鍋の中には緑の森が
卓上のコンロの上に置かれた鍋には、緑の山がこんもり。一見、野菜だけに見えるが、中には豚肉と豆腐が隠れている。これが草鍋。野菜が主役の素朴な鍋だ。メニューはこれのみ。むしろ、これだけで充分。
「始めはちゃんこ鍋って言ってたんですけど、いつの間にかお客さんが『草鍋』と呼ぶようになりました。『草、食べに行こか』てね」と女将の横山美栄さんは話す。
亡きご主人・誠一さんが中国へ出兵し、現地の料理をヒントに、復員後に日本人風にアレンジし、試行錯誤の末に完成させたが草鍋の始まり。現地で食べた鍋については、ご主人は多くを語りたがらなかったそうだが、チンゲンサイや豚肉などをフライパンで、トーバンジャンと炒めたものを鍋仕立てにしたものだったらしい。今から40余年以上前のことだ。そのため、和風でありながらも、ほんのり中華風のテイストが香るのが特徴だ。今でも、味は当時のままのレシピだ。「牛肉を入れてみたり、魚で試してみたり、試行錯誤の中でこの味に行き着きました。自分たちが食べて、美味しいと思うもんしか出したらあかんと思ったんですよ」と横山さんは言う。
この名物・野菜鍋を出すのは「小川下」。“おがわした“ではなく、“こかげ"と読む。亡きご主人の出身地である高松にある村の名前からとったのだという。
「戦災で何もかもなくなってしまいました。終戦後にこの九条の地にやってきたんです」と横山さんは当時を振り返る。戦後の九条は松島遊郭や市電発祥の地でもあり、むしろ、今よりも賑わっていたのだそう。「世の中が変わっても、私がいる限り、草鍋は変わりません」と横山さん。それ故、今でも地元・九条の人は勿論、大阪中にこの鍋を懐かしむファンは多い。
大阪しろながたっぷりのヘルシー鍋
具は大阪しろなを中心にニラ、もやし、春雨、豚肉、豆腐の6種類。しろなは、生産者名も分かる府下産のものを厳選している。春雨は煮崩れしにくい中国産の緑豆春雨を使うなど、素材へのこだわりが随所に光る。
しろな以外の具をステンレスの鍋に入れ、その上にしろなをどっさりと盛る。それを、ほんのりと風味のあるダシで炊き上げる。「昆布やカツオは使っていないんですよ。たっぷりの野菜と豚肉から美味しいエキスが出るんです。隠し味は内緒です」と横山さん。じわじわと大盛りの野菜がしんなりして、鍋に収まれば、「そろそろやね」という女将のひとことで、食べごろの合図がある。さっと醤油をひと回し。草鍋が完成する。
とんすいに、濃口醤油を注ぎ、練り辛子を好みで溶き、そこに鍋から少量のダシをすくい入れ、つけながら食す。シンプルだが、これが旨い。「ポン酢ではこの美味しさが伝わらないんです」と横山さん。辛党には一味唐辛子を加えるのがいいだろう。シメは玉子雑炊で、最後まで野菜の旨みをとことん味わう。
変わらないことも大切
昭和45年には一人前250円だった草鍋も今では1400円に。それでも、庶民の懐に優しい価格は嬉しい限り。「しろなの値段は10倍以上になってしまいました。でも、できるだけ、誰でもが食べやすい値段にしたくって」と女将はきっぱり。
昭和の風情を残す店内も懐かしく、居心地の良い空間に、ほっと心が和む。親子三代に渡って、家族でやって来るお客さんのいるそうだ。
「私たち夫婦には、子供がいないので、草鍋は自分たちの子供だと思っているんです。亡き主人と生んで、育てた愛の結晶です。多くのお客さんに可愛がってもらえることが、一番の喜びなんですよ」と横山さんは言う。「昔から同じ味で、進歩や工夫が足りないかと反省することもありますが、変わらない味を大切にしていくのも親心だと思っています」。
野菜が苦手な子供も、ここでは菜っ葉を頬張るという。大阪を代表するこの味を後世まで残していきたいものだ。
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