第31話
夢を見続け日本を駈け廻った俳聖
松尾芭蕉は寛永21年(正保元年・1644)伊賀の国・上野(現在の三重県伊賀市)に生まれる。本名は松尾宗房(むねふさ)、幼名は「金作(きんさく)」。6人兄妹の次男。父は松尾与左衛門、母は梅。家は下級武家で半農の生活を送っていた。13歳のとき父が逝去。19歳で藤堂藩の侍大将の嫡子良忠(俳号・蝉吟)に仕える。知的教養を重んじる藩風の中、21歳の時『佐夜中山集(さよのなかやましゅう)』に「伊賀上野松尾宗房」として2句が入集する。しかし、共に学んだ2歳年上の主人・良忠は芭蕉23歳の時に亡くなる。かくして芭蕉は、師とも仰いだ良忠との永久の別れに、追慕と憂愁から俳諧へと傾倒する。
以後、寛文12年(1672)29歳で江戸へ出て俳人の修行を積むことになるが、その間の動静はつまびらかではない。漢籍などの素養を身に着けていることから、京での修業があったのではないかと推測される。
俳諧の世界でも、伝統を重んじる京に比して新風を好む武家と町人の町・江戸で頭角を現し、その才能を開花させていった。32歳で号を「桃青(とうせい)」と名乗り、33歳で宗匠となる。
当時の江戸の俳壇は、滑稽と機知や華やぎを競う句が流行っており、芭蕉の目指す李白や杜甫などの孤高や魂の高まりを求める俳句ではなかった。芭蕉が求めるのは自然や人生の探求であったことから、36歳のとき、自身の手で俳諧を深化させ精神を高める方向へ昇華させようと務めた。
天和2年(1682)39歳、江戸の大火(八百屋お七の事件)で庵を全焼。
天和4年(1684)、前年に母が他界したため墓参を目的に郷里にもどり、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年に渡り巡る。この旅は「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句から『野ざらし紀行』と呼ばれる。
43歳頃、「古池や蛙飛びこむ水の音」「名月や池をめぐりて夜もすがら」の句を詠む。
貞享4年(1687)8月、44歳の芭蕉は弟子の曾良と宗波を伴い、常陸の国・鹿島にて『鹿島詣』を残す。10月、父母の墓参で伊賀へ帰省し、年が明けて高野山、吉野・西行庵、奈良、神戸方面(須磨・明石)を旅行。この紀行は『笈の小文(おいのこぶみ)』に記された。奈良・唐招提寺で鑑真和上像を見て「若葉して御目の雫拭はばや」と詠んでいる。この年、五代将軍徳川綱吉により「生類憐みの令」が発布された。
貞享5年(1688)秋、45歳の芭蕉は長野を巡り、その道中を『更級紀行』としてまとめた。行く先々で風雅に興じ、訪問先では土地の弟子が待ち構えていて、最大限のもてなしをしてくれた。
元禄2年(1689)46歳、旅とは楽をするものではないと、心を改め東北への旅をめざす。江戸の芭蕉庵を売り払い、弟子の曾良を伴い、白河、宮城、岩手、山形、北陸をめぐり岐阜・大垣に至るという壮大な旅で、行程は2400km、7カ月に及んだ。最初から多くの困難を想定し、「道路に死なんこれ天の命なり」と覚悟の上の旅立ちだった。この紀行文が『おくのほそ道』として知れわたる。
元禄4年(1691)、4月18日から5月4日まで京都の落柿舎(らくししゃ)に滞在し『嵯峨日記』を執筆する。
元禄5年(1692)49歳、東北への旅の後は、京都にある向井去来の庵「落柿舎」と木曽義仲の墓がある滋賀大津の義仲寺(ぎちゅうじ)の庵に交互に住んだ。この頃『嵯峨日記』を記す。
元禄6年(1693)50歳、弟子杉風(さんぷう)と枳風(きふう)の出資で深川に第3次芭蕉庵完成。
元禄7年(1694)51歳、この年ようやく『おくの細道』完成。同年5月江戸をたち、7月には故郷伊賀上野へ戻った。9月には奈良から出発して矢田丘陵の榁木峠(むろのきとうげ)を越え、さらに生駒山の暗峠(くらがりとうげ)(標高455m)を越えて大坂に向かう。
大坂への目的は、門人の之道(しどう)と酒堂(しゅどう)が不仲となり、その間を取り持つためであった。最初は酒堂の家に泊まり、次いで之道の家に泊まっている。長旅に耐える強靭な肉体の持ち主であったが、長年の旅の疲れと二人の弟子の対立に苦心し体調をくずした芭蕉は、10月5日、南御堂の花屋仁左衛門の貸座敷に移った。3日後、病床で、
