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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第5話 高山右近たかやまうこん(1552年-1615年)

大名を捨て信仰に生きた戦国武将

天文21年(1552)、荘園代官、高山友照の長男として摂津国高山に生まれる。父・友照は三好長慶の参謀・松永久秀の家臣として大和国の沢城主となる。永禄6年(1563)、日本人修道士ロレンソ了斎によりキリスト教に改宗、右近も父の命で、12歳のとき、キリスト教の洗礼を受ける。洗礼名は「ジュスト」。その後、父・友照は高槻城主となるが、天正元年(1573)、右近が21歳のとき、城主としての跡目を右近に譲り、キリスト教の布教に専念する。

右近親子の身分を問わない布教活動により、多くの家臣や領民がキリスト教に改宗、右近は名君と領民に慕われ、遠くヨーロッパにもキリシタン大名として知られる。また、織田信長の側近の武将としても信頼され、安土城下に屋敷を与えられる。信長は西洋の科学技術や文化に興味を示し、宣教師ヴァリニャーノにキリスト教の布教を許し安土城にセミナリオを設けた。

しかし、天正10年(1582)、信長は明智光秀の謀反「本能寺の変」で討たれる。右近は羽柴秀吉軍の先鋒として明智光秀軍と戦い勝利を収め、武将としての有能さを認められる。また、茶の湯の世界でも千利休の高弟「利休七哲」に名を連ね人脈を広げていった。前田利家、細川忠興、蒲生氏郷、黒田官兵衛などから人徳を称えられる。そして右近の勧めで多くの大名がキリスト教に改宗した。

天正15年(1587)、秀吉の九州征伐に同行した右近は突然棄教を迫られるが右近はこれを拒否。後日、秀吉は利休を使者を出して思い直すように説得するが右近の意志は固く、大名の地位と領地を捨て、キリシタン大名・小西行長の庇護のもと小豆島で信仰生活に入る。天正17年(1589)、右近の盟友前田利家はポルトガル語や西洋の科学技術に精通し、築城技術に優れた右近の才能を惜しみ、秀吉の許可を得て右近を家老職扱いで加賀藩に迎え入れる。以来26年間、右近は加賀に庵を構え「南坊等伯」と名のり、茶の湯を広めると共にキリスト教の布教活動を続けた。

秀吉没後、天下を取った徳川家康は、幕藩体制確立のためキリシタン禁令を発令し、宣教師や信者の国外追放を命じた。右近も家族と共に加賀を離れ長崎から船でマニラに追放された。右近は旅の疲れや慣れない気候のため病に倒れ、翌年の慶長20年(1615)波瀾万丈の生涯を終えた。享年64。


秀吉を不愉快にさせた人

「城内には大きな木造の天主教会あり、その周りには緑の木々が植えられ、三段の階段には高い十字架が聳え立ち、薔薇や雛菊などの美しい花々が咲きほこり、池には鯉が泳ぎ、キリシタンたちは神に祈りを捧げている。高槻領民2万5千人のうち、1万8千人がキリシタンに改宗した」

約450年前、右近が高山城主の時代、宣教師ルイス・フロイスは、『イエズス会日本通信』でこのように報告している。大阪と京都の中間に位置し、現在は大阪府の中核都市として35万の人口を擁する高槻市は、戦国時代、交通の要衝として重要な戦略拠点で、国盗り合戦の主戦場でもあった。そこに築かれた高槻城は、キリシタンにとって安らぎの聖地というべき所であった。

天文12年(1543)、フランシスコ・サビエルら宣教師がもたらしたキリスト教と西洋文化は、武家社会だけでなく、戦乱の重圧に苦しみ文化とは無縁の庶民層にまで瞬く間に広まっていった。宣教師ルイス・フロイスは、長崎に上陸した永禄6年(1563)から32年間にわたって日本でのキリスト教布教の記録を書き残した。現在、それは戦国時代の日本を知る上で貴重な資料となっている。フロイスは右近についてこう記している。

