第36話
信長に徹底抗戦を挑んだ東本願寺の開祖
教如は、本願寺第11世顕如の長男として、永禄元年(1558)に大坂(石山)本願寺(以下、石山本願寺)で誕生した。元亀元年(1570)2月に13歳で得度。同年9月、顕如率いる浄土真宗(一向宗)本願寺勢力と織田信長による石山合戦(1570~1580)が始まった(石山合戦については「顕如」の項を参照)。
母子兄弟の対立
石山本願寺を退去した教如は、紀州鷺森の坊舎にいる父顕如を頼るが拒絶されてしまう。以後、教如は各地の門徒衆の庇護を受け、1年10カ月にわたり流浪を余儀なくされた。やがて信長が本能寺の変(1582年)で果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を入れ許しを得た。但し、顕如が教如を義絶したのは、親子で信長を欺くためのはかりごとだったという説もある。
さらに天正19年(1591)、豊臣秀吉は京都堀川に寺領を寄進し、ここへ本願寺を移転させ(現在の西本願寺)、顕如も移住した。そしてその翌年の文禄元年(1592)に、顕如が入寂。父顕如の還骨勤行(かんこつごんぎょう:火葬して骨に還った遺骸を祭壇に迎える儀式)を勤めた嫡子教如は、秀吉の朱印状を得て本願寺第12世を継職した。
しかし、その翌年、教如の母であり顕如の内室如春尼が、教如の実弟である末子准如(1577 〜1631年)に対する本願寺留守職譲状があると秀吉に訴え出た。このため教如は、わずか11カ月程の在位で秀吉に隠居を命じられる。時に教如36歳、准如17歳。教如は、秀吉に隠居を命じられたとはいえ隠居する意思はなく、むしろ活動を活発化させたため、如春尼・准如と教如の母子兄弟との対立が深まった。門徒は教如方と准如方に二分。准如は秀吉に弾圧を依頼し、秀吉の命により前田利長が教如派の門徒代表二人を獄門にかけ、さらし首にした。これにより教如は、親鸞の教えを「非僧非俗、本願寺の家は慈悲をもって本とす」とし、自ら信じる分派の道に突き進んだ。
政争に利用された本願寺分裂
如春尼が秀吉へ教如排斥の訴えを起こしたのは、石田三成の画策によると言われている。つまり、如春尼・准如と教如の対立は、准如方につく三成と教如方につく徳川家康の対立の構図だったのである。
以上のことから教如と秀吉および3者の関係、さらには神谷宗湛とのつながりが知れる。
註1 『利休百会記』… 千利休の自会記で、天正18年(1590)8月17日から翌同19年(1591)1月24日までのおよそ百会(95会)におよぶ茶会を収録する。原本は存在せず、全て筆写本である。
註2 茶頭は茶事を司る者の長で禄高3千石であった。
註3 全部で4席設けられ、秀吉が1席担当した。会期中公武庶民合わせて803人に点茶した。ちなみに、教如は織田有楽斎(おだうらくさい)の茶会にも慶長16~18年(1611〜13)の3年間で5度参加している。有楽斎は信長の弟で、本能寺の変の後は秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは家康に従った。
フィールドノート
ゆかりの寺院を訪ねて
東本願寺を創立
慶長5年(1600年)7月、教如は、三成の妨害をかいくぐって関東の徳川家康を見舞っている。同年9月15日に関ケ原の合戦で徳川家康が勝利すると、その5日後、教如は大津御坊で家康を迎えている。同6年(1601)には家康が教如を訪ね、ついで教如が伏見城に家康を訪ねているなど相互に訪問し合う親密な関係を築いた。
秀吉の死後、家康は教如に本願寺門主への復帰を勧めたが、教如は「教祖親鸞の正嫡であり宗主である。貴族化、世俗化した本願寺との争いを避け、親鸞祖像とそのご座所の正統な護持者でありたい」という意識が強く、これを固辞した。そこで家康は、本多佐渡守(本多正信)や、天台宗の僧・天海の意見を入れ、後陽成天皇の裁可を得て、同7年(1602)に京都東六条の地に4町四方の寺地を寄進した。正信が「本願寺は既に2つに分かれている」と家康に献言したことで、「教如教団」を追認したものである。同8年(1603)、教如は仮御堂を建立し、上野国厩橋(こうづけのくにうまやばし:現在の群馬県前橋市)の妙安寺に伝来する親鸞の「御真影(木像)」を迎えて東本願寺を創立した。翌9年(1604)には御影堂が完成。遷座法要が営まれ、ここに本願寺は教如を法主とする東本願寺と、准如を法主とする西本願寺に分立した。
教団強化のため各地に御坊を創建