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 『笈日記(おいにっき)』
を詠んでいる。俳諧の道を極める旅はまだ道半ば、まだまだやりたいことや、やり残したことが多くあり、こんなにのん気に寝ては居られないと、芭蕉の意識は床の中になく、枯野の中をかけ廻る旅に取りつかれた人生を夢見ていたのだろう。下五の「かけ廻る」を「めぐる」と読むのか「まわる」と読むのか専門家の意見の分かれるところであるが、それはともかく、この句が生涯最期の俳諧となった。
10月12日、芭蕉は多くの弟子たちが見守るなか永眠。遺言に従い、舟で淀川を遡り翌日には大津の義仲寺に到着。14日、門弟80人が見守る中、義仲の墓の隣に埋葬された。遺髪は故郷の菩提寺・愛染院に届けられ「故郷塚」に納められた。
この段取りと手際のよさ。遺言に従い流れるように芝居の幕を降ろしたのは、芭蕉自身が名プロデューサーであり、名優を使いこなすエンターティナーであったことを示している。
フィールドノート
いまも息づかいの残る生家
芭蕉が生まれた家は、上野城からさほど遠くなく、国道25号線に面している。生誕地については現在の三重県伊賀市上野赤坂町説と、同県伊賀市柘植(建物はなく公園となっている)の2説がある。「これは芭蕉が出生前後に松尾家が、柘植から現在の上野赤坂に引っ越していて、引っ越したときと、誕生の日がどちらが先だったか明らかにされていないからです」と芭蕉翁生家の案内の女性はいう。
家屋の外観はもとより内部は生活臭が残るほど、丁寧に保存されている。芭蕉は29歳で江戸に出立してからも、都合17回上野の家に戻っており、関西や 山陽方面への旅の拠点としていた居心地のよい場所であったに違いない。
主屋の奥、離れに一間の小さなあずまや「釣月軒(ちょうげつけん)」で処女句集『貝おほい』を執筆し、上野天神宮に奉納した後、江戸に出立している。芭蕉は伊賀への帰郷の際には、この建物で起居したという。
伊賀上野には、芭蕉の遺髪を葬った愛染院の境内にある故郷塚や、上野天神宮、上野城内に芭蕉の旅姿を現した俳聖殿、芭蕉が一時の住まいとした門弟所有の蓑虫庵、芭蕉翁記念館と芭蕉に関連する施設が歩いて巡れる距離にある。
菊の節句に越えた暗峠
元禄7年(1694)9月8日早朝、郷里伊賀上野を発った。芭蕉は夕方には奈良の猿沢池のほとりに宿をとり「菊の宴」を催している。翌9日には、奈良から生駒越えで大坂に向かった。一部駕籠に乗り石畳の暗峠を越えた。このとき菊を読み込んだのが次の2句。
菊の香や奈良にハ古き仏達
菊の香にくらがり登る節句かな
9月9日は重陽の節句であり、また、同時に行われる菊の節句でもあった。菊は貴重な薬用種として、奈良時代に渡来している。
芭蕉はこの時期、風邪を引き体調はあまりすぐれなかったようだが、菊の花の持つ精によるものなのか、句は好調であったようだ。大坂に入ってから雨に遭い、箕を被り門人酒堂亭へと駆け込んでいる。
大阪にある句碑・墓標を巡る
太融寺
淀殿の墓のある太融寺。この寺には、元禄7年(1694)9月27日、斯波園女(しはそのめ)亭(北浜)で行われた句会で詠まれた発句『白菊の目に立てみる塵(ちり)もなし』の句碑が建てられている。
貞節な招待主を白菊に託してよんだ句である。園女の夫・一有(いちゆう)は伊勢山田の眼科医で、若くして俳諧に親しみ、園女も嫁して俳句を学んだ。大坂に移住していた園女は北浜の自宅で遠来の師のために、心を込めた食事を用意し歓待している。
南御堂では毎年法要が
大阪市の梅田から難波まで、ドンと突き抜ける御堂筋。南御堂の前の道路の緩衝帯に「此付近芭蕉翁終焉ノ地ト云フ」と刻まれたさほど大きくない石柱が建っている。門人、花屋仁左衛門の屋敷跡である。一見、道標にも見え、その脇を芭蕉のことなどまったく意識せずに毎日数千台の車が通り過ぎて行く。この標石の側面には、御堂筋の建設が進んでいた昭和9年(1934)に建てられたとある。
