語』という本を読んで敬服した」と話し、『出定後語』を「仏教を批評的に研究した日本で最初の著述であります」と述べ、「日本人が学問を研究するに、論理的基礎のうえに研究の方法を組み立てるということをしたのは、富永仲基一人といってもよろしいくらいであります」と絶賛している。
フィールドノート
江戸時代の池田で文人サロン
富永仲基が通った田中桐江の墓碑が池田市の五月丘公園の東、綾羽2丁目の大広寺にある。池田城主だった池田氏の菩提寺でもある。桐江は出羽国庄内(山形県鶴岡市)生まれで、江戸に出て朱子学や兵法を学び、儒学者・荻生徂徠の推挙で将軍・綱吉のご用人・柳沢吉保に仕えていたが、吉保の奸臣を切って出奔、池田に隠棲していた。桐江のもとには近在近郷の漢詩文同好の士が集まり、結社「呉江社」が生まれた。同人は19年間に114人に上り、桐江を中心に池田学派とも呼ばれる漢詩文の文化が花開くようになった。
池田は、麻田藩2代目藩主の青木重兼(1606~1682)が文武を奨励し、承応3年(1654)に中国から「明」の最新の文化を持って渡来した隠元禅師を招き、仏日寺を開山するなど、進取の気風に溢れていた。隠元は臨済宗の高僧で、日本からの度重なる招請に応じて63歳の時に弟子20人を伴って来日した。重兼は隠元の日本滞留活動にかかわり、寛文7年(1667)の黄檗(おうばく)山萬福寺の大雄宝殿建立では造営奉行を務めた。仏日寺には黄檗宗の高僧が歴代住持に赴任してきており、仲基と黄檗宗の高僧との交流があったかも知れない。
「池田人物誌」と「池田郷土史学会」
大正12年(1923)に池田で発刊された「池田人物誌」は上下2巻900頁に上る。呉春や田中桐江、狩野派の画家の桃田伊信ら約30人を網羅し、富永仲基は呉春、荒木蘭皐の長男で漢詩人の荒木李𧮾(1736~1802)に次いで50頁近くがさかれている。その中に桐江同人の漢詩集「呉江水韻」に載った仲基の漢詩も紹介されており、仲基が病弱で、病に悩んでいたことが分かる。
「池田人物誌」は、漢学者で漢詩人の吉田鋭雄(よしだはやお)(1879~1948)と漢学者で美術史家の稲束猛(1889~1927)が江戸時代に池田で活躍した文人の研究成果をまとめたものだ。吉田は朝日新聞に勤めたが、体調を崩して退社した。その際、当時の編集局長の西村天囚(1865~1924)から田中桐江の研究を勧められたという。吉田は池田で漢詩文の研究と詩作に傾注し、大正3年(1914)に全国に先駆けて郷土史研究の「池田史談会」を結成し、その中心メンバーになった。また、大正5年(1916)に再建された「重建懐徳堂」の助教授、教授も務め、重建懐徳堂の運営に尽力した。
池田史談会は戦時中、活動が一時停止したが、昭和27年(1952)に「池田郷土史学会」として再興した。郷土史研究や郷土の歴史に関する知識の普及を掲げ、講師を招いて歴史講演会や研究発表会、見学会を開いている。会員は約90人、例会は660回を数える。成果は『池田郷土研究』として年報を発行、富永仲基も取り上げられている。
石濱純太郎が「富永仲基招魂碣」を建碑
富永仲基の墓は見つかっていない。代わって招魂碑が大阪市天王寺区下寺町2丁目の西照寺にある。「冨永仲基招魂碣」と刻まれており、仲基の父親・芳春の墓石など一族の墓石8基の真ん中に置かれている。西照寺では「戦災ですっかり焼け、記録が残っていません」と話し、建立の経緯は分からなくなっていた。
平成30年(2018)10月、筆者は関西大学で開かれた「石濱純太郎没後50年記念国際シンポジウム」の「石濱純太郎とその学問・人脈」展を観て驚いた。展示の中に「冨永仲基招魂碣」の拓本の写真があった。図録に漢学塾・泊園書院で学んだ書家で書道史研究家の三原研田(1915~1996)が揮毫したとある。書の字体は珍しい六朝楷書で、三原は『研田書記』(私家版、1975年)に「小生27歳。石濱純太郎博士から委嘱を受けて揮毫・・・招魂碑を書く感激は今も脈打つ」と書いている。
