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第75話 叡尊えいそん (1201 〜 1290年)

鎌倉時代、旧仏教改革の旗手

「鎌倉新仏教」の通説がぐらついている。鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が広がったと言われてきた。しかし、近年の研究で、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったことが分かってきた。

南都・西大寺の叡尊は旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者は全国に爆発的に広がった。晩年には院宣によって内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになる。

叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれた。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となった。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺(京都市伏見区)の叡賢に預けられる。17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になった。高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入った。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことをさす。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいた。妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向かう。不淫の戒など守られていなかった。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意する。覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱した。

西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した。しかし、創建当時100余あった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいた。叡尊らが活動の理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことだ。叡尊の妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めないといった戒律を厳格に守る清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建も進んだ。仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出す。

叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開し、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めた。一方、鎌倉に下った忍性の活動で鎌倉幕府とも関係が深まり、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がった。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得た。

叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上った。死後、亀山上皇の院宣により興正菩薩の貴号が贈られた。


フィールドノート

河内の拠点、西琳寺と「女人救済」


大阪と奈良を結ぶ日本最古の官道「竹内街道」と京都から高野山を結ぶ「東高野街道」が羽曳野市古市地区の「簑の辻」で交わる。古市は古来からの交通の要衝だ。その北東角に叡尊が復興した西琳寺がある。

伝承によると、西琳寺は欽明天皇20年(559)に百済系渡来人の西文氏(かわちのふみうじ)の氏寺として建立された。境内に長辺が3.2m、短辺が2.8m、高さが1.95mもある巨大な石がある。古代寺院の塔の心礎で、上面中央に添柱穴のある柱穴があり、柱穴の片側の側面には舎利孔、柱穴の底面に「刹」の字が刻まれている。飛鳥時代の瓦や鴟尾も出土しており、創建時は壮大な伽藍が建っていたことがうかがえる。

叡尊は建長6年(1254)3月、初めて西琳寺を訪れ、232人に菩薩戒を与えた。その後間もなく甥の惣持が西琳寺の住持に入り、講堂本尊の修復や鐘楼の建立などを行い、「真言律宗」の河内の活動拠点となった。

惣持は教団で「女人救済」活動の中心的役割を担っていた。平安時代末期から家父長制が浸透し、女性は男性に従うものという五障三従(ごしょうさんしょう)観が広がった。これに対して惣持は母性尊重をもとに、旧仏教では顧みられなくなっていた女性の教化、救済に取り組み、尼寺の復興・造営などを進めた。

西淋寺には石造五輪塔が5基ある。昭和32年(1957)に近くの高屋城跡の土塁の下から見つかった。花崗岩製で最も大きなものは高さ3.1mあり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりだ。昭和45年(1970)に大阪府の有形文化財に指定された。なお、現在の西琳寺は高野山真言宗の寺院となっている。

西琳寺から大和川を越えて北へ東高野街道を歩くと、2時間弱で八尾市高安地区の教興寺に着く。教興寺は飛鳥時代、聖徳太子の発願によって秦河勝(はたのかわかつ)が建立したが、すっかり荒廃していた。聖徳太子への思慕の篤い叡尊は文永6年(1269)に復興を決意、翌年に1694人に菩薩戒を授け、復興が進んだ。弘安3年(1280)には信者の寄進で梵鐘が鋳造された。この梵鐘は重文に指定され、現在、高野山霊宝館に保存されている。


蒙古襲来と神国・神風思想




石清水八幡宮の頓宮殿から西50mに日本最大級の「五輪塔」が建っている。高さ6.08m、下部の方形は一辺2.44mに及び、国の重要文化財に指定され、「航海記念塔」と呼ばれている。尼崎の商人が宋との海外貿易で遭難し、石清水八幡宮に祈って無事帰り着き、お礼に建立したという伝承がある。しかし、刻銘がないため、実際は誰が立てたか分からない。叡尊らが蒙古軍の兵士を供養するために建立したという説がある。

叡尊は文永5年(1268)、フビライの国書が届くと、さっそく四天王寺で国難を払う仏事を行った。叡尊は蒙古の動向に関心を払っていた。第1次モンゴル・南宋戦争(1235〜1241)の直後、弟子二人が宋に渡った。渡海翌年に住吉神社で渡海安穏と聖教奉請の成就を祈願している。第2次戦争(1253〜1259)のあとにも弟子が入宋帰朝している。文永の役(1274年)の翌年には蒙古の再来に備え、四天王寺や住吉神社に参詣して一門100人余と精力的に勤行を行った。

