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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第9話 武田長兵衛
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第9話 近江屋おうみや (武田) たけだ 長兵衛 ちょうべい (1750年-1821年)

独立後20年で資金を55倍にした初代長兵衛

武田家の祖、初代近江屋長兵衛は寛延3年(1750)、大和国廣瀬郡薬井村(現奈良県北葛城郡河合町薬井)の竹田家、六代目徳兵衛の次男として生まれた。幼名は長三郎。宝暦5年(1755)に養子に出たが、14歳で養父が亡くなり、道修町の薬種中買商・近江屋喜助家へ丁稚奉公に出た。24歳で通い番頭になり、長兵衛と改名し、28歳で主家一族の近江屋福松の「代判」(支配人兼後見人)に選ばれた。

「暖簾分け」を前に主家の近江屋喜助が安永7年(1778)、不正唐物事件に連座し、主家は株を取り上げられた。長兵衛を見込んでいた喜助は、一族の名義で株を取得して長兵衛独立の手筈を整えた。長兵衛が奉公に上がって19年目の天明元年(1781)6月12日、32歳で主家から銀2貫目と秋田地方の得意先を譲渡され、道修町堺筋南西角で薬種中買仲間として独立を果たした。屋号は「近江屋」、店の印は近江屋一統の「だき山」に「本」を入れた「(だきやまほん)」で、近江屋長兵衛を略して「近長(きんちょう)」と呼ばれるようになった。

独立当時、薬種業界は不況が続いた。異常気象と浅間山の大噴火が重なり、米価が暴騰して大坂では打ち壊しや大火があった。さらに天明5年(1785)には御用金の下命があり、天明8年(1788)には大飢饉が襲うなど、世情は騒然として苦労が絶えなかった。そんな中で長兵衛は35歳で結婚し、開業12年目に薬種中買仲間の役員に就き、店舗も道修町の難波橋筋西入る南側に移して拡張をはかった。さらに別家、分家を順次出して、一門の繁栄の基礎を築いた。

長兵衛は文化2年(1805)10月に17歳の次男熊三郎に株名義を譲り渡して長四郎と改名、約10年間、後見役を務め、文政4年(1821)7月10日に72歳で亡くなった。武田家に天明4年(1784)から残る「店颪帳(たなおろしちょう)」によると、長兵衛が第一線を退いた文化2年(1805)の棚卸残銀は、開業当時の55倍の110貫目に達した。栄枯盛衰が激しかった江戸期の道修町で、「一代にしてよく産をなした」(宮本又次著『豪商列伝』)と評される。

二代目長兵衛(1789-1829)は金融業や貸家業など事業の多角化をはかり、三代目(1825-1859)は「不正の唐物は扱わない」「隠女、遊女通いは決してしてはならぬ」など12カ条の「一統申合之事」を決めた。さらに「禁酒之事」「芝居行不相成事」「衣服倹約之事」など「十ヶ年倹約之事」とする59に及ぶ緊縮項目を定め、幕末を控えた家業の安泰をはかった。四代目(1844-1925)は明治4年(1871)の戸籍法施行に伴って「近江屋」から「武田」姓を名乗り、洋薬の輸入を手がけて和漢薬商から業態の転換をはかり、横浜に出店するなどして近代化の基礎を築いた。長兵衛の名前は、昭和18年(1943)8月に武田薬品工業株式会社社長に就任した六代目が最後になった。戦後は六代目の長男の急逝や時代の変化などもあり、踏襲されなくなった。


フィールドノート

世界一の医薬典籍コレクション「杏雨書屋」(きょううしょおく)

「くすりの町」道修町のほぼ真ん中、オレンジと黄色のシックな煉瓦造りの5階建て建物に東洋医薬学書の一大文庫「杏雨書屋」がある。武田薬品工業の旧本社ビル(1928年建築)で、二代目近江屋長兵衛が店を構えたゆかりの地だ。「杏雨書屋」とは杏林(医学)を潤す雨という意味。武田科学振興財団の設立50周年を記念して平成25年(2013)9月に同社大阪工場(大阪市淀川区)から移転、開館した。

