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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第87話 中井竹山・山片蟠桃
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第87話 中井竹山なかいちくざん (1730 〜 1804年)山片蟠桃やまがたばんとう (1748 〜 1821年)

(懐徳堂「知」の系譜)

大坂の歴史に光る珠玉の「知」の系譜

懐徳堂は大坂の五同志と呼ばれた町人により享保9年(1724)大坂船場に創設され、明治2年(1869)まで存続した学問所である。町人、商人にも為政者なみの教養を身に着けさせるべく、公開講義などを中心に自由闊達に研究・教育活動を展開し、数多くの町人学者を輩出した。そのレベルは当時の世界でもトップクラスであった。

ときは8代将軍吉宗の頃、封建時代にあって貴賤貧富を問わず同輩として遇する画期的な町人のための町人による学問所であった。

「利は義なり」と唱え、商人も武士や農民と同じく義や徳をもって社会に貢献すべきであると商業活動の基本となる倫理を説き、商業活動を正当化し、武士道に比肩する町人道を形成した。

また、先端的な学問に取り組み、近代的英知を輩出した。本書でも三宅石庵、富永仲基、間重富、草間直方を別稿でとりあげたが、本稿では懐徳堂が全盛期を迎えたときの学主・中井竹山と、その弟子で画期的な研究を成し遂げた山片蟠桃を中心に懐徳堂を俯瞰し、そのレガシーが現在どのように受け継がれているのかを述べることとしたい。


中井竹山

初代学主・三宅石庵のあと、2代目学主は石庵の弟子の中井甃庵(なかいしゅうあん)(1693~1758)が継いだ。甃庵は播磨国竜野藩の医家に生まれ、後大坂に移り住んで学業の道に入った人である。彼を助けて教学にあたったのが五井蘭洲。寛保3年(1743)に江戸から懐徳堂に移り住んだ蘭洲の功績も大きい。甃庵の長男の竹山と共に懐徳堂の学問の基盤をつくったのである。

中井竹山は弟の履軒(りけん)と共に五井蘭洲に師事し教導を受けた。天明2年(1782)、竹山は4代目学主に就き懐徳堂の全盛期を築く。

朱子学を基本に据えて幕府の官許学問所となり、竹山は経世の書『草茅危言(そうぼうきげん)』を著し、時の老中松平定信に建言している。参勤交代制度の軽減、武士の世襲的特権であった俸禄制度の廃止、公的な初等高等教育機関の設置、元号の一世一元を提案するなど当時としては思い切った国家制度の改革案であった。

享和4年(1804)75歳で病没。


山片蟠桃

商人を中心とした懐徳堂の門人たちの中で、学問的レベルを第一級の水準にまで高めたのは山片蟠桃と草間直方であろう。

山片蟠桃は寛延元年(1748)に播州印南郡神爪村(かづめむら)(現在の兵庫県高砂市米田町)に生まれた。本名は長谷川、幼名は惣五郎、堂島の米仲買の升屋に丁稚奉公に出た。升屋当主2代目山片平右衛門重賢に目をかけられ、13歳になった蟠桃を懐徳堂に通わせ、以後蟠桃は商家に勤めながら熱心に懐徳堂で学んだ。教学の中心であった中井竹山、その弟の履軒に生涯の師として師事した。

安永元年(1772)、蟠桃は本家の支配番頭となり経営手腕を発揮し仙台藩の財政危機を救ったほか、全国の50もの藩と取引を持つ大名貸になった。

大坂経済界に重きをなす一方、懐徳堂でも中井竹山門下の諸葛孔明と呼ばれるほどの学識研究を重ね、享和2年(1802)『宰我(さいが)の償い』と題する論文(のちに『夢(ゆめ)の代(しろ)』と改題)の執筆を始めた。

まず天文地理について述べ、地動説や太陽系以外の宇宙の存在、さらに他の惑星にも生物が存在する可能性についても言及している。師の中井履軒の天文学を受け継ぎ、独自の発想を加えたのであろうか。

また、地球の上の日本の位置を示す世界地理を紹介するなど、実証的な洋学の知識に基づき合理的思考を展開している。合理主義的思考から歴史についても実証的な史観の立場をとり、神の存在について無鬼論をとなえ、霊魂の存在を否定し、神道や仏教の非合理性を論じ、一切の迷信を排除した。

