すき焼きのルーツは横浜にあり?!
関東の「すき焼き」。 牛肉と野菜を"一緒に煮る"のが関東流。
西高東低のイメージが強い和食の世界だが、東から流れてきて普及したものも数多くある。ひとつは寄せ鍋で、これは明治期に東京の家庭でよく作られていた。当時は「楽しみ鍋」と呼ばれ、大流行したようだ。
関東の鍋の代表といえば、「すき焼」が挙げられる。しかし、すき焼きほど、同じ料理で東西の違いがある食べ物も少ないのではないだろうか。関東のすき焼きは「煮る」料理、そして、関西のすき焼きは「焼く」料理なのだ。
幕末から明治にかけて西洋文化がどっと入ってきた関東では、当然ながら牛肉を食べる習慣も根づいた。初めは堅気の食べるものではないと毛嫌いされていた牛肉だが、牛鍋の旨さに接すると次第に食材として受け入れられていく。これぞ、食の文明開化のひとつであり、その後の日本の食文化の歴史を大きく変化させていくことになった。
すき焼のルーツといわれるのが、横浜あたりで流行した「牛鍋」。
この料理は鍋に割り下を使い、牛肉を炒めるようにして煮る。但し、味付けは醤油ではなく、味噌味。おまけに薄切り肉ではなく、角切り肉を煮込んでいた。現在のすき焼きとは似て非なるものであったが、この「牛鍋」がすき焼きのルーツのひとつと言われている。
すき焼きのルーツは関西にあり?!
そんな牛鍋に比べて、すき焼きは焼く料理。その昔、農具であった鋤を使って、鶏や魚を焼いていたことから始まった。そのエッセンスを鍋に用いたのがすき焼であるという説もある。だから関西の家庭では割り下を使わず、鍋で牛肉を焼いて、砂糖と醤油を加える調理法を用いている。
但し、現在では飲食店で食べるすき焼は大阪でも関東風が多い。というのも、醤油と砂糖のみで味をつけるとなると、料理店での差別化がしにくく、家で食べても同じ味になってしまうからという理由が挙げられる。料理屋としては、やはりオリジナルの割り下で差異をつけ、こだわりを見せたいところなのだろう。
関東から西へ伝わった牛鍋と、関西から東へ流れたすき焼がいつのまにか融合し、現在のすき焼なる料理へと変貌を遂げる。味噌味の牛鍋が廃れ、すき焼の名が広まるきっかけになったのが関東大震災だといわれる。震災で牛鍋屋がなくなり、その間に関西から進出したすき焼屋が残ったのである。関東自慢の鍋も、いつしか関西の醤油味となり、そして同じ料理名に統一されたというわけだ。
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