五代目武田長兵衛(1870-1959)は関東大震災(1923年)のあと、貴重な古文書が焼失したのを嘆き、私財を投じて東洋の医学、薬学の典籍を中心に収集を始め、文庫は「杏雨書屋」と呼ばれるようになった。五代長兵衛は漢学を泊園書院の藤澤南岳に、英語を沢井甃平の成章塾に学んだ。東京や横浜で外国商館や薬学者を訪ねて見聞を広め、35歳で四代長兵衛の跡を継ぎ、欧米に劣らない医薬品の製造販売と新薬の研究開発に努め、近代的製薬企業への脱皮を図った。

この事業は六代長兵衛(1905-1980)に引き継がれ、昭和38年(1963)に武田科学振興財団を設立し、二代にわたって収集した東洋の医学、薬学書、仏典などを財団に寄付、武田薬品からの寄贈書と合わせて昭和53年(1978)4月から「杏雨書屋」として一般公開されてきた。現在、「杏雨書屋」は国宝3点、重要文化財14点をはじめ、4万点15万冊を収蔵し、常設展のほか年2回特別展を開いている。

現在、武田薬品工業は80カ国余に進出、売上高は3兆円を超す国内トップの製薬メーカーとなった。売上げ、従業員数とも国内より海外が多いグローバル企業だ。登記上の本社は道修町で、株主総会は毎年、関西を中心に約4000人が出席して大阪で開かれる。広報担当者は「国内外の社員の研修は大阪で行っています。大阪は当社にとって重要であることに変わりありません」と話す。


「少彦名(すくなひこな)神社(神農さん)」と「くすりの資料館」

堺筋から道修町を西に入ったすぐのところに「神農さん 少彦名神社」がある。毎年11月22、23日に例大祭(神農祭)が開かれる。大阪の年中行事は、十日戎で始まり、掉尾を飾る祭りがこの祭りで、「とめの祭」とも言われる。堺筋と御堂筋を東西にむすぶ道修町には屋台がならび、病除祈願のお守り「張り子の虎」を求める大勢の人でにぎわう。

「くすりの町」道修町は、寛永年間(1624-1644)に堺の薬種商・小西吉右衛門が2代将軍秀忠の命で大坂復興のために移ってきたのが始まりとされる。薬種仲間は明暦4年(1658)に33人、寛文6年(1666)には108人と急増する。幕府は亨保7年(1722)、和薬の真偽を検査する「和薬改会所」を設け、株仲間を組織化、124株を公認した。薬種中買仲間は長崎から入ってきた唐薬類の品質を吟味し、全国に独占的に売りさばく権利を持ち、道修町は中買仲間を中心に問屋、小売り、仲介人などで活況を呈した。

薬種商は大切な命に関わる薬を扱う。道修町の家々では中国の薬の神様、神農氏の掛け軸を拝んでいた。亨保18年(1733)には仲間内の親睦団体「伊勢講」が結成され、伊勢神宮への参拝が始まった。安永9年(1780)になって日本の薬の神様の少彦名命(すくなひこなのみこと)を京都の五条天神宮から勧請し、神農氏とともに薬種中買仲間の寄会所にお祀りして道修町で祭礼が始まった。明治になって株仲間が解散となり、薬祖神の崇敬者団体「薬祖講」が結成され、少彦名神社の運営に当たっている。

薬祖講(約350社)を母体として平成4年(1992)に「道修町文書保存会」が生まれ、300年前から寄会所に残る歴史的な文書を整理し、『道修町文書目録』全4巻を刊行、「道修町資料保存会」と名称を変え、平成9年(1997)10月に神社の横に「くすりの道修町資料館」を開設した。江戸時代の文書3000点、明治以降の文書3万点が保管されており、平成19年(2007)には「道修町文書一括」として大阪市有形文化財に指定されている。


「道修町ミュージアムストリート」

堺筋から御堂筋まで東西約300mが「道修町ミュージアムストリート」と呼ばれている。「杏雨書屋」「少彦名神社」「クスリの道修町資料館」のほか、製薬会社の資料館や史跡が並ぶ。大日本住友製薬は平成26年(2014)3月、1階ロビーに海老江工場(大阪市福島区)で長年使用されてきたドイツ製の蒸留缶やろ過器、製薬所の再現模型などを通りに向けて展示した。さらに田辺三菱製薬は平成27年(2015)5月、明治初期の道修町を再現し、330年を超える同社の歩みを紹介する史料館を開いた。塩野義製薬も本社ビル1階ロビーにシオノギの商標である分銅の実物や大福帳などを展示している。また、道修町が舞台になった谷崎潤一郎の『春琴抄』(昭和8年発表)の碑や大阪薬科大学発祥の地の記念碑などもある。

