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大阪は、長い歴史と伝統に培われた都市である、難波宮にはじまり石山本願寺の寺内町、豊臣秀吉の築城をはじめとする都市基盤の整備を経て、そして、近世にはわが国における経済の中心に成長した。明治維新以降、急速に工業化が進展し、大正期には「大大阪」のスローガンのもと近代都市へと変貌を遂げ、わが国有数の大都市へと発展していった。
その歴史のなかで、大阪は「記憶装置」という役割を担う。それは、単に遺跡や史跡、そして歴史的まちなみが遺されている歴史都市あるいはかつての古都というだけでなく、大阪の固有性や独自性、そして、長い間に培われてきた人々の想い、喜怒哀楽が、そこに積み重なり続けているのである。
<文化立都・大阪>に必要な大阪らしさ、すなわち大阪の都市の魅力は、無からつくりだされるものではなく、先人から受け継いだ「都市の記憶」を活かしていくことで醸しだされるものである。
ここでいう「都市の記憶」とは、単に文化財的価値のある歴史資源だけを意味するのではなく、先人たちから受け継いできた、風習、風俗、言い伝えなど、不可視の生活文化全般、そして、感性や想いをも含むものである。それは、長い歴史と伝統に培われた大阪の個性であり、まさに大阪らしさを形づくるものである。
長い時間をかけて培われ、蓄積された都市の記憶を、多面的かつ総合的に保護し、活用していくことは、これからの都市の重要な役割となる。そうすることで、大阪は「記憶装置」としての輝きをさらに増していくのである。 |
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私たちはまた「都市の記憶」を未来につないでいく種子を蒔いていかなければならない。例えば、大阪城や難波宮跡一帯の都市遺産を再生していく事業、あるいは、御堂筋や太陽の塔など、一般的にはまだ都市として認識されていない近現代のシンボリックな足跡を活用しながら保全し、数十年の時を経て都市遺産となるよう努めていくことも重要である。
また、わが国最古の官道といわれる竹内街道や蟻の熊野詣でで知られた熊野街道(小栗街道)、東西の高野街道や京街道等の旧街道沿いには文化的・歴史的にも見るべきものが多い。私たちは、これら先人から受け継いだ価値を様々な視点でもって今一度見直すとともに、これらを未来へ引き継ぐべく努力すべきである。
過去を保存するだけではなく、未来における伝統を創造していくことも記憶装置としての都市の重要な役割である。そうすることによって、過去から現在、未来への時間の文脈のなかで、都市は常に光り輝いていくことが可能となるのである。
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そうした試みは、一施設だけでなく、大阪に点在する文化施設が連携・ネットワーク化することにより、大きな力となっていくであろう。例えば、各施設の広報・プロモーションや情報化においても、複数施設で連携することで、より効果的におこなうことが可能となり、集客のうえでも有効となるだろう。前計画の10年間で整備されてきた文化施設の一層の活用とネットワーク化にも力を入れるべきである。
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「文化」とは、日本においては大正時代になってはじめて、ドイツ語のKultur(クルトゥール)の翻訳語として、現在のようなニュアンスで使われるようになった言葉である。ラテン語の「耕す」(colere)を起源とし、人為によって自然を変えていくという意味で、教養、教化といった意味で解釈されがちである。
しかし、オランダの文化史家ホイジンハがそのその著作『ホモ・ルーデンス』で論じているように、本来、文化とは「遊び」に起源をもち、日本の文化である歌舞伎や浮世絵などの芸能も、いわば悪所、遊びの空間の中で発展してきた。その意味で、文化とは本来、猥雑さ、スリル、あるいは周縁的な要素を包括した楽しみの総体として捉えられるものである。その多様性こそが、文化の存在意義であると言えよう。
大阪がめざす<文化立都>は、より多様な文化の可能性を追求し、多様な文化を内在させていくものである。人の営みが長い時間をかけて蓄積し、それが受け継がれていくことによって磨かれ、文化は常に新陳代謝を重ねる。その舞台、あるいは土壌となる場が都市である。
ひとつの文化価値が異質な価値と出会い、交わり、さらに新しい文化価値が醸成される。都市は、文化が集積・交配・醸成・発信される創造のサイクルを有する、いわば文化の「創造装置」としての役割を果たすのである。
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