第20話
「救民」を掲げ武装蜂起した元奉行所与力
朝8時、大坂の町に砲声が轟きわたり激しく火の手が上がった。大坂夏の陣以来220年ぶりの砲声に町民は飛び起きた。天保8年(1837)2月19日、大塩平八郎の乱の始まりである。民家に火を放つ作戦に異を唱える門弟の密告で、計画は奉行所の知ることになった。大塩は予定を早め、北隣の与力朝岡邸に大砲を撃ち込んで屋敷に火を放った。当初の計画では、東町奉行・跡部良弼が新任の西町奉行・堀利堅を案内して天満を巡回し、七つ時(午後4時)、天満組与力朝岡助之丞邸で休息している所に大砲を撃ち込み二人を爆死させ出撃する予定であった。しかし計画は奉行所に漏れ大塩は急遽、午前8時に出撃時間を早め、「救民」と染め上げた旗を先頭に2門の大砲を曳き最初は僅か二十数名の軍団で出陣した。軍勢は天満に上がった火の手を合図に近郊の農民も駆けつけ、徐々に態勢を整えていった。大川沿いを、大砲を射ちながら火を放ち西へ向かう頃には軍勢は100名程になった。天神橋は既に奉行所側に落とされており、更に西へ向かい難波橋を渡り北船場へ。正午頃には途中から駆けつけた農民や町民が加わり軍勢は300人を超えた。北浜から北船場に入った軍勢は鴻池善右衛門や三井呉服店、天王寺屋五兵衛などの豪商の屋敷を次々に襲撃し、火を放ち、奪った米や金銀を貧しい人たちに配った。軍勢は高麗橋から平野町に差しかかったところで大坂城から出陣してきた幕府の鉄砲隊と戦闘となり、死傷者が出ると散り散りになり遁走した。プロの軍隊とにわか仕立ての素人部隊、勝負は瞬く間に終わり、蜂起はわずか8時間で制圧された。そして大塩たちが放った火の手は折からの強風で大坂の5分の1に当たる2万戸の家屋を焼きつくした。俗にいう「大塩焼け」である。7万人を超える人が焼け出され、焼死者は270人を超えたという。この蜂起に参加した門弟や農民たちは幕府方の執拗な捜索で大半が捕えられたが、首謀者大塩平八郎と養子の格之助だけは行方を晦(くら)ました。
敏腕与力・大塩平八郎
大塩平八郎の号は中斎。寛政5年(1793)、代々大坂奉行所与力の8代目として大坂天満で生まれる。14歳になると与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕する。25歳で与力となった平八郎は、謹厳実直で不正に立ち向かう姿は尊敬されたが融通が利かない面もあり、仲間に煙たがれるところもあったという。大坂は幕府直轄地で人口凡そ37万人。そのうち武士は人口の2%ほどの8千人足らずと少なく、幕府から派遣された今でいうキャリア官僚の城代と奉行職、それに地元のノンキャリア職の与力と同心が司法、行政、治安を担当し、その職務は多忙を極めていた。大塩は上司の東町奉行の高井実徳の下で数々の業績を上げ、与力として最高役職の「諸御用役調」にまで出世した。独学で陽明学を修めた平八郎は、文政7年(1824)に天満の屋敷に私塾「洗心洞」を開設。同僚の与力や同心、近郷の豪農、医者、神官などを門弟とした。
フィールドノート
私塾「洗心洞」でストイックな日常
毎春、桜の通り抜けで賑わう大阪造幣局。その敷地のなかに大塩の「洗心洞」跡の石碑がひっそりとある。直ぐそばに与力の屋敷(中島家)の門が整備され残されている。門構えからして与力の社会的地位の高さが伺える。このあたりは与力の屋敷が並んでいた地域で、勤務先の東町奉行所までは天満橋を渡ってすぐ。いまも天満には「与力町」や「同心町」という町名が残る。
大塩平八郎は文政13年(1830)38歳のとき、東町奉行高井実徳の退職に合わせて、養子の格之助に跡目を譲り、奉行所を辞して洗心洞での教育に専念する。塾頭の大塩の日常は、午前2時に起床し、天体観測、陽明学研究、読書、執筆、剣の素振り1千回を行ったのち、5時に塾生を集めて講義を行うストイックなものだった。40歳のとき、陽明思想を説いた『洗心洞剳記(せんしんどうさっき)』や『儒門空虚聚語(じゅもんくうきょじゅうご)』などを著し、歴史家の頼山陽に〝小陽明〟と称えられている。江戸の陽明学者・佐藤一斎とも交流するなど、大塩の陽明学は「中斎学派」と呼ばれる一派を形成するまでになった。その中心思想は「知行合一(ちこうごういつ)」(行動が一致して初めて知が生きる)で、「正義と私利、誠と嘘いつわり、その境目をごまかしてはならない。口先だけで善を説くことなく、実践しなければならない」というものである。