平成27年(2015)9月、製薬会社や少彦名神社、地元町会などが「道修町まちづくり協議会(通称The道修町倶楽部)」(会長・土屋裕弘田辺三菱製薬相談役)を結成して「くすりの町」の発信や美観向上、にぎわい創出に向けて町ぐるみの活動が始まった。現在、会員は道修町に関係する企業、団体、個人合計78。道修町ツアーや公開市民講座などを開いている。また、同協議会と大阪市は平成30年(2018)10月、道修町2丁目、3丁目の無電柱化と道路整備を協力して推進するため、「道修町通の整備に関する基本確認書」を締結し、早期の無電柱化を目指している。


船場の伝統文化を語り伝えて30年

船場に縁の人たちが船場の伝統的文化を語り伝えたいと30年余続く「船場大阪を語る会」という会がある。昭和56年(1981)2月に発足し、例会は平成31年(2019)3月で189回になる。呼びかけたのは大阪の地域誌「大阪春秋」の編集者や船場の郵便局長、塩野義製薬の相談役で、隔月に講演会や史蹟探訪などを開いてきた。毎回100人から150人が参加する。

テーマは「大正時代の船場を語る」「船場言葉を蒐めて」「道修町の先輩に聞く」「大阪の蘭学」「谷崎潤一郎の世界」「船場のいとさん御寮人さんの古きよき時代の悲喜こもごも話」など。講師も地元の古老から大学教授、郷土史家、芸能関係者など多彩だ。

長年、この会の会長を務め、平成28年(2016)1月に亡くなった元四天王寺大学名誉教授の三島佑一さんは道修町で生まれ、東船場の集英小学校(統合後開平小学校)に通った。著書『船場道修町 薬・商い・学の町』で「土性骨があるから『どしょうまち』」と紹介し、「栄枯盛衰が激しいのを皆よく知っていましたから、商売が繁盛しているからといって、派手なことをすればむしろ顰蹙(ひんしゅく)を買った。反対に店をたたんで横町で小さくなっても、再起を期待して軽蔑されなかった。実際住む人がころころ変わった。『土性骨があるってこっちゃ』といった父の言葉は、そんなところをいった言葉ではないかと今にして思う」と書いている。

2016年3月

(2019年4月改訂)

宇澤俊記



≪取材協力≫
 ・武田薬品工業株式会社

≪参考文献≫
 ・武田二百年史編纂委員会『武田二百年史(本編)』
               (武田薬品工業株式会社 1983.5)
 ・武田薬品工業株式会社『武田二百年』
               (武田薬品工業株式会社 1984.6)
 ・武田薬品工業株式会社『Annual Report 2014、2015』
               (武田薬品工業株式会社 2014.7、2015.7)
 ・公益財団法人武田科学振興財団杏雨書屋編集『杏雨第8号』
               (武田科学振興財団 2015.6)
 ・宮本又次『豪商列伝』(講談社学術文庫 2003.9)
 ・作道洋太郎『道修町の歴史的役割について』
               (道修町文書保存会第3回文化講演会記録 1996.3)
 ・くすりの道修町資料館『くすりのまち道修町常設展示パネル集』
               (道修町資料保存会 1997.11)
 ・三島佑一『船場道修町-薬・商い・学の町』(和泉書院 2006.1)
 ・三島佑一編著『船場大阪を語る会150回記念誌』
               (船場大阪を語る会 2009.6)


≪施設情報≫
○ 杏雨書屋
  大阪市中央区道修2-3-6
  アクセス:大阪メトロ堺筋線「北浜駅」6番出口より徒歩約5分

○ 少彦名神社(神農さん)
  大阪市中央区道修町2-1-8
  アクセス:大阪メトロ堺筋線「北浜駅」6番出口より徒歩約5分

○ くすりの道修町資料館
  大阪市中央区道修町2-1-8
  アクセス:大阪メトロ堺筋線「北浜駅」6番出口より徒歩約5分

○ 田辺三菱製薬史料館
  大阪市中央区道修町3-2-10
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約10分

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