法律、経済面でも鋭い批判の眼を向けている。経済人としての実務経験が学問として昇華され、高いレベルの論文となっている。

晩年、蟠桃は眼疾に苦しみ失明同然となり、文政4年(1821)74歳で世を去った。


知的ネットワークの形成

懐徳堂全盛期には江戸の昌平坂学問所に匹敵する勢いを誇り、関西に立ち寄る文人は必ず懐徳堂を訪れたという。当時の大坂は近世経済の中心地であるとともに知的交流の拠点でもあった。多くの知識人が懐徳堂の人々と交わった。頼山陽、広瀬旭荘、麻田剛立などである。混沌社や木村蒹葭堂のような文人グループも加わった。こうした知的ネットワークの水脈が受け継がれ、幕末の緒方洪庵による適塾へと繋がっていく。まさに大坂が何よりも自覚すべき珠玉の知の系譜である。

幕末の動乱を経て明治維新を迎え、明治2年(1869)、懐徳堂は144年の歴史に幕を下ろす。最後の学主となった並河寒泉は去るに当たり一首したため門前に掲げた。

「百余り四十路四とせのふみの宿 けふを限りとみかへりて出ず」

無念と諦めが交錯した心情が偲ばれる。


フィールドノート

懐徳堂跡に立つ

大阪メトロ淀屋橋駅で降りて御堂筋を南に向かって歩くと、東側に日本生命ビルがある。その南面の壁に懐徳堂跡の記念碑が壁面に埋め込まれている。

今でもこのあたりは大阪の中心地だが、江戸時代も淀屋があったところで船場の豪商が軒を連ねていた。のちにこの50mほど東に緒方洪庵が適塾を開くことになるのだが、街の目抜きの場所に学問所をドーンと置くというところに、当時の志をもつ町人の心意気が伺える。

国立民族博物館館長だった梅棹忠夫氏が、「大坂を商都と呼ぶなかれ」と強く戒めていたことを思い出す。大坂は世界的に見ても第一級の〝文化学術都市〟であった、という訳である。


誓願寺にて

近鉄・大阪上本町駅から北へ400mほどのところにある誓願寺に、中井一族の墓所がある。

懐徳堂の144年の歴史は、中井一族の貢献なしには語れない。

学主2代目、4代目、5代目、6代目が中井家から出ている。わけても4代目竹山のころ懐徳堂は黄金期をむかえた。

草創期から全盛期、そして明治維新を迎えるまで懐徳堂を背負った当事者がここに眠っている。


大阪商工会議所前にて

この場所に重建懐徳堂があった。一旦幕を閉じた懐徳堂の再興を求める運動が40年を経て沸き起こり、明治43年(1910)懐徳堂記念会が設立され、大正5年(1916)ついに重建懐徳堂学舎が再建されたのである。中心的役割を果たしたのは朝日新聞記者(のちに京都大学講師)の西村天囚と中井竹山の曾孫の中井木菟麻呂(つぐまろ)であった。彼は保管していた中井家の膨大な資料を提供し、急速な近代化で忘れられつつあった日本の精神的基盤の復活を追求したのだった。


大阪大学中之島センター

大阪市北区中之島4丁目に大阪大学中之島センターがある。ここは大阪帝国大学が最初に置かれたところである。玄関を入るとまず懐徳堂の展示が目につく。

「学に努めて以て己を修め、言を立てて以て人を修む」と彫り込まれた中井竹山の筆になる竹製の聯(れん)は、懐徳堂の玄関柱にかけられていたものだ。膨大な関係資料は幸い現存しており、豊中市にある大阪大学附属図書館に懐徳堂文庫として保管されている。戦後、大阪大学に懐徳堂関係資料、書籍や器物など3万6千点が寄贈されたのである。

調査研究活動が文学部懐徳堂研究センターで継続的に実施され、懐徳堂記念会とともに講演や展示活動も活発に行われている。


大阪大学文学部

懐徳堂の精神的伝統を受け継いで研究や教育を行っている大阪大学は、学内だけに閉じこもるのではなく、広く社会と未来のために研究を役立てようと様々な活動を展開している。

豊中市待兼山町の文学部を訪ねた。玄関ホールに入るとまず展示されている重建懐徳堂の50分の1サイズの精密な復元模型が眼につく。

大正時代から昭和初期にかけて、この建物で講義、講演が連続開催され、大阪の市民大学・文化大学として貢献したのだが、昭和20年(1945)大阪大空襲で焼失した。

ただ幸いなことに敷地の一角にあったコンクリート製の書庫は焼け残り、貴重な資料、書籍類は焼失を免れた。

文学部には懐徳堂記念会の事務局が置かれ、大阪大学の教授陣による市民講座が年間述べ62講座開かれている。テーマは幅広く歴史、詩、論語、芸能、文化など興味深い内容で、聴講者数は年間延べ2千人にのぼる。