大塩が教育に専念した7年間に奉行所の腐敗は進み、貧富の差は拡大し、正義感にあふれる大塩の憤りは募るばかりであった。そのうえ天保4年(1833)から4年続いた冷害や洪水で全国的な米の大凶作となり、「天保の大飢饉」で町に餓死者があふれた。大塩は飢餓救済策を東町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)に進言するが却下されてしまう。奉行所側も無策だったわけでなく「堂島米取引不正禁止令」「市中小売米価引下げ令」「官米払い下げ施行」など積極的な米価対策を行っていたことが「大阪市史」に見ることができる。
商人の強欲さや飢餓に苦しむ民衆を見かねた大塩は、5万冊に及ぶ蔵書を全て売り払い、六百数十両を困窮者に金一朱と交換できる「施行札」を配布した。これを奉行所は売名行為と強く非難した。
天保7年(1836)9月、大塩は妻と離縁し、門弟や格之助に武装蜂起の計画を打ち明け、挙兵を決意した。そして心血を注いだ2千字に及ぶ「檄文」を書き上げた。大塩はその版木を極秘に彫らせ、刷り上った檄文を摂津、河内、和泉、播磨などの村役人に送って同調を促した。同8年(1837)1月には30名の同志が連判状に名を連ねた。与力、同心11名、近郊の豪農が12名、医師2名、神官2名、浪人1名、その他2名で、商人や町人はいなかった。後々幕府はこの「施行札」と「檄文」という大塩が仕掛けた情報の罠と戦うことになる。
そして檄文は残った
大塩の蜂起の動機と思想は檄文に集約されている。以下はその要旨である。「天下の民が困窮すればその国は滅びるであろう。徳川家康公も“よるべもない弱者にこそ憐みをなす政治を行うことが仁政の基なり”と申されている。ここ245年の太平の間、上層の者は贅沢三昧で驕りを極め、役人は公然と賄賂を授受している。私腹を肥やし、民百姓に過分の用金を申しつけている。我々はもう堪忍できない。天下のため血族の禍の禁を犯し、有志と申し合わせ、民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕りたかぶる金持ちを成敗することにした。生活に困っている者は金銀や米を分け与えるから大坂で騒動が起こったと聞いたなら一刻も早く大坂に駆けつけてほしい。これは一揆蜂起の企てとは違う。また、天下国家を狙い盗もうとする欲念より起こした事ではない。ここに天命を奉じ天誅を致すものである」
文面からは、大塩が幕藩政治の改革を強く望んでいたことがわかる。「大塩の乱」の後、厳しい回収令にもかかわらず檄文は民衆によって筆写を重ね、全国に流布した。
檄文の版木復元
この檄文の版木は乱の時に焼失した。大塩事件研究会の松浦木遊氏は「四海困窮いたし候・・・」で始まる2千字に及ぶ大塩の救民への熱い想いに感動し、大塩の乱から170年目に当たる平成18年(2006)に檄文の版木の復刻に挑んだ。檄文は蜂起が事前に悟られないように32枚に分割して何人かの彫師に彫らせたといわれていることから、松浦氏も32分割して筆順通りに彫り進め、半年をかけて完成させた。復刻された版木は、松浦氏が自宅の一角に開設した私設「無量図書館」に展示されている。
大塩の情報戦略と幕府の危機管理
大塩の乱は僅か8時間で鎮圧され、蜂起は失敗に終わった。しかし大塩の情報戦略は見事に成功した。窮民を救うためと訴えた「檄文」や、蔵書を売って得た600両を困窮者に与えると書いた「施行札」は、自らの人徳と蜂起の正当性を強く印象づけた。一方、東町奉行の跡部良弼は2日前の17日に大塩の門弟の密告で蜂起の情報を得ていながら、初動の不備から出撃を阻止できなかった。また、蜂起の前日の2月18日、大塩が幕府老中宛に飛脚便で送った建議書は、大坂奉行所が江戸の飛脚問屋で取り戻して大坂に送り返すが、箱根の山中で盗難に遭うというアクシデントも重なり混乱に拍車をかけた。この建議書の顛末については後ほど詳しく述べる。
