第74話
政権奪還に失敗した悲運の上皇
作者は後鳥羽上皇である。後鳥羽上皇は何を「恨めしく」「もの思」い、何をこの歌に託したのであろうか。
後鳥羽上皇は源平の合戦が始まった治承4年(1180)、高倉天皇の第4皇子として生まれた。平家滅亡という動乱の中、寿永2年(1183)安徳天皇を継ぎ、わずか4歳で天皇に即位した。諸説あるようであるが、天皇即位に必須の三種の神器の内、宝剣がないという異例の事態だった。つまり、宝剣は安徳天皇とともに壇の浦に沈んだからだといわれている。ちなみに、その後三種の神器は無事揃ったとも。
平家滅亡の後、元暦2年(1185)源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。政治の中心は京都の朝廷から鎌倉の源氏へと移っていった。ただ、京都を中心に貴族たちの荘園は温存されており、朝廷側も依然として一定の勢力を持っていた。鎌倉幕府と朝廷は、いわば二重政権といっていい状況であった。
そんな中、やがて上皇となり実権を握った後鳥羽上皇は、当初は源氏と融和政策をとっていたがやがて限界を感じたのか、政権を奪還することに闘志を燃やし始めた。承久元年(1219)、後鳥羽上皇との関係の深かった源実朝が暗殺されたが、これを機に、後鳥羽上皇は想いを実行すべくついに同3年(1221)武力行使に着手し、北条義時追討の宣言を出したのである。これが「承久(じょうきゅう)の乱」である。日本史上初の朝廷対武家の本格的武力闘争であった。
この時、鎌倉側は「尼将軍」北条政子の号令の下、一致団結したと伝えられている。大敗した後鳥羽上皇は隠岐へ流された。後鳥羽上皇の息子、土御門上皇と順徳上皇もそれぞれ土佐と佐渡へと流されてしまった。さらに、朝廷の3千カ所といわれた所領もすべて没収され、京都には六波羅探題が設置された。この結果、幕府の勢力は西国にも及んだのであった。
これは日本の歴史上唯一の「革命」(大澤真幸)と評価されている。また、『愚管抄』(慈円)や『神皇正統記』(北畠親房)などは、後鳥羽上皇が覇道を求めた結果が招いた自業自得の最期と批判している。
後鳥羽上皇はその後、ついに都に帰ることなく延応元年(1239)隠岐で死去した。享年58であった。
「菊」の御紋のルーツ
後鳥羽上皇は実に多能の人だった。武芸に長けていたが、一方で文芸にも秀でていた。何より和歌の才能は際立っており、中世屈指の歌人とまでいわれている。
後鳥羽上皇は新古今和歌集を建仁元年(1201)に、源通具(みちとも)、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に編纂させたが、これには後鳥羽上皇の情熱が注ぎ込まれている。百人一首の冒頭の1句は彼の作品であるが、彼はまた定家とともに百人一首の編纂にも尽力した。もっとも、定家は後鳥羽上皇と当初は親しくしていたが、その後、和歌を巡り真っ向から対立したそうである。
ところで、後鳥羽上皇はとりわけ菊の花を好んだといわれている。後鳥羽上皇は全国から鍛冶を集め刀剣を作ったが、これに「菊一文字」を刻ませたとのこと。この「菊一文字」はやがて天皇家の菊の御紋のいわれとなったとのことである。後鳥羽上皇の息子の順徳上皇は、流された佐渡の地で菊を見て父のことを想ったという。これをちなんで「都忘れ」といわれるキク科の植物がある。
また、後鳥羽上皇は熊野へ行幸したことでも知られる。建久9年(1198)から承久4年(1222)までの24年間で実に28回にもなる。後鳥羽上皇は何を思って熊野へ行幸したのだろうか。
フィールドノート
後鳥羽上皇の御霊を祀る ― 水無瀬神宮
大阪で後鳥羽上皇にゆかりのある地というと、大阪府三島郡にある水無瀬神宮であろう。後鳥羽上皇は水無瀬の地を愛し度々ここを訪れ、この地に水無瀬離宮を造営した。定家も後鳥羽上皇に度々同行し、水無瀬を訪れている(明月記)。
