国際食学料理研究家 フードフィロソフィスト 大阪樟蔭高等学校教育アドバイザー 食育ハーブガーデン協会理事長
大阪樟蔭女子大学英文科卒。結婚・育児のかたわら「食」の専門家への道を歩きはじめた。ニューヨークやヨーロッパ、タスマニアなど豊富な海外生活のなかで多くのパーティーコーディネートに携わり、研鑽をつんだ。 2000年、「キッチンカンバセーション」を設立。ワールドワイドなネットワークを生かして、食のプロデュース活動を多角的に展開。 2009年もう一度原点に立ち戻って新たに見つめなおし、未来に向かって歩みだす礎となる「食育ハーブガーデン協会」設立。 「未来に紡ぐすこやかな食と暮らし」を願いとし、食育ハーブガーデンの実施や食育ハーブクッキングなどのボランティア活動を通じて食卓のフィロソフィーを提唱し、全国的な広がりとなる。 2011年よりスタートした、大阪樟蔭高等学校「健康と栄養コース」の教育アドバイザーとして、学科の総合プロデュースを行い話題となっている。 NHK「きょうの料理」や雑誌など様々なメディアでも活躍中。 料理教室「リスタ・クリナリースクール」では世界の家庭料理の紹介とともに、次世代の料理研究家の育成も目指している。 主な著書に「すぐにできる美味しい圧力鍋料理」(誠文堂新光社)、「きれいに暮らす」(プラネットジアース)、「おいしい!楽しい!グッド・ギャザリング」(文化出版局」「おいしいお茶のひと時を…」(旭屋出版MOOK)、「トマト美人のごちそうメニュー」(主婦と生活社)など。 大阪の実家には大きな桜の木があり、その下に赤い鳥居と巳さんをお祀りしているお社がありました。私は幼い頃から病気がちでほとんど外で遊んだことがありません。「この子は座布団一つあれば遊んでる」といわれるほど、お人形と絵本で一人遊びしていました。妹は人一倍元気で男の子を家来につれて、夕暮れ遅くまで真っ黒になって遊んでいました。それでも庭の桜が満開になると、大家族みんなでお花見宴会。毎年のさくらが咲く度に、私の誕生日が17日なので今年も何とか来れたのかなーと母や祖母の感慨はひとしおだったのでしょう。母は一人娘で戦後若者がいない中、祖母が商船大学出の父を見つけ養子にしたものの、折り合い悪く、妹が生まれた頃家を去っていました。 母はもうその頃父のことが大好きになっていたようで、きっと迎えに来ると言った言葉を信じていましたが、そうはいきませんでした。そのことで母の心は深く傷つき、癒えることはありませんでした。となると大家族の直系の跡継ぎは私ということになるのですが、病気がちで、にこにこおとなしくとろーんとしている。祖母は「可愛さあって不憫100倍」。家のお社に毎朝、お酒、お米、お水など供えなんやらなんやら唱えていました。1日15日は、千日前のスバル座の裏に水掛けお不動さんがあり、念入りにお参りし、その後法善寺の水掛けお不動さんにお参りします。苔生したお不動さんと線香の匂い、忙しく行き来する人の様子が今も思い出されます。時には、家のお社で護摩焚きをし、修験者風の人が大声あげている前に、座らせられたりしました。 石切神社にも祖母と共によく行きました。気のしっかりした人でしたから、養子を帰らせたという負い目、世間への意地、近所の雀の性無い噂話―何とかこの子を人並みの元気な子にしなければ、いいえ、絶対元気に、そこらの子には負けまへんでーという気概が凄く、お百度をたったと踏んでいました。 小学校に上がり、ふらふらしながらの学校生活。それでも学芸会でうさぎのお母さんの役をすることになり、「それはちゃんとしなければ」と神戸のファミリアでうさぎのエプロン、白い籐かごに可愛い花模様のコットンの中袋がついていて、それと同じ生地のブラウスまで特注して、準備万端!ところが前日大熱を出し、はしかになり、うさぎのお母さんの一式は代役の女の子へ。えーって吉本ばりに家族中ずっこけました。当時大阪の商家では日本舞踊のお稽古をよくしました。わたしも3才から、若柳吉栄次、吉次師匠に手ほどきを受けました。体の調子をみての合間合間のお稽古でしたが、4月、桜の頃大手前会館で「蔵前お染」で初舞台となりました。夏は道頓堀川のかき船で裾引きのお稽古。道頓堀川の水の流れ、川風の涼しさが気持ちよくて、後でかき氷を食べるのもうれしかったです。祖母の張り切りようは並々ならぬもので、衣装は自前。松屋町でわたしの踊る演目と同じ人形を作るのも趣味。家には何体ものガラスケースに入った日本人形がありました。因みにお染の着物は後に布団に変身していました。 当日熱でも出されたら大事。学校なんて行ってられないから祖母の勝手な判断でお休みが続く状態。桜咲く当日、学校の校長先生、担任の先生、お友達も招き、各界からのお祝いにうもれて、無事祖母プロデュースの大イベントは終わりました。次の日、家族はみんな死んでました。もう、霞のように昔のことです。 あれだけわたしの体を按じた祖母よりも、私は長生きをし、苦労かけた母は、10年前に桜吹雪の中、旅立ちました。 母の遺品を片付けていると、大事にしまってあるあの時の「お染」の長襦袢を見つけたのです。桜のエッセンスを集めたような何とも言えないピンク色の地に銀粉を散りばめ、赤に絞りの模様で「蔵前 お染 あい子」と染めぬいてあります。思わず抱きしめてしまいました。もう忘れてたのに、、。言葉にならない感情が胸を突き上げました。 それから、桜の季節には、「お染さん」をかざり、庭の桜を活け、花見の宴を楽しみます。私は季節のイベントをあれこれ飾って祖母譲りのプロデュースをしては楽しみます。照れくさそうに頭かきかき「しゃあないな」とまんざらでもなさそうな顔をして席に着く主人も今年はいない。 「蔵前 お染 あい子」と染め抜いた文字が、「頑張れ!」とみんなで大声出して励ましてくれているようです。ふわふわでとろーんとして頼りない私を何とか人並みの人間にしてくれたのは、みんな、みんなの愛情。今年はひとりになって、見つめる桜はどんなものなのでしょうか。花の宵にぴったりの「ほろ酔い 桜カクテル」でも作りましょうか。 酒粕、牛乳、ワイン、砂糖をミキサーにかけて、ちょっと桜色に染めて、花びらでも浮かせましょう。飲めないあなたですが、カクテルを一杯供えて乾杯! |