大坂奉行所は19日の夜には人相書を全国へ配布。事件の情報は翌20日には江戸から四国、九州まで瞬く間に伝播した。慌てた幕府は各藩に「大塩狩指令」を発令し、「不届きものの放火騒ぎ」と封印を図ろうとしたが、危機管理の不手際は否めなかった。幕府は湯屋や髪結所など人の集まる場所で大塩の噂話をさせないよう張札を張るなど、大塩の乱の影響の軽減に努めたものの、民衆の関心は高く、大坂の町にはいたる所に「世直し大明神」など風刺の張札が貼られた。また、九州地方では『大湊汐満干』という題目で悪政に苦しむ領民を救い悪人を征伐する芝居が大人気になるが、幕府はすかさず上演禁止を命じた。
闇に消えた建議書
大塩の情報戦略の第3弾ともいうべき「国家之儀ニ付申上候」と表書きされた建議書は、蜂起の前夜である2月18日に大坂飛脚問屋尾張屋から江戸の京屋弥兵衛宛に発送された。これを内通で知った東町奉行の跡部良弼は、手代を江戸に走らせ、飛脚問屋京屋で未開封の状態で取り戻した。そして3月2日、江戸の定飛脚問屋近江屋から大坂へ送り返された。しかし、箱根の山中で渡り人足の飛脚・清蔵が中に金品があると睨んで開封したが、金目のものではないと分かり道中に放り捨てた。かくして雨に濡れ傷んだ書簡が拾われ、3月6日、伊豆国韮山の代官江川英龍に届けられた。
情報通の江川は書簡の内容を読み仰天した。書簡には、当時大坂に在職していた6人の老中の内、4人が大坂の奉行時代に御法度の不正無尽(頼母子講)で蓄財をしていたことを告発するショッキングな内容だった。また、昌平坂学問所の学頭・林述斎が大塩の口利きで融資を受けた1千両の借財関係の書類などもあった。ことの重大さに気づいた江川は、幕府からの搬送命令にもかかわらず代官所の書役や手代を総動員して8日程かけて書写させた。何故に全文を書き写したのか真相は謎に包まれているが、情報通で策士の江川は、建議書が告発された幕閣に渡れば隠蔽され消えてしまうことを恐れたのかも知れない。そして江川は、3月12日には腹心の剣客・斎藤弥九郎を大坂に派遣して、大坂の状況や大塩の消息を調べさせた。その報告書は水戸藩主徳川斉昭の家臣藤田東湖が『浪華騒擾記事』として書き残している。江川は手元に写本を残し原本を江戸に搬送。幕府に届いた建議書は案の定、老中たちによって秘密裡に処分され闇に消え、老中就任をめぐる政争の渦中にあった水戸藩主徳川斉昭と大学頭林述斎宛の書簡は、二人に届けられることはなかった。
そして、蜂起から153年の時を経て、建議書の写本は平成2年(1990)江川家の文書の中から発見された。それまで、大塩の蜂起の原因は奉行の跡部良弼や豪商たちへの個人的な恨みや幕府の役人に登用されない不満などと取沙汰されていたが、建議書の全文の出現により、「大塩平八郎の乱」は大坂での一事件にとどまらず、幕府中枢部を巻き込む大事件であったことが判明した。大塩研究の第一人者である元大阪市立博物館館長の相蘇一弘氏は、著書『大塩平八郎書簡の研究』の中で、「建議書は蜂起について一言も触れていないが、檄文と表裏一体をなし、蜂起を成功に導くための重要な手段であったことが理解される」「蜂起の知らせが江戸に伝わり、この下級武士の蜂起に幕府内が騒然としている最中に建議書が届き、幕府の老中のもとに水戸藩主徳川斉昭、大学頭林述斎が呼ばれ、秘密裏に会議が持たれ、檄文と建議書を検討すれば蜂起の趣旨が理解してもらえるはずだと大塩は思ったのだろう」と解説。さらに、「檄文と施行札で世間を味方につけた大塩は、建議書で決起の趣旨を示し、幕府が何らかの改革を図るのを立て籠もりながら待つ作戦を取ろうとしていたのではないだろうか。国家の行く末を真剣に憂い、一命をかけて蜂起する自分の真意は必ず理解されると信じていた」とも。そして、「ただし計画を成就させるためには、まず大坂の両町奉行を殺め、豪商の金銀米を奪って貧民に施し、その後に立て籠もることが必要条件だった。さらに建議書が幕閣に届くことも必須条件だった。だが現実には蜂起は失敗し、建議書は幕閣の手で隠蔽された。大塩の行動は、動機はともかく形の上では、幕府に楯突き世間を騒がせた謀反でしかあり得なかったのである」と締めくくられている。なぜ大塩は東町奉行の跡部良弼(水野忠邦の実弟)と赴任したばかりの西町奉行の堀利堅(林述斎の娘婿)の二人を同時に殺害しようとしたか筆者には疑問が残る。