東本願寺教団を設立した教如は、各地に御坊を建立し末寺門徒の地域的結集の寺院とするとともに、教化の拠点とした。そうして教団の教化体制を確立するため、東本願寺直結(門主が御坊住職を兼務)の御坊(後の別院)を積極的に設立した。ちなみに現在、東本願寺に属する寺院は全国で1万におよぶ。
江戸時代を通じて東本願寺系の御坊(明治以降は「別院」と称す)は40カ寺といわれ、約半数の18カ寺は教如の開創である。そのうち大坂には、難波、天満、茨木、八尾、堺の各別院が置かれた。なかでも難波別院(南御堂)は、教如が本願寺隠居後の文禄4年(1595)に石山本願寺旧縁の地である渡辺(現在の天満橋から天神橋の間あたり)に建立した「大谷本願寺」が前身で、その後に移転したものである。難波別院では、江戸時代初期より商人たちによって各種の「講」が組まれ、商都大坂(船場、島之内)のシンボル的存在となっていた。現在、難波別院では3月25日、津村別院(北御堂)では5月14日を祥月命日としてそれぞれ蓮如忌が営まれるが、前者は旧暦で後者は新暦だそうである。
茨木別院は慶長8年(1603)に北摂の門徒結集を意図して創建された。八尾別院(大信寺:だいしんじ)は慶長12年(1607)の創建で、八尾には大信寺や慈願寺の八尾寺内町を含め、顕証寺(本願寺派)の久宝寺寺内町、恵光寺の萱振(かやふり)寺内町の3つの寺内町がある。天満別院は、教如が渡辺の地に大谷本願寺を創建し、それが秀吉の政策で難波別院へ移転させられた後、慶長16年(1611)改めて天満の地に創建したのが始まりと言われている。
教如は、慶長19年(1614)10月5日享年57で往生した。信長、秀吉、家康の3人の天下人と渡り合った、激しく波乱万丈の人生であった。面長で、背丈6尺といわれる容貌は、並み居る戦国武将をしのぐ精悍さであったといわれている。また、教如には4人の内室がいた。4番目の内室が妙玄院でその子宣如(せんにょ:1602〜1658年)は11歳で本願寺(大谷派)第13世住職を継職した。
現代の大阪との関わり
難波別院と津村別院に面した通りは、江戸時代から「御堂筋」と呼ばれていた。両御堂の間には仏具屋や数珠屋、人形屋、表具屋などの店が軒を連ね繁盛していた。
明治42年(1909)には、左籐了秀(大阪府知事をつとめた左藤義詮の養父)が難波別院内に「大谷裁縫女学校」を設立。職業に就く専門教育よりも良妻賢母となるための教育を重視し、報恩感謝の宗教教育にも力を入れた。現在は大阪大谷大学、大学院、短期大学部、大谷中・高等学校、東大谷高校、大谷幼稚園を擁し、平成18年(2006)より男女共学、平成21年(2009)には創立100周年を迎え、卒業生総数は10万人を超える。
顕教踊り
湖北地帯の真宗寺では、盆の行事として踊られる「顕教踊り」というのがある。顕如の顕、教如の教を組み合わせた名前のこの踊りは、信長勢に攻められ、鉄砲で片足を撃たれ歩行困難であった雑賀一族の鈴木孫六が、本能寺の変での信長の死を知り嬉しさのあまり痛手を忘れ「あらめでたや法敵亡び 宗門は末広がりにご繁盛」と踊ったのが始まりだと言われている。
2016年9月
(2017年11月改訂)
江並一嘉
≪参考文献≫
・宮部一三『教如流転』1986年
・教学研究所『教如上人と東本願寺創立 -本願寺の東西分派―』2004年
・上場顕雄『教如上人 -その生涯と事績―』2012年
・木場明志他『別院探訪』2012年
・教如上人展図録『教如上人400回忌法要記念
「教如上人」東本願寺を開かれた御生涯』2013年
・上場顕雄『教如上人と大坂』2013年
・大桑 斉『教如 東本願寺への道』2013年
・『教如上人四〇〇回忌記念特別展図録・飛騨と教如上人』
≪施設情報≫
○ 北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)
大阪市中央区本町4丁目1番3号
電話:06−6261−6796
アクセス:地下鉄御堂筋線「本町駅」2号出口より徒歩すぐ
○ 南御堂(真宗大谷派・難波別院)
大阪市中央区久太郎町4−1−11
電話:06−6251−5820
アクセス:地下鉄御堂筋線「本町駅」13号出口より徒歩約3分
○ 東本願寺
京都市下京区烏丸通り七条上る
電話:075−371−9181
アクセス:JR「京都駅」より徒歩約7分
○ 茨木別院
大阪府茨木市別院町3−31
電話:072−622−2903
アクセス:阪急電鉄「茨木市駅」より西へ徒歩約5分
○ 八尾別院大信寺
大阪府八尾市本町4−2−48
電話:072−922−2724
アクセス:近鉄大阪線「近鉄八尾駅」より徒歩約8分
○ 天満別院
大阪市北区東天満1丁目8-26
電話:06−6351−3535
アクセス:地下鉄「南森町駅」3号出口より徒歩約6分