「ジュスト右近殿は非常に活発で明晰な知性と、稀に見る天賦の才を有する若者であった。彼は、異教徒に対しての説教や疑問に対する答弁を絶えず傾聴したので、デウスの事どもを好むことにおいても、またそれらを認識することにおいても、実に顕著な進歩を遂げ、卓越した説教者となり、その大いなる徳節によって都や地方の全キリシタンの柱となった」

秀吉が右近の影響力を危惧したのもさもありなん。フロイスは、秀吉が九州征伐先の博多で右近に棄教を迫ったときの様子も克明にレポートしている。

「秀吉はジュスト右近殿と絶交することを決意した。キリシタンからこの大黒柱を奪えば、ほかの全員は弱体化するほかあるまい。予はキリシタンの教えが、日本において身分のある武士や武将たちの間で広まっているが、それは右近が彼らを説得しているからと承知している。不愉快に思う。なぜなら、キリシタンどもは血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすに至る事が案じられる。もし今後とも武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ」

これに対して右近はこう答えたという。

「たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の霊魂の救済と引き換えることはしない。私の身柄、封録、領地、については殿が気に召すように取り計らわれたい」

天下取りに邁進していた秀吉にとって、右近のゆるがぬ信仰心はとうてい理解できなかったであろう。


フィールドノート

高山右近「福者」に認定

平成28年(2016)1月22日、高山右近は、カトリック教会の崇敬の対象である「福者」に認定されることが正式に決まり、バチカン(ローマ法王庁)フランシスコ・ローマ法王は高山右近の殉教認定を承認したと発表した。そして右近がマニラで殉教して402年と5日経った平成29年(2017)2月7日、高山右近をカトリックの「福者」にすることを宣言する列福式が大阪城ホールで厳粛な雰囲気のなか行われた。会場には長年、右近の列福運動に携わってきた関係者やカトリックの信者1万人が参列。岡田武夫東京大司教が聖遺物として右近のチョッキの切れ端が置かれた壇上で右近を福者の列に加えるように請願し、バチカンから派遣されたローマ法王代理のアンジェロ・アマート枢機卿がイタリア語で「福者に加えます」と宣言した。この後、右近の肖像画が除幕され日本カトリック教会は今後右近の命日の2月3日を記念日として祝うことを決めた。

日本における聖人や福者は、これまで慶長2年(1597)に長崎で処刑された殉教者「日本26聖人」など集団での認定はあるが、個人では右近の認定が日本人で初となる。大名という地位を捨て信仰を貫いた右近の生き方は、400年の時を超えて、現代の人々の心にもメッセージを発し続けている。


隠れキリシタンの里と生誕地

JR茨木駅からバスで40分ほどの茨木市千堤寺地区。北摂の里山の風景が広がる中に、木造平屋建ての茨木市立キリシタン遺物史料館がある。


中に入ってまず目に飛び込むのが「聖フランシスコ・ザビエル像(複製画)」だ。絵は元和8年(1622)ローマ教皇がザビエルを聖人としたときに、京都の狩野派の絵師によって西洋画技法で描かれたものと推定される。現在は国指定重要文化財(国宝)として神戸市立博物館に収蔵されているこの絵が、大正時代に史料館向かいの民家の屋根裏から発見されたことを知る人は少ない。


郷土史家の藤波大超(1894〜1993)は中学生の頃、誰からともなくこのあたりが隠れキリシタンの里だと聞いていた。大正8年(1919)に通称「クルス山」の中腹で「マリア」と刻まれた墓碑を発見し、それを確信する。

翌年、千堤寺の東藤次郎家の母屋の屋根裏に吊り下げていた「あけずの櫃(ひつ)」と呼ばれる箱の中から、くだんのザビエル像に加え、「マリア十五玄義図」「天使の銅版画」など、キリシタン信仰に関する遺物を発見した。まさにタイムカプセルである。この大発見を機に、同地区の中谷家や下音羽地区の旧家からも遺物や墓碑が次々と見つかった。誰がどこからこの山奥に持ってきたのか、高槻城下から逃げのびた右近の家臣か?それとも司祭か?…。