南御堂の境内には句碑が立つ。天保14年(1843)に芭蕉の百五十回忌を記念し、芭蕉の遺徳を継いだ俳人によって建てられたものであるが、御堂筋の拡幅工事で境内が切り取られたため、車道横の緑地帯に移された。その後自動車の交通が激しくなったため、昭和37年(1962)に現在の場所に移された。南御堂では、毎年11月に芭蕉忌法要と句会が盛大に開かれ、芭蕉の偉業は今なお受けつがれている。
四天王寺
墓石に弟子の野坡が寄り添う
大阪にも芭蕉の墓と称するものが数カ所ある。遺体を埋葬しなくとも、遺髪、遺爪、反故(書き損じの紙)、個人が生前使用していたものを埋葬すれば、墓、塚と呼ばれる。
四天王寺の元三大師堂(がんさんだいしどう)の墓地の一角に芭蕉の墓がある。人の背丈を優に越える堂々とした同型の墓が二つ並ぶ。右手の墓石に「芭蕉翁の墓」と単純明快に彫り込まれている。左手の墓は芭蕉の門人で十哲の一人にもなった三井越後屋(現三井住友銀行)の番頭・志太野坡(しだやば)の墓である。この二つの墓は、志太野坡の門人の湖白亭浮雲が宝暦11年(1761)に、野坡の二十回忌に建てたもので、芭蕉の没後67年にあたる。死してなおその威光を損なうことのなかった芭蕉の真価が、この二つの墓を前にして思い起こされる。
円成院(えんじょういん)
風化した墓碑
松屋町筋に面して円成院はある。本堂と庫裏が一体になった一棟の堂の前はがらりと空き、一見殺風景にも見える。芭蕉の墓碑は道路際の塀を背に、北側の隅に押しやられたように立つ。ただ、あたかも墓の体を成してはいるが遺骨はない。墓碑の表面は半分ほどが剥がれ落ち、教えられて初めてそれとわかる。かたわらに「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と刻まれているはずの句碑も半ば剝がれていて、読み取ることは不可能。これらは芭蕉に傾倒した俳人・不二庵二柳(ふじあんじりゅう)が天明3年(1783)に再建したもので、2代目。初代のものは享保19年(1734)に門人の志太野坡によって建てられていた。時の経過は非情で、これもまた風化にさらされた。
表門を入ってすぐ左手に「芭蕉茶屋」と彫られた碑があるが、中根泰三住職の話によると、松屋町筋の道幅が2間ほど(寺の前の歩道くらいの幅)だった時代、向かいの寺領地にあったものを、道路の拡幅工事の際に現在地に移したという。
梅旧禅院(ばいきゅうぜんいん)
芭蕉の眼光は厳しく
松屋町から上町台地に通じ、大阪文学散歩の定番コースとなっている「口縄坂」を上ったところに梅旧禅院がある。『花屋日記』には、芭蕉が南御堂の花屋仁左衛門宅で亡くなったとき、当時の梅旧禅院の住職がお経を読んだとある。
境内西側の墓地につながる一角に「芭蕉堂」があり、中に芭蕉の像が安置されていた。黒光りするお顔は円みを帯び、眉ははねあがり、何ごとも見逃さない眼光は厳しく、何ごとも聞き逃さない耳は大きい。日本中を自分の脚で歩き切った体躯は強靭さを現す。
もともとこの像は、前述の円成院に志太野坡が芭蕉の墓碑や句碑を建てたとき、寺に寄贈したものであるが、この像が粗末に扱われていることを知った不二庵二柳が怒り、ここ梅旧禅院に芭蕉堂を建て、像を移して安置したと伝わる。この芭蕉堂の裏手の塀際に、芭蕉の墓碑と二柳の墓碑が並んで立つ。
浄春寺(じょうしゅんじ)
句作の反故紙も碑に
梅旧禅院の前の「口縄坂」への道を挟んだ向かい側、浄春寺にも芭蕉の足跡を残す「芭蕉翁碑」がある。碑は正門の入り口の階段脇に「芭蕉反故塚」と共に立つ。以前は門を入ってすぐ右手にあった竹藪の中にあったが、駐車場の整備で表に移されたという。反故塚は、「句作の時に出た反故紙を埋めたのでしょうね」と、その場に居られた僧の話である。
大阪星光学院
最晩年句会を開いた浮瀬亭跡に立つ
大阪星光学院の校内西側は、江戸時代には有名な料亭「浮瀬亭(うかむせてい)」があったところである。『浪華の賑ひ』挿絵には「…遥かに西南を見わたせバ、海原往来ふ百船の白帆、淡路島山に落かゝる三日の月、雪のけしきハ言もさらなり。…」と説明が添えられている。
芭蕉は、素晴らしい眺望のこの亭で句会を開いている。最晩年の死の半月程前の元禄7年(1694)9月26日、絶唱の2句がここで発表されたことから、俳文学史上の記念すべき場所となる。