石濱純太郎(1888~1968)は泊園書院で学び、内藤湖南に師事した東洋学者。石濱著『富永仲基』(1940年)によると、昭和12年(1937)に仲基の没年が確定したので湖南先生の遺志を継いで追遠法会を計画した。準備中に仲基の末弟の子孫宅で『楽律考(がくりつこう)』の写本が見つかった、とある。石濱らは同年10月3日に西照寺で『楽律考』などを展示し、湖南門下の有志100余人が仲基の追遠法会を盛大に催している。泊園記念会会長で関西大学の吾妻重二教授は「仲基の顕彰に熱心だった石濱が三原に揮毫を依頼し、昭和17年(1942)に建碑されたようだ」と話す。
中之島で仲基生誕300周年トークサロン
平成27年(2015)3月、大阪大学21世紀懐徳堂は京阪電車なにわ橋駅地下1階のアートエリアB1で「生誕300周年 近世大坂が生んだ天才学者富永仲基トークサロン」を開いた。会場には京阪神各地から若者から年配者まで定員を大幅に上回る約90人が集まった。富永仲基を知っていたという人は参加者の半数近くにのぼり、事務局を担当する大阪大学社学連携課の担当者を驚かせた。
ゲストは相愛大学教授で僧侶の釈徹宗さんと大阪大学大学院文学研究科懐徳堂研究センターの福田一也さんで、大阪大学コミュニケーションデザインセンター招聘教授の高島幸次さんと元大阪大学21世紀懐徳堂特任研究員でアートディレクターの荒木基次さんがカフェマスターを務めた。この中で釈さんは『出定後語』について「当時の人は、仏典は全部お釈迦さんが説いたものと思っていた。仲基は仏典の成立順序を示し、釈迦を相対化した。32歳で亡くなっているが、短期間にこれだけの文献を読んだのはすごい。最後は『誠の道』を説いたが、あと10年生きて欲しかった」と話した。
2019年2月
宇澤俊記
≪取材協力≫
・京都産業大学教授 宮川康子氏
・関西大学教授、泊園記念会会長 吾妻重二氏
≪参考文献≫
・日本の名著18 責任編集加藤周一『富永仲基 石田梅岩』(中央公論社 1972・5)
・日本思想体系43『富永仲基、山片蟠桃』(岩波書店1973・8)
・宮川康子『自由学問都市大坂』(講談社 2002・2)
・宮川康子『富永仲基と懐徳堂』(ぺりかん社1998・11)
・日本の名著41 責任編集小川環樹『内藤湖南』(中央公論社 1984・9)
・石濱純太郎『富永仲基』(創元社 1940・11)
・印藤和寛『富永仲基研究の現状』(池田郷土史学会「池田郷土研究」第15号 2013・4)
・朝日新聞百年史編集委員会『朝日新聞社史 明治編』(朝日新聞社1990・7)
・池田市立歴史民俗資料館特別展『池田文化と大坂』(池田市立歴史民俗資料館 1992・10)
・池田市、池田市教育委員会編『続池田学講座ー人物編』(2009・10)
・吾妻重二編『石濱純太郎とその学問・人脈』(関西大学東西学術研究所 2018・10)
≪施設情報≫
○ 富永仲基の碑と一族の墓(西照寺)
大阪市天王寺区下寺町2–2–45
(真ん中が仲基の招魂碣、右端が父親の芳春の墓)
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約3分
○ 田中桐江の墓碑(大広寺)
大阪府池田市綾羽2–5–16
アクセス:阪急宝塚線「池田駅」西口より徒歩約15分
○ 懐徳堂旧阯碑
大阪市中央区今橋3–5 日本生命ビル南側壁面
アクセス:大阪メトロ御堂筋線・京阪電車「淀屋橋駅」よりすぐ
○ 隠元禅師が開山した麻田藩菩提寺・仏日寺
大阪府池田市畑1–18–17
アクセス:阪急宝塚線「石橋駅」または「池田駅」よりバスで約10分、石澄(渋谷高校前)下車