大塩平八郎・格之助自害
群衆にまぎれて逃走した大塩と格之助は靭油掛町(現在の西区靭本町)の染物職人・美吉屋五郎兵衛宅に潜伏するが、40日後の3月27日、所在を突き止められ二人は爆薬を抱え自決した。享年、平八郎44、格之助27であった。
大塩の乱の評定(ひょうじょう)(裁判)は江戸と大坂で行われた。罪状が宣告されたのは事件発生から1年半後の天保9年(1838)8月21日であった。この間、取調中に50名あまりが牢死、自殺者も7名に及んだ。如何に厳しい取調が行われたか伺い知ることができる。大塩平八郎を始め首謀者19人の死骸は塩漬けにされたのち、磔(はりつけ)にされた。そのほか、斬首の刑に処せられた者17名、遠島23名。親戚縁者にいたるまで処罰を受けた人は750人に及んだ(相蘇一弘調べ)。
一方、蜂起の計画を密告した平山助次郎と吉見九郎右衛門の二人の同心は小普請(武士の位の一つ)に取立てられたが、平山は天保9年(1838)6月20日、預けられていた安房勝山の城主・酒井忠和の屋敷で割腹自殺をした。訴状を持って駆け込んだ二人の少年は銀50枚を賜った。城代の土井利位は賞与を受けたが両町奉行には賞与はなかった。建議書を筆写した江川英龍は天保の改革を推し進める老中のトップ水野忠邦に登用され、わが国の海防の重要性を建言し西洋砲術の先達として幕府の要職に就いた。
幕府は大坂でのこの反乱を不届き者の放火騒ぎとして隠滅を図るが、元与力の大塩が直轄地で蜂起したという事実は、幕政に不満を持つ人々に反抗心を芽生えさせた。一揆や騒動が頻発するようになり、やがてそのうねりは倒幕へと繋がっていった。
大塩事件研究会
大塩平八郎の墓は、代々大塩家の菩提寺大阪天満の成正寺にある。江戸時代は大罪人として墓を造ることが許されなかったが、明治維新から30年後にようやく建立された。しかし大阪大空襲で焼失し、現在の墓は昭和32年(1957)に有志によって復元されたもの。墓の隣には「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が決起150年を記念して昭和62年(1987)建立。毎年、命日の3月29日に慰霊法要が営まれる。
大塩事件を多角的に研究し、その全貌を明らかにすることを目的として、昭和50年(1975)に「大塩事件研究会」が発足した。成正寺に事務局が置かれ、会員は約150人。郷土史愛好家や関係者の子孫たちが集まって毎月古文書を読む会を開催し、機関誌『大塩研究』を年に2回発行。平成31年(2019)で80号を重ねた。蜂起から160年にあたる昭和51年(1976)には、終焉の地に近い靭油掛町(現在の大阪市西区靭本町)に、篤志家の寄付を仰いで記念碑を建立した。その碑文の最後には「大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている」と記されている。
2016年5月
(2019年4月改訂)
橋山英二
≪取材協力≫
大塩事件研究会(成正寺内)
≪参考文献≫
・森鴎外『大塩平八郎』
・相蘇一弘『大塩平八郎書簡の研究』1~3巻(清文堂出版)
・『大塩研究』第1号~第70号(大塩事件研究会)
・大塩事件研究会編『大塩平八郎の総合研究』(泉書院)
・『出潮引汐奸賊聞集記』
・仲田正之編『大塩平八郎建議書』(文献出版)
≪施設情報≫
○ 大塩平八郎終焉の地
大阪市西区靭本町1–18–12
アクセス:大阪メトロ四つ橋線「本町駅」より徒歩約3分
○ 成正寺
大阪市北区末広町1–7
アクセス:大阪メトロ谷町線、堺筋線「南森町駅」より徒歩約3分
○ 洗心洞跡
大阪市北区天満1–1–79(大阪造幣局内)
アクセス:大阪メトロ谷町線「天満橋駅」より徒歩約15分
○ 東町奉行所跡
大阪市中央区大手前1–5–44(大阪合同庁舎1号館前)
アクセス:大阪メトロ谷町線「天満橋駅」より徒歩約5分