此道を行く人なしに秋の暮
此の秋は何で年よる雲に鳥
この時期、芭蕉文学は高みに達したといわれる。人生50年俳諧一筋、歩んできた道にはもう誰もいない。この句からは、芭蕉の孤独な思いや寂寥感が読みとれる。蕉門の離反・停滞、派閥・主流争いなど…。いろいろあったが、これらを超越したところに独り立っていたのが芭蕉の姿だったのではないだろ うか。
学院北側、フェンスの外に掲げられた顕彰版には、『句会の折に、浮瀬亭の亭主四良左衛門に所望されて詠んだ、「松風の軒をめぐりて秋くれぬ」の句碑は、明治半ばに姿を消した浮瀬亭跡にそのまま残り、跡地を校地とした大阪星光学院は昭和57年(1982)に創設30周年事業として周辺を整備。その際に右記の2句や蕪村の句碑も建立。浮瀬跡を「蕉蕪園」と名付けた』と記されている。
芭蕉は生涯で1千句余りを詠んだというが、たったひと月余りの大坂滞在にもかかわらず、大阪にはかくも多くの句碑が建てられ、芭蕉の遺志を汲む大小の俳句結社が存在することから、その実力とともに、芭蕉がいかに愛されてきたかをうかがい知ることができよう。
2016年9月
(2017年11月改訂)
中田紀子
《参考文献》
・三重県文化振興課『松尾芭蕉の生涯』
・俳聖松尾芭蕉 − 芭蕉翁顕彰会『芭蕉翁顕彰会碑めぐり』
・芭蕉庵『松尾芭蕉の総合年譜と遺書』
・飯野哲二『奥の細道』
・嵐山光三郎『悪党芭蕉』
・難波別院『南御堂と芭蕉』
・太融寺『太融寺畧縁起』
≪施設情報≫
伊賀市上野にある芭蕉の旧跡
○ 伊賀上野城
三重県伊賀市上野丸の内
アクセス:伊賀電鉄「上野市駅」より北へ徒歩約5分
○ 芭蕉翁生家
三重県伊賀市上野赤坂町304
電話:0595−24−2711
アクセス:上野城より東へ10分
○ 芭蕉翁記念館(上野城内)
伊賀市上野丸之内117-13
電話:0595−21−2219
○ 故郷塚(愛染院内)
伊賀市農人町354
電話:0595−21−4144
アクセス:芭蕉生家より徒歩約3分
○ 上野天神宮(菅原神社)
伊賀市上野東町
電話:0595−21−2940
アクセス:伊賀電鉄「上野市駅」より徒歩約5分
○ 俳聖殿(上野公園内)
伊賀市上野丸之内117−4
電話:0595−22−9621
○ 蓑虫庵
伊賀市上野西日南町1820
電話:0595−23−8921
アクセス:伊賀鉄道「茅町駅」より西へ徒歩約15分
大阪市にある芭蕉の旧跡
○ 太融寺
大阪市北区太融寺町3-7
電話:06−6311−5480
アクセス:地下鉄谷町線「東梅田駅」より東へ徒歩約5分
○ 南御堂(難波別院)前の終焉の地(花屋仁左衛門屋敷跡地)
大阪市中央区久太郎町4-1-11
電話:06−6251−5820
アクセス:地下鉄御堂筋線「本町駅」より南へ徒歩約3分
○ 四天王寺
大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
電話:06−6771−0066
アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より南へ徒歩約3分
○ 浄春寺
大阪市天王寺区夕陽丘町5-3
電話:06−6771−5048
アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より西へ徒歩約3分
○ 円成院
大阪市天王寺区下寺町2丁目2-30
電話:06−6771−0924
アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より西へ徒歩約8分
○ 梅旧禅院
大阪市天王寺区夕陽丘1-18
電話:06−6771−1667
アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より西へ徒歩約3分
○ 浮瀬亭跡蕉蕪園(大阪星光学院中学・高等学校内)
大阪市天王寺区伶人町1-6
電話:06−6771−0737(大阪星光学院)
アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」より西へ徒歩約2分