国際食学料理研究家
フードフィロソフィスト
大阪樟蔭高等学校教育アドバイザー
食育ハーブガーデン協会理事長
大阪樟蔭女子大学英文科卒。結婚・育児のかたわら「食」の専門家への道を歩きはじめた。ニューヨークやヨーロッパ、タスマニアなど豊富な海外生活のなかで多くのパーティーコーディネートに携わり、研鑽をつんだ。
2000年、「キッチンカンバセーション」を設立。ワールドワイドなネットワークを生かして、食のプロデュース活動を多角的に展開。
2009年もう一度原点に立ち戻って新たに見つめなおし、未来に向かって歩みだす礎となる「食育ハーブガーデン協会」設立。
「未来に紡ぐすこやかな食と暮らし」を願いとし、食育ハーブガーデンの実施や食育ハーブクッキングなどのボランティア活動を通じて食卓のフィロソフィーを提唱し、全国的な広がりとなる。
2011年よりスタートした、大阪樟蔭高等学校「健康と栄養コース」の教育アドバイザーとして、学科の総合プロデュースを行い話題となっている。
NHK「きょうの料理」や雑誌など様々なメディアでも活躍中。
料理教室「リスタ・クリナリースクール」では世界の家庭料理の紹介とともに、次世代の料理研究家の育成も目指している。
主な著書に「すぐにできる美味しい圧力鍋料理」(誠文堂新光社)、「きれいに暮らす」(プラネットジアース)、「おいしい!楽しい!グッド・ギャザリング」(文化出版局」「おいしいお茶のひと時を…」(旭屋出版MOOK)、「トマト美人のごちそうメニュー」(主婦と生活社)など。
10月10日は、堺金田村(現金岡町)の秋祭り。稲穂が頭をさげる実りに感謝する、秋の祭りです。大阪の農村だけでなく、日本中で秋の祭りは賑やか繰り広げられます。有名なところでは、京都の時代祭、鞍馬の火祭り、岸和田のだんじり祭りなど、その地域によって、「感謝」の表し方が違うものの、心は米の取り入れを終わり実りの秋の余裕と清々しい気分が溢れ、神に感謝するというものです。その昔となるのでしょうか、北河内、中河内、南河内と豊かな農村地帯が商都大阪をささえていたのです。今はすっかり工業団地や住宅地となってしまいましたが、恵まれた自然と風土があり、季節のリズミカルな節目があって、その節目毎に神は人に迎えられ、丁重なもてなしを受け、その代償として豊かな実りをあたえられたのです。神との豊穣の約束は破られることがなかったのでしょうか、祭りは定期的にきちんと繰り返し持続され伝承されてきたのです。日本の祭りが農耕祭と言われる訳で、春には豊作を祈願する春祭り、夏には、豊作を襲う災害をふせぐ夏祭り、そして、秋には盛大な収穫祭が行われます。
義父田中金太郎の著書「金田風土記」には、秋祭りの準備の一つ、金岡神社を囲んでいる塀のお掃除「宮さんのドエサラエ」から始まり、宵宮では「御神灯」と書いた提灯が各家の軒先に吊るされ、火が灯り、お神楽の太鼓の音、神前の鈴の音が絶え間無く響きます。「のぞき」と言われる、歌いながら物語を語る大きな紙芝居をのぞき窓から見る見世物や「だんご細工」売りなど賑やかだったそうです。伊勢神楽とつながりのある神楽舞の一行が獅子が鈴を持って舞う鈴舞を各家の門付けに歩きます。翌日の後宮では、「奉納角力 — ほうのうすもう」。そして、11月になれば、「亥の子祭り」。「亥の子突き」と言って、家の人が作ってくれた藁束を家の門や、反響の良い石橋の上などをポテンポテンついて亥の刻(午後9時〜11時まで)に突きながら遊びます。そして、変な歌だけれどこんな歌を歌いながら、何人もの子供達が集まって町内を歩いたのだそうです。
♬亥の刻の晩に、重箱拾ろて、なか開けてみれば、
十兵衛さんのキンタマ、入ってたぁー、入ってたぁー♬
この日に「亥の子餅」(ふつうに餅をつき小豆あんやきな粉をまぶしたもの)を作ります。
♬亥の子餅ついた。餅ついたが、客がない。恵比寿、大黒客にして、私も相伴いたします♬
と食べる前に歌ったのだそうです。どんな節回しで歌ったのでしょう。
こんな行事は関西地方で多く行われ、秋の風物詩であり、また、夜行性のモグラが冬眠に入るまえに活動するので、それを除くための行事でもあったのです。秋の祭りなどで特別のお客がある時は、河内の農家はたいてい鶏を飼っており、卵をようやく生み出した若鶏をさばき、大小の卵が鈴のようについている卵巣を大皿におき、その周りに色の良い肝、白いささみをならべ、河内長野付近で採れる松茸をふんだんにいれて、「すっきゃき — すき焼き」をします。これは大ご馳走で、滅多にたべれるものではなかったのです。
昭和45年の11月の始め、結納を収める前に始めて田中の家に母と挨拶に行った時、前栽に色とりどりの菊の花が咲いていました。その時、振舞っていただいたのが「かしわのすっきゃっき」でした。「朝、鶏をしめて、どっさりのまったけを用意しましたんやで、さぁ、食べなはれや」とニコニコ嬉しそうに義母が話していたのを、今でも覚えています。
父はそっとその場からいなくなり、その間に私のために書いた一句
「丹精な菊なるよとしかと眺めさかしも」
年月を重ねるごとに思い深い人たちはいなくなり、その頃の町の風景、家の匂い、時代の賑わいは消えているけれど、いよいよ思ひ出は季節の度に鮮やかになります。これは私の宝物。
大阪の「かしわのすっきゃっき」をご紹介します。