この北摂地域で埋蔵文化財の発堀調査に係わった元大阪府文化財センターの井藤暁子氏は『茨木キリシタン遺物発見90周年記念論文』の中で、「右近の領地であった五箇庄の千提寺や下音羽は江戸時代の禁教令の後も司祭たちが滞在して密かに信仰は続けられていた。これらの遺物は信仰のための用具であり右近のもとで布教に当たっていた宣教師たちが、この北摂の地を去るとき、東家、中谷家、大神家、原田家などの地域のリーダー(名主)に託していったのではないか。千提寺地域は新名神高速道路の建設で山が削りとられ、新たにキリシタンの墓地が発見されるなど、北摂地域の歴史は今後、さらなる探求が求められる」と述べている。

慶長19年(1614)の家康のキリシタン禁令後も、人々はこの山奥で密かに信仰を守り続け遺物は農家の屋根裏で長い眠りに就いた。明治に入り、キリシタン禁令が解かれて半世紀を経た後の発見は、日本だけでなく世界にも衝撃を与えた。京都大学名誉教授でキリシタン研究家の新村出(1876〜1967)は現地を訪れ、『摂津高槻在東氏所蔵の切支丹遺物』という報告書を作成。大正15年(1926)には、ローマ教皇庁から使節団が派遣され大きな話題となった。1987年に開館したキリシタン遺物史料館は地元の人たちにより管理運営され、全国から毎年7千〜8千人が訪れるという。

右近の生誕地、大阪府豊能町では没後400年に当たる平成27年(2015)、住民たちの募金で町の高台にある高山コミュニティセンターの正面に右近と妻ユスタの石像を建立。5月31日には除幕式が行われた。町では「右近の郷」として、彼の足跡をたどる史跡巡りやシンポジウムを開催するなど、町おこしにつなげたいと意気込む。




2016年2月
(2017年11月改訂)

橋山英二



≪参考文献≫
 ・高槻市しろあと歴史館
   『高槻市しろあと歴史館10周年記念特別展 [高山右近の生涯] 』2013年
 ・茨木市教育委員会『千堤寺・下音羽のキリシタン遺跡』2013年
 ・日本カトリック司教協議会列聖列福特別委員会
   『現代に響く右近の霊性』2012年
 ・海老沢有道『高山右近』吉川弘文館
 ・中西裕樹『高山右近キリシタン大名への新視点』高帯出版
 ・加賀乙彦『高山右近』講談社
 ・ルイス・フロイス『イエズス会日本通信』『ルイス・フロイスの日本史』
 ・井藤暁子『茨木キリシタン遺物発見90周年記念論文』



≪施設情報≫
○ 茨木市立キリシタン遺物史料館
   茨木市大字千提寺262
   電:072−649−3443
   アクセス:JR「茨木駅」から阪急バス・千提寺行き「千提寺口」下車 徒歩約15分

○ 高槻城跡公園
   高槻市城内町
   アクセス:阪急京都線「高槻市駅」より徒歩約10分
       JR「高槻駅」から徒歩15分

○ 高槻市立しろあと歴史館
   高槻市城内町1-7
   電:072−673−3978
   アクセス:阪急京都線「高槻市駅」より徒歩約10分

○ カトリック高槻教会
   高槻市野見町2-26
   電:072-675-1472
   アクセス:阪急京都線「高槻市駅」より徒歩約10分

○ 大阪カテドラル聖マリア大聖堂
   大阪市中央区玉造2-24-22
   電:06-6941-2332
   アクセス:JR環状線「森ノ宮駅」より徒歩約15分
       地下鉄「森ノ宮駅」から徒歩約10分

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