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関西・大阪21世紀協会は「文化力向上」「関西・大阪のイメージ向上」「水都大阪まち育て」の三本を軸に「関西・大阪の文化力向上」を目指します

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魚すき

魚のすき焼き、それが「魚すき」

幕末の元治(がんじ)元年(1864年)、道頓堀の戎橋南詰に創業、歴史は約150年に及ぶという老舗鍋料理店。名物となっているのが「魚すき」だ。大阪を舞台にした名作「夫婦善哉」の中でも「ちょっと張り込んで丸萬で魚すき食べよか」という台詞が存在するほど。  
魚すきとは、「魚のすき焼き」というとイメージが伝わりやすいかもしれない。新鮮な魚(鯛、鰆、カンパチ、海老、烏賊、穴子)の切り身を秘伝の甘辛いダシにしばらく漬け、少量のダシが入った小振りの平鍋で食べる分だけを、煮焼きする。それを溶いた生卵につけて食す。他に野菜は春菊、三つ葉、青ネギなど、糸こんにゃくと焼き豆腐の組み合わせ。美味しく食べるコツは、魚は決して煮過ぎてはいけないこと。少し煮立ったダシに一枚ずつ魚を入れ、火が通ったら、すぐ食べる。身が固くなる前の一番美味しい瞬間だ。キリリと山椒の風味が効いた醤油ベースのダシは一子相伝の味わいで店主のみぞ知る。

「丸萬」は、ミナミで名を馳せ、明治時代から、大阪人にとって、ハレの日に家族や仲間とワイワイと楽しむ鍋として人気を博した。当時は、旦那衆や文楽役者も足繁く通っていたという。当時は、見合いの場や出会いの場にもなっていたよいう余談もあるほど。
武士社会であったころは、ひとり一膳というスタイルが当たり前で、皆で同じ器のものを食べるという風習はなかった。高級料亭でもなく、大衆食堂でもなく、座敷でざっくばらんに、みんなで鍋をつつくというスタイルを確立させたのは丸萬なのかもしれない。
正に大阪を代表する鍋にふさわしいこの味を受け継ぎ、守り、伝えているのが、八代目の後藤隆平さんと九代目の英之さんだ。

「丸萬」はミナミで大商店となる

魚すきの起源は牛鍋よりも古い。初代の飯井藤吉さんは武士であったが、幕末の混乱の時代にあって、能登(石川県)から大阪へやってきて、商売をすることを決意した。そして、瓢箪山稲荷神社(東大阪)の辻占で「西の賑やかな場所で商売をせよ」とのお告げを受けたため、ミナミの地に店を開いたのだという。さらに、その時、盆に饅頭を載せた人が通ったため「丸萬」という店名になったのだとか。能登の漁師の鍋にヒントを得たのではないかと隆平さんは話す。  
五代目店主の後藤市蔵さん、六代目店主の武美さんの苦心の末に現在の魚すきは完成した。明治から大正にかけて、丸萬は本家の魚すき店の他、親族が経営する食料品店やうどん店、かまぼこ屋などもあり、賑やかな道頓堀を席巻していた。  
魚の臭みを感じさせない秘伝のだしによって、子供から年配の人にまで愛される鍋として定着し、昭和4年には、戎端の南詰の店が洋館に建て替えられ、大阪ミナミのシンボルとなったのだそう。  
また、すき身の技術も魚すきの美味しさの重要な要素のひとつ。「この技術を習得するのには、経験が大切なんですよ」と隆平さんは話す。

一度は消えてしまった大阪名物「魚すき」が復活

「長い歴史の中で色々なことがありました」と語る隆平さんは振り返る。戦災で店が焼けてしまい、さらに、戦中、戦後は食料難で食材が手に入らず、一時は店を休まざるを得なかったという。その後、本家の魚すき店だけは1本筋を入った自宅に店舗を移し、再開を果たし、その後、鰻谷、三ツ寺と店は移ったが、七代目となる隆平さんの兄が突然の病にこの世を去ってしまう。平成8年のことである。「当時、店の経営などの一切を兄が取り仕切っていました。私は味以外の店のことは、何ひとつわかりませんでした」と隆平さんは話す。隆平さんは画家としても活躍していたため、店を休まざるを得なかった。後継者がいなくなった丸萬は、ここで、魚すきの長い歴史に一度、幕を閉じてしまう。

その後は、魚すきの味を知るファンから「以前に食べたあの味がどうしても食べたい」という要望で、帝塚山の隆平さん宅で、魚すきは細々ながらも、生きながらえた。
「大阪を代表するこの味を守りたい。そして、伝えていきたい」という隆平さんの想いと、ファンの後押しもあり、11年の時を経て、2007年(平成19年)に北船場の地に復活したのだ。「ミナミの雰囲気は昔と変わってしまいました。戦争で焼けていない北船場は昔の赴きがまだまだ残っていて、自分が育ったミナミの町を思い出させてくれました」と隆平さんは、この地を選んだ理由を話す。
「古くからの常連さんは勿論、今の人たちにも、この大阪の味を知ってほしいという思いでいっぱいでした」と、隆平さんは言う。

味を伝えていく大切さ。食文化の継承

昔と同じ味の魚すきを作ることが難しいのだという。「子供の頃から、ずっと同じ味を食べてきました。味はレシピだけでは、継承していくことが難しいんですよ。今と昔では、原材料が違います。でも、同じ味を再現することが大切なんです。味は生き物です。自分の舌でしっかりと味を覚えておくことが、食文化の継承にとって最も重要なことなんです」と隆平さんは話す。そのため、心と舌で覚えた魚すきの味を再現するために、常にレシピ(材料と作り方)は微調整をしているのだそう。
魚すきの一番の特徴はダシにあるのだが、昔の大阪人は濃厚でしっかりした味を好んでいたのではないかと隆平さんは言う。「食べてみると、品があって、さらっとしている。なんとも後口の良さを大切にしていたと思いますね。ホッとするあったかい味というものが大阪食文化の原点ではないでしょうか」。  造形作家でもある英之さんはアートと料理には共通点があるという。「色を表現するのと味を表現することはとても似ています。味と見た目のインパクト、そしてプレゼンテーション。記憶に残る作品として料理を極めたいですね。大阪の地に馴染んだこの味を後世に伝えていくことが使命だと思っています」と英之さん。  
「魚すき」の他、大阪名物であった「魚めし」(750円)もランチタイムには楽しめる。これも、後世に残して生きたい味のひとつである。


魚すき 一人前5250円


戎橋南詰にあった戦前の丸萬本家。2階には大座敷があった。


鍋は戦前から受け継いでいる。「戦災でススだらけになってしまった鍋を磨いたことを今でも思い出します」と隆平さんは話す。


戦火で残った看板。風情がある。


明治時代の料理店案内より(大阪市立中央図書館蔵)

2階の座敷席は、ついたてもなく、隣合う客同士が
賑やかに食べて、飲んでいたのだそう。
   

大阪市中央区瓦町1-5-15 ヤスダEC瓦町ビル1F
11:30~14:00、17:30~21:00
/ 日祝 休 (土月は魚すきの予約のみ)
地下鉄堺筋線北浜駅、堺筋本町駅より徒歩5分
TEL:06(6201)4950 
http://www.maruman-honke.com
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