弘安4年(1281)7月、再度の蒙古襲来時、叡尊は京都西山の浄住寺にいた。自伝『感身学正記』によると、閏7月1日、叡尊は一門300人を引き連れて石清水八幡宮に参詣、総勢560人の僧が国家鎮護の祈祷を行った。叡尊が「八幡大菩薩におかれては、東風をもって敵船を本国に吹送り、乗人を損傷することなく乗船を焼失させ給うように」と述懐したところ、大風が吹き始め、雷鳴がとどろき、西方に向かって移動していった。9日になって六波羅探題から「異国の兵船は閏7月1日の大風によって皆破損し終わった」と報告があったとなっている。

この出来事は弟子がまとめた『異国襲来祈祷注録』によって大いに脚色される。勤行は石清水の山上山下に大呪を誦(しょう)する声が天まで響いた。大菩薩の玉殿が大振動し、御殿の戸が開き、「異賊降伏のために鏑矢を遣わそう」との八幡大菩薩の神託があり、御前の弓弦の音が天に響き、鏑矢の光が雷の如く響いて西を指して飛行していった、と書いた。石清水八幡宮の祠官による『八幡愚童訓』では、叡尊は蒙古襲来を止めるために異朝の王に生まれ変わったことになった。叡尊の祈祷が「神風」と称され、太平洋戦争中はこの出来事が戦意高揚につながる神国・神風思想の象徴となった。

しかし、叡尊は弘安の役で敵味方双方に多大な犠牲者が出たことを悔やむ。「八幡神は殺生の罪を犯して慚愧し、減罪としての放生を願っている」として、宇治橋の再興と宇治川の殺生禁断を祈願した。弘安9年(1286)に宇治橋は完成し、漁師に網代を撤廃させ、漁具を沈め、漁師には宇治茶の栽培を教え、浮島に十三重の石塔を建てたと伝わる。


鎌倉の大仏と河内鋳物師

「堺市立みはら歴史博物館」で平成29年(2017)11月から同30年(2018)1月まで「河内鋳物師の誇り―鎌倉大仏の鋳造と東国の鋳物師」という企画展が開かれた。同博物館は阪和自動車道美原ジャンクション近くの側道沿いに平成15年(2003)に開館した。付近一帯は丹南地区といわれ、真福寺遺跡などから発掘された河内鋳物師の歴史資料が常設展示されている。

展示室の正面真下に大きな遺構が展示されている。阪和自動車道築造工事の事前調査で見つかった梵鐘の土坑だ。長辺3.3m、短辺2.6m、深さ0.8m。鋳型を固定した掛木の痕跡がある。この発見でこれまで史料や梵鐘の銘文でしか分からなかった鋳造手法が明らかになった。丹南地区は平安時代から鎌倉時代にかけて鋳造技術者集団の本拠だった。平家の南都焼き討ちで損傷した東大寺大仏の修復では宋の鋳物師の指導下、河内鋳物師も修復に参加した。

叡尊は建長6年(1254)に初めて真福寺(廃寺、堺市美原区)を訪ね、165人に菩薩戒を授けた。また、文永3年(1266)12月には塔供養に合わせて病人や困窮民1000人余に飲食を与えている。真福寺は西琳寺、教興寺と並んで鎌倉将軍家祈祷寺にも指定され、拠点寺院となった。

叡尊らが復興した寺院の梵鐘の多くが丹南地区で作られていた。教興寺の梵鐘にも河内鋳物師の銘がある。鎌倉大仏は発願者、完成時期など記録が残っていないが、大仏の完成は文応元年(1260)から文永元年(1264)の間と見られている。真福寺での叡尊の活動と忍性の関東下向、大仏鋳造のころが時期的に重なる。しかも大仏建立後、関東に移った河内鋳物師は、真言律宗に深く傾倒している。企画展担当者は、鎌倉の大仏は河内鋳物師が造ったことはほぼ間違いないと話す。