懐徳堂文庫と湯浅邦弘教授



湯浅教授は懐徳堂研究センター長を経て、現在、懐徳堂記念会の理事・事務局長を務めている。講演会、資料の展示会を積極的に展開し、研究活動をまとめた冊子『懐徳堂研究』を創刊したほか、懐徳堂の諸情報を網羅した『懐徳堂事典』(大阪大学出版会)を刊行するなど、懐徳堂の顕彰に努めている。

文学部に隣接する附属図書館の懐徳堂文庫に案内して頂いた。空調完備の文庫内は整然と分類され、大切に管理されていることを実感する。

「特に力を入れているのはデジタルアーカイブスです。5万点に及ぶ資料や画像をデータベース化して広く公開したいと思っています」

「この文庫はまさに日本における近代合理主義的思考に基づく実学の創生期のエッセンス、結晶です。日本にここしかない貴重な文庫です」と湯浅教授は語る。

中井履軒が板を切り取って手作りした木製回転式天体図の実物も特別に見せてもらった。懐徳堂では座講だけではなく科学や医学の実験もしていたのだ。

また、大阪大学は懐徳堂の精神を現代に生かすため、大学の教育や研究を社会と連携して進める活動を行っている。「21世紀懐徳堂」と名付けて大阪の都心部で講座を開くなど、新しいムーブメントとして注目される。


懐徳堂と心学明誠舎

懐徳堂記念会編の『懐徳堂知識人の学問と人生』(和泉書院2004)に京都大学教授(当時)の辻本雅史氏が「梅岩心学と懐徳堂知識人」という一文を書いている。

享保という時代の変革期に登場した懐徳堂と石門心学には多くの共通点がある。老中松平定信は中井竹山に学ぶ一方石門心学にも大いに興味を示していた。

またこの時代、庶民にも期せずして学ぶことへの強い衝動があったこと、共に人のために尽くすことが、人の人たる道であると主張し、その精神的系譜が両者ともに連綿と今日に至るまで継続していると指摘している。

そして懐徳堂と石門心学には異なった特徴があるものの、共に上方庶民の社会的活動エネルギーが二つの側面として発露されたと結論付けている。


山片蟠桃の顕彰

司馬遼太郎(1923~1996)の提案で、昭和57年(1982)に「山片蟠桃賞」が大阪に設けられた。「日本文化の国際的通用性を研究した国外の学術者に授与する賞」とされ、第1回はドナルド・キーン氏が受賞した。以後、第8回テツオ・ナジタ氏、第20回ジョン・ダワー氏などが受賞し、2019年で第26回を迎える。

また、出生地である兵庫県高砂市では山片蟠桃顕彰碑が建てられ銅像が立っていて、高砂市のホームページでも紹介されている。

取材を通じて、18世紀初頭、元禄バブルが崩壊し享保の改革が始まったとき、京・大坂で起こった町人による学びのムーブメントが、やがて世界第一級の知的ネットワークを形成するに至ったことを改めて確認することができた。

その水脈が受け継がれ、適塾に学んだ人材が近代日本の夜明けを牽引し、その基盤の上に、いまや先端科学の分野で大学、研究所、企業が関西に集積してクラスターを形作り、未来の日本の希望の光となっている。そうしたことを考えると伝統の力というのはやはり偉大で重要だとつくづく感じた次第である。



2019年2月

堀井良殷



 

≪協力≫
 ・大阪大学懐徳堂研究センター


≪参考文献≫
 ・湯浅邦弘『懐徳堂の至宝 ―大阪の「美」と「学問」をたどるー』(大阪大学出版会・2016)
 ・懐徳堂記念会『懐徳堂 ―浪華の学問所―』(大阪大学出版会・1994)
 ・懐徳堂記念会『懐徳堂知識人の学問と人生』(和泉書院・2004)
 ・脇田修、岸田知子『懐徳堂とその人びと』(大阪大学出版会・1997)
 ・懐徳堂記念会『懐徳』第86号(懐徳堂記念会・2018)


≪施設情報≫
○ 懐徳堂跡レリーフ
   大阪市中央区今橋3–5 日本生命保険ビル南壁面
   アクセス:大阪メトロ「淀屋橋駅」8番出入口横

○ 誓願寺
   大阪市中央区上本町西4–1–21 
   アクセス:近鉄「大阪上本町駅」より徒歩約5分

○ 大阪大学中之島センター
   大阪市北区中之島4–3–53
   アクセス:京阪中之島線「中之島駅」より徒歩約5分

○ 大阪大学文学部・附属図書館
   大阪府豊中市待兼山町1–5
   アクセス:阪急宝塚線・箕面線「石橋駅」より徒歩約15分

○ 山片蟠桃顕彰碑
   兵庫県高砂市荒井町千鳥1–1–1 
   アクセス:JR山陽本線「宝殿駅」より徒歩約15分

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