水無瀬神宮の水無瀬忠成宮司によると、この地は三つの川の水温が違い、そのため霜が発生する名勝地とのこと。当時もそうであったに違いない。
鳥羽上皇は隠岐で崩御したが、その際、水無瀬に菩提を弔ってほしいとの遺勅を残した。これに基づき仁治元年(1240)、後鳥羽上皇に忠節を尽くした藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったのが水無瀬神宮の起源である。水無瀬神宮には後鳥羽上皇以外に、後鳥羽上皇の二人の子供である土御門上皇、順徳上皇も祀られた。
水無瀬神宮には国宝の伝藤原信実筆紙本著色後鳥羽天皇像が残っている(京都国立博物館に寄託中)。これが本稿冒頭の肖像画である。その他にも水無瀬神宮には数多くの文化財がある。ただ、その多くは非公開である。
また、境内にある「離宮の水」が全国名水百選に選ばれているのはさすがである。
この水無瀬神宮に、華道の水無瀬神宮洗心流がある。後鳥羽上皇の御霊に供花が捧げられ続けていたが、その流れを汲んで、華道洗心流が興されたとのこと。宮司が華道洗心流の総裁とのことである。現在、神宮はその家元として各地に社中があり、華道を通じて後鳥羽上皇を偲んでおられるようで、毎年10月には献花展が催されている。ちなみに、水無瀬神宮は大阪唯一の「神宮」の称号を持つ神社である。
大阪に残る貴重な足跡 ― 後鳥羽上皇行宮跡碑
南海高野線「沢ノ町駅」南側の止止呂支比売命(とどろきひめのみこと)神社境内の奥の線路側に、承久3年(1221)に後鳥羽上皇が建てたといわれる行宮跡の石碑が残っている。
承久の乱で北条軍は、上皇方の拠点だった行宮も徹底的に破壊し、その行宮の痕跡は殆んど残らなかったそうである。数少ない貴重な石碑であろう。
最期まで歌で交流
大阪市天王寺区夕陽丘に後鳥羽上皇と深い関係にある藤原家隆の墓(家隆塚)がある。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』によると、後鳥羽上皇が和歌を学びはじめた頃、藤原良経から藤原家隆が推薦され、その後、家隆は後鳥羽上皇に重用され定家らと共に、後鳥羽上皇を支え『新古今和歌集』を編纂した。
家隆は後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も、後鳥羽上皇から題を賜って和歌を送ったという。家隆は後鳥羽上皇との交流を最期まで絶やさなかったのである。遠所の後鳥羽上皇にとってさぞや家隆との交流は慰めになったことであろう。
その家隆は嘉禎2年(1236)12月に、突然京を離れ難波にやってきた。死期を悟り、日想観を修めながら往生したいとの念願からである。家隆はこのあたりに夕陽(せきよう)庵という小庵を構え、飲食物も抑えて夕陽を拝み、静かに死を待ったという。
『古今著聞集』によれば、家隆はここで7首の秀歌を詠んだ。
そのうち3首を記しておく。
家隆は、このように繰り返し難波を歌っており、要するに我が大阪(難波)をあの世へのあこがれの地に直結する地と考えていたのであろう。こうして家隆は翌嘉禎3年(1237)4月8日午後6時頃、合掌したまま息を引き取ったという。きっと後鳥羽上皇のことも彼の心中にあったのでは…。
2019年2月
和田誠一郎
≪参考文献≫
・大阪市役所ホームページ
・『水無瀬神宮物語』(水無瀬神宮社務所)
≪施設情報≫
○ 水無瀬神宮
大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10番24号
アクセス:阪急京都線「水無瀬駅」より北東へ約800m
○ 家隆塚
大阪市天王寺区夕陽丘町5
アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約5分
○ 後鳥羽天皇行宮跡碑(止止呂支比売命神社内)
大阪市住吉区沢ノ町1–10–4
アクセス:南海高野線「沢ノ町駅」より徒歩約1分