四天王寺西門は浄土への入り口


四天王寺の西の入り口に高さ8.1m、横幅11.8mの大きな石鳥居がある。扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれている。神仏習合だ。忍性は叡尊の没後、かつて叡尊が務めた四天王寺別当に就任した。この石鳥居は忍性が永仁2年(1294)に建立した。いまこの鳥居の下を訪日外国人が絶え間なくスーツケースを転がしながら行き来する。大阪観光局の平成29年(2017)末の調査では、訪日外国人の訪問先ランクで、四天王寺は道頓堀、大阪城、USJと並びトップ10に入っている。

鎌倉時代、四天王寺の西門には病人や社会的困窮者があふれていた。謡曲『弱法師(よろほうし)』、浄瑠璃『摂州合邦ヶ辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の題材になった俊徳丸が継母に追われて失明し、物乞いになって行き着いたのもここだった。西門が極楽の東門と考えられ、西方浄土への往生を祈る人々が集まった。

叡尊らの大規模な救済活動の記録として、文永6年(1269)3月の奈良坂・般若寺(奈良市)のケースがある。2千人の病人や困窮者一人ひとりに米一斗、檜笠一つ、むしろ1枚、団扇一つ、針、糸、餅などを与えている。忍性はこの近くにハンセン病などの治療施設「北山十八間戸」を作り、いまも史跡として残っている。叡尊と忍性らは、旧仏教が忌避した「穢れ」に向き合い、社会からドロップアウトした社会的弱者の支援に終生取り組んだ。

京都橘大学の細川涼一学長は「叡尊は庶民の現実を見ており、弾力的な発想をした。病気や身体障害、困窮などが原因で社会から排除され、中世社会の最下層に置かれた人たちに宗教活動を通して不飲酒戒など戒律を授け、規則正しい生活を送るように指導した。いわば今でいう生活改善運動だったといえる」と話している。



2019年2月

宇澤俊記



 

≪参考文献≫
 ・長谷川誠編『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』(真言律宗総本山西大寺)
 ・細川涼一『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版)
 ・松尾剛次編『持戒の聖者 叡尊・忍性』(吉川弘文館)
 ・松尾剛次『中世叡尊教団の全国的展開』(法藏館)
 ・平雅行編『公武権力の変容と仏教界』(清文堂)
 ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史』第2巻(大阪市)
 ・羽曳野市史編纂委員会『羽曳野市史』第1巻本文編1(羽曳野市)
 ・平成29年度堺市立みはら歴史博物館特別展図録『河内鋳物師の誇りⅣ』(堺市博物館)
 ・創建1250年記念奈良西大寺展図録『叡尊と一門の名宝』(日本経済新聞社)


≪取材協力≫
 ・京都橘大学学長 細川涼一氏
 ・真言律宗総本山西大寺宗務長執事長 松村隆誉氏


≪施設情報≫
○ 真言律宗総本山西大寺
   奈良市西大寺芝町1丁目1–5
   アクセス:近鉄奈良線「大和西大寺駅」南出口より徒歩約3分

○ 石清水八幡宮
   京都府八幡市八幡高坊30
   アクセス:京阪本線「八幡市駅」下車すぐ)

○ 浮島十三重塔
   京都府宇治市宇治、府立宇治公園塔の島
   アクセス:京阪宇治線「宇治駅」より徒歩約10分
   高さ15mでわが国最大の石塔の重要文化財。洪水や地震でたびたび倒壊し、
   現在のものは明治時代末期に発掘され修造されたもの。

○ 西琳寺
   大阪府羽曳野市古市2丁目3–2
   アクセス:近鉄南大阪線「古市駅」より東へ約500m

○ 教興寺
   大阪府八尾市教興寺7丁目21
   アクセス:近鉄大阪線「高安駅」より東へ徒歩約14分

○ 堺市立みはら歴史博物館
   大阪府堺市美原区黒山281
   アクセス:近鉄南大阪線「河内松原駅」より近鉄バス余部行「大保」下車すぐ

○ 四天王寺西門
   大阪市天王寺区四天王寺1–11–18
   アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約7分

○ 般若寺と北山十八間戸
   奈良市般若寺町221
   アクセス:近鉄奈良線「近鉄奈良駅」より奈良交通青山住宅か州見台8丁目行